「こんにちは」

 中から現れた桜晴のお母さんが私とお母さんを見て淡く微笑む。二週間前と——いや、三年前と変わらないよう見えたけれど、よく見ると目尻の皺が少しだけ増えている。過ぎ去った年月の長さを痛感して私は一瞬彼女から目を逸らしてしまった。

「鳴海さん、何度も押しかけてすみません。お忙しいでしょう」

「いえいえ、とんでもないです。私が美雨さんに会いたいと言ったんですから」

 桜晴のお母さんは、そう言いながら再び私の方を見た。その瞳が慈愛に満ちていて、ぎゅっと胸が締め付けられた。二週間前まで、本当のお母さんだと思って接してきた人が、赤の他人として目の前に立っている。

「あなたが美雨さんね。初めまして、鳴海桜晴の母です。遠いところからよく来てくれたわね。どうぞ上がって行ってください」

「初めまして、有坂美雨です。お邪魔します」

 恭しく一度頭を下げて、再び顔を上げる。桜晴のお母さんは先ほどと変わらず、感慨深そうに私を見ていた。
 お母さんと二人で鳴海家の家に上がった。見慣れた玄関は、どこかよそよそしい。

「こんにちは、初めまして」

 リビングに入ると、男の子が家にいた。一瞬弟の秋真かと思って懐かしさに浸りかけたが、違う。秋真じゃない。
 端正な顔立ち、すっと通る鼻筋——三年分歳をとって大人になってはいるが、記憶の中の彼と重なる。

「江川くん……?」

 思わず口に出してしまったあと、すぐに口を噤む。

「え、俺の名前知ってるの?」

 困惑した様子の江川くんが、驚いたまなざしをこちらに向けていた。私は咄嗟に「すみませんっ」と否定する。

「……彼の夢を、見るんです。その中であなたに似た人が、友達として出て来たから」

 言い訳にしては苦しかった。でも、江川くんは「ああ、なるほど」と神妙に頷いた。

「心臓移植をした後って、その人の記憶の一部を見ることがあるって、何かの本で読んだことがあるよ。本当にそんなことがあるのか疑問だったけど、実際あるみたいだね」

「は、はい……」

 良かった。なんとか怪しまれずに済んだ。
 前に一度、桜晴が中学生の頃の夢を見たことがある。それも、彼の心臓が私の身体の中で生きていたからなんだと妙に納得がいった。

「良かったら、息子にお線香上げてやってください」

 桜晴のお母さんに促されて、私たちは和室に入る。仏間には、当たり前だが桜晴の遺影が飾られていた。今まで、鏡の中でしか見たことのない彼の顔だ。色白の肌が透き通るように艶めいていて、まるで本当に彼が写真の中にそのまま閉じ込められているみたいだった。遠慮がちに笑うその笑顔は、私が想像していた彼にばっちりはまっている。
 桜晴の写真の前で手を合わせて、祈った。

 助けられなくて、ごめんね。
 命をくれて、ありがとう。
 どうか安らかにお眠りください——。

 心の中で強く念じていると、不思議と桜晴が本当に逝ってしまったのだと自覚することができた。ふわふわと不安定だった気持ちが、すとんと着地して、現実を受け入れようとしている自分がいる。とても不思議な感覚だった。

「ありがとうございます。桜晴も浮かばれると思います」

 目尻に涙を溜めながら、桜晴のお母さんが微笑む。
 きっと、彼が亡くなって三年が経つまでの間に、いろんな葛藤があっただろうな……。
 こうして穏やかな表情で私のことを迎えてくれるのは、桜晴のお母さんの中で心の整理がついている証拠だった。

「良かったらお茶淹れますよ。江川くんも、そこ座ってちょうだいね」

「ありがとうございます」

 私たち三人は頭を下げて、食卓につく。三年歳上の江川くんと、こうして顔つき合わせて正面に座るのはこそばゆい感覚だった。ついこの間まで、教室でクラスメイトとして仲良くしていた間柄なのだ。向こうはそう思っていなくとも、私の心臓は激しく暴れていた。

「あの、有坂美雨さんですよね。俺、なんか初めて会った気がしないんだけど、気のせいかな」

「えっと……気のせいだと、思います」

 私の真面目な回答に、ぷっと吹き出す江川くん。そうだ。気のせいということにするしかない。私は成績優秀でスポーツ万能、クラスの人気者だったあなたのことをよく知ってるけれど、あれは夢の中での話だったのだ。

「まあ、そうだよね。変なこと言ってごめん」

 江川くんは笑いながら頬を掻く。やがて桜晴のお母さんが温かいお茶とお饅頭、それから蒸しパンを持ってきた。途端、私の涙腺がゆるむ。涙がこぼれないように、必死に目に力を込めた。