「……宗太郎の言いたいことは分かるけど、証拠はどこにもないよね……?」

 善樹の声は震えていた。ここぞという場面で踏ん張れる力はあると思っていたのだが、想定外の出来事に動揺してしまっている。

「そりゃ、証拠はないけど。それを言ったら、このディスカッション内で証拠を見つけるのは無理じゃないかな。警察にでも行かない限り。会社側だって、証拠を求めてるわけじゃない。いかに納得のある答えを導き出せるか。ですよね、今田さん?」

 宗太郎が、ディスカッション中に初めて今田のことを呼んだ。今田は「はい」とも「いいえ」とも言わず、ただ黙って宗太郎の目を見つめ返している。社員が途中で議論に口出しをすることはない。初めに言われた通りだった。
 宗太郎は「ほら」と勝ち誇った笑みを浮かべる。今田の目からすれば、今のところ宗太郎が優勢のように見えるだろう。なんとか、自分が犯罪者ではないと主張しなければ……。善樹は焦りで手に汗が滲んだ。

「あの、私も、林田くんの意見に賛成です。根拠は自分史と、みなさんの証言です。林田くんの言う通り、自分史でしきりに自分が正しいと思ったことを書いているのが、なんだか胡散臭いです。林田くんと長良さんは元々知り合いだったようですが、お二人からも正義感が強いというエピソードがありましたし。弟さんのことになると、頭に血が昇ってカッとなってしまう……そういう一面があってもおかしくありません」

 友里までもが善樹のことを疑い始める。宗太郎の言い分を繰り返しているだけだが、四人中二人が同じ意見となると、自分の立場が危ういことは明らかだった。
 くそ……。
 善樹の中で、闘争心に火がついた。
 このままでは自分が犯罪者だという結論に終わってしまう。明日の発表では四人とも今の二人の意見と同じ話をして、審査員を納得させてしまうかもしれない。事実、善樹は犯罪者ではない。ということはこの中に嘘をついている人がいるのだ。それなのに、自分が疑われている。善樹の中で、あまりにも由々しき事態であることは間違いない。

 自分は小学校から大学まで、常に人として、真っ当な道を歩いてきたはずだ。
 正しいと思ったことは曲げなかったし、間違ったことをしている人には堂々と意見してきた。いつの瞬間も、簡単なことじゃなかった。時に鬱陶しいやつと思われたり、面識のない人から罵声を浴びせられたり。けれど、善樹のしてきたことは間違っちゃいない。全部正しいはずなんだ——。

「俺は逆に、宗太郎くんが怪しいと思うけどなあ〜」

斜め前から声が上がった。開が、ニヒルな笑みを浮かべて宗太郎の方を見ている。

「僕のどこが怪しいんですか?」

「いやーほら、保育園時代のところに『女の子からよくモテた』って書いてある。そんなこと、企業のインターンシップで提出する自分史に書く必要あるのかな。しかも書いてるのは保育園時代だけ。でもさ、きみって、今もずっとモテるんじゃない? 顔も頭もいいでしょ。俺が女子だったら好きになっちゃうかも。……で、わざわざ保育園時代のところにだけ書いて、『◎』じゃなくて『△』だし。これってさ、つまりこういうことでしょ。『昔はモテたんだけど、まあそんなに嬉しくはなかったかなw』って言いたいんだろ。すごいプライドが高そうだって思ったんだけど」

 挑戦的な開の台詞に、宗太郎の眉毛の端がぴくりと持ち上がる。

「プライドが高いことは、悪いことかい?」

「ふっ、そこに反応するんだ。いや、悪いことだとは思わない。でもプライドを守るために、ろくでもないことをするやつだっている
じゃないか」


「……たとえばどんな?」

「そうだな。たとえば大学受験の時に、カンニングをしちゃうとか。不合格は不名誉なことでしょ。それを阻止するためにやってしまうかもしれない」

「カンニングって犯罪なんですか?」

 友里がすかさずつっこむ。

「そうだ。カンニングが犯罪かどうか、分からないじゃないか」

 宗太郎の声がどんどん硬くなっていく。焦っている。先ほどまで窮地に立たされていたのは善樹であったはずなのに、形勢逆転とい
ったところか。

「……カンニングや替え玉受験は、偽計業務妨害罪に該当する可能性がある」

 善樹は静かに、宗太郎の問いに対する答えを呟いた。開が「ほら」と得意げに言った。今、宗太郎・友里vs開・善樹という構図が出来上がっていた。ただ一人、美都だけが出方に迷って困惑の色を浮かべていた。

「みんな、そろそろ時間が」

 白熱した議論を繰り広げているうちに、残り時間が十分に迫っていた。

「長良さん、きみはどう思うんだい?」

 宗太郎の鋭い視線が美都の方へと向けられる。彼女の額から、一筋の汗が流れ落ちた。

「私……私は、まだ考えがまとまらなくて。でも、書かれてることより、“書かれていないこと”が気になってます」

 書かれていないこと。
 昨晩、善樹が考えていたことと同じことを美都が口にした。
 誰しも、犯罪を犯したような過去があるならば、隠したいと思うだろう。たとえ今回の課題の内容を知らなくても、自分ならそうする。だからこそ、美都も善樹も「書かれていないこと」に注目したのだ。

「自分史には犯罪のことなんて、書きませんよね。それを示唆するようなことも、私だったら書かないかなって……。そう思うと、さっき皆さんが指摘していた林田くんや善——一条くんの自分史には犯罪者かもしれないって疑われそうな記述があるから、逆に違うのかなって思ってるんです」

 美都の言葉に、全員がごくりと息をのんだのが分かる。自然と、テーブルの上に並んだ自分史に、目がいっていた。

「てことは、長良さんは俺と、坂梨さんが怪しいと思ってるわけ?」

 開がずばり核心をつくようなことを聞いた。

「そこまでは言ってないけれど、今の話だけだと、そういうことになりますね」

 そこで、十二時を告げるタイマーが鳴り響いた。今田がタイマーを止めに席を立ち上がる。ピッという小気味良い音を響かせて、タイマーは止まった。今田が善樹たちの方を振り返る。そして、美都の方を一瞥して一言、

「良い意見でしたよ」

 と言って、部屋から去っていった。
 今田が善樹たちの議論に対して何らかの意見を言ったのはそれが初めてで、善樹はしばらく呆然と今田が去っていった方を眺めた。

「今の、なんだったんでしょうね」

 友里が首を傾げている。みんな同じ気持ちだ。

「口出ししないって言ってたのに、急に気が変わったのかな?」

「あれぐらいのコメントは口出しに入らないんじゃない?」

 そうかもしれない。今のは、今田の気持ちが不意に漏れてしまった、と解釈するのが自然だろう。宗太郎や開ではなく、美都にだけ「良い意見」だと言ったのは気になるところではあるが。あまり深く考えても仕方ない。それよりお腹が空いた。善樹は他のメンバーと共に、食事会場へ向かうのだった。