それから私たちは再び一階へと降りて、世間話を少しして鳴海家を後にすることになった。帰る頃には江川くんともすっかり打ち解けて、年上のお兄さんというより同級生の友達と話している感覚になっていた。やっぱり彼と私は友達だった。私だけが知っている特別な記憶だけれど、彼と過ごした日々も、忘れたくないと思う。
「あ、そういえば俺、美雨ちゃんに渡したいものがあるんだった」
私とお母さんが玄関で靴を履いていると、江川くんがガサゴソと鞄の中を漁り始めた。桜晴のお母さんに引き続き、初対面の江川くんからもそんなことを言われて驚く。
「はい、これ」
彼が手にしていたのは、一枚の封筒だった。
真っ白な封筒に、「美雨へ」という宛名だけが記されている。既視感のある字に、心臓が跳ねた。
「これは……?」
「ああ、桜晴が、高二の修学旅行の日の朝に、俺に渡してきたものなんだ。『もし、この先いつか有坂美雨って女の子に会うことがあったら渡してほしい』って。俺、意味が分からなくてさ、有坂美雨って子の名前を初めて聞いたし、そもそもどうして俺にそんなことを託すのかって、聞いた。でも桜晴は曖昧に誤魔化すだけで、何も教えてくれなかった。とにかくいつか、彼女に渡してほしい。渡せなかったら、墓場まで持って行ってって。今考えると突飛なお願いだよな。でもさ、なんかその時の桜晴……すごく思い詰めた顔して、真剣だったから。俺は『分かった』って半分冗談みたいに笑って受け取った。まさか、その日のうちに桜晴があんなことになっちまうなんて思ってもみなくて……。あいつはもしかしたら、自分の死を予感してたのかもしれないって後から考えたよ。真相は闇の中、だけどな。でも本当に、美雨ちゃんに会う日が来るとは思わなかったよ」
「桜晴が……」
軽い冗談だと、私も思った。
桜晴は修学旅行の朝、覚悟を決めてこの手紙を私に認め、何も知らない江川くんに託した。ともすれば手紙はずっと渡されることもなかったかもしれない。それでも、彼はこうして想いを残してくれた。その事実に、込み上げてくるものを抑えきれなかった。
「美雨ちゃんっていうのが、桜晴の心臓をもらって生きている子だって知って、これまたびっくりしすぎて心臓が止まりそうになったよ。本当、桜晴は予知能力があるんだって信じちまった。……これはさ、今まで誰にも言えてなかったことなんだけど」
江川くんは私と私のお母さん、それからそばでじっと話を聞いている桜晴のお母さんの方を見ながら言った。
「修学旅行の日——バスがスリップしてガードレールに突っ込んだ時……俺は桜晴の隣に座ってたんだ。衝撃があった時、桜晴は咄嗟に俺に覆い被さった。事故を予見していないとできないようなタイミングで。……運悪く、桜晴の頭がちょうどガードレールにぶつかっちまって……。桜晴は俺の代わりに、死んじまった。俺は怖さと罪悪感で、そのことを誰にも言えなかった。桜晴は俺の命を守ってくれたのに。今まで黙ってて、本当にごめんなさい」
江川くんが手にしていた白い封筒に、彼の涙がポタポタと落ちて、滲んでいく。私は彼の手からすっとその封筒を受け取る。彼ははっとして私を見た。私は、涙に濡れた封筒を胸の前でぎゅっと握りしめる。
「そんなことがあったんだね。きっと、辛かったよね。この手紙、今日まで持っていてくれてありがとう。桜晴……くんはきっと、江川くんのことを守れたことを、誇りに思ってるよ」
私は、精一杯の言葉を絞り出して、彼に大切な想いを伝えた。
桜晴のお母さんが、江川くんの背中をそっと撫でる。彼女も鼻を啜りながら涙ぐんでいた。
「鳴海さんに、江川くん、今日はお忙しいところ、本当にありがとうございました。また来年も、迷惑でなければ来させてください」
「迷惑だなんてまったく。こちらこそ、またいらしてください」
母親同士が頭を下げて、私も桜晴のお母さんと江川くんに向かってお辞儀をした。手には桜晴からの手紙を大切に握りしめて。
私とお母さんは静かに鳴海家を後にした。
「あ、そういえば俺、美雨ちゃんに渡したいものがあるんだった」
私とお母さんが玄関で靴を履いていると、江川くんがガサゴソと鞄の中を漁り始めた。桜晴のお母さんに引き続き、初対面の江川くんからもそんなことを言われて驚く。
「はい、これ」
彼が手にしていたのは、一枚の封筒だった。
真っ白な封筒に、「美雨へ」という宛名だけが記されている。既視感のある字に、心臓が跳ねた。
「これは……?」
「ああ、桜晴が、高二の修学旅行の日の朝に、俺に渡してきたものなんだ。『もし、この先いつか有坂美雨って女の子に会うことがあったら渡してほしい』って。俺、意味が分からなくてさ、有坂美雨って子の名前を初めて聞いたし、そもそもどうして俺にそんなことを託すのかって、聞いた。でも桜晴は曖昧に誤魔化すだけで、何も教えてくれなかった。とにかくいつか、彼女に渡してほしい。渡せなかったら、墓場まで持って行ってって。今考えると突飛なお願いだよな。でもさ、なんかその時の桜晴……すごく思い詰めた顔して、真剣だったから。俺は『分かった』って半分冗談みたいに笑って受け取った。まさか、その日のうちに桜晴があんなことになっちまうなんて思ってもみなくて……。あいつはもしかしたら、自分の死を予感してたのかもしれないって後から考えたよ。真相は闇の中、だけどな。でも本当に、美雨ちゃんに会う日が来るとは思わなかったよ」
「桜晴が……」
軽い冗談だと、私も思った。
桜晴は修学旅行の朝、覚悟を決めてこの手紙を私に認め、何も知らない江川くんに託した。ともすれば手紙はずっと渡されることもなかったかもしれない。それでも、彼はこうして想いを残してくれた。その事実に、込み上げてくるものを抑えきれなかった。
「美雨ちゃんっていうのが、桜晴の心臓をもらって生きている子だって知って、これまたびっくりしすぎて心臓が止まりそうになったよ。本当、桜晴は予知能力があるんだって信じちまった。……これはさ、今まで誰にも言えてなかったことなんだけど」
江川くんは私と私のお母さん、それからそばでじっと話を聞いている桜晴のお母さんの方を見ながら言った。
「修学旅行の日——バスがスリップしてガードレールに突っ込んだ時……俺は桜晴の隣に座ってたんだ。衝撃があった時、桜晴は咄嗟に俺に覆い被さった。事故を予見していないとできないようなタイミングで。……運悪く、桜晴の頭がちょうどガードレールにぶつかっちまって……。桜晴は俺の代わりに、死んじまった。俺は怖さと罪悪感で、そのことを誰にも言えなかった。桜晴は俺の命を守ってくれたのに。今まで黙ってて、本当にごめんなさい」
江川くんが手にしていた白い封筒に、彼の涙がポタポタと落ちて、滲んでいく。私は彼の手からすっとその封筒を受け取る。彼ははっとして私を見た。私は、涙に濡れた封筒を胸の前でぎゅっと握りしめる。
「そんなことがあったんだね。きっと、辛かったよね。この手紙、今日まで持っていてくれてありがとう。桜晴……くんはきっと、江川くんのことを守れたことを、誇りに思ってるよ」
私は、精一杯の言葉を絞り出して、彼に大切な想いを伝えた。
桜晴のお母さんが、江川くんの背中をそっと撫でる。彼女も鼻を啜りながら涙ぐんでいた。
「鳴海さんに、江川くん、今日はお忙しいところ、本当にありがとうございました。また来年も、迷惑でなければ来させてください」
「迷惑だなんてまったく。こちらこそ、またいらしてください」
母親同士が頭を下げて、私も桜晴のお母さんと江川くんに向かってお辞儀をした。手には桜晴からの手紙を大切に握りしめて。
私とお母さんは静かに鳴海家を後にした。