言いようもない喪失感に襲われながら、あれは一体なんだったんだろうとぼんやりと考えながら過ごしていた。
 やがて三年生になり、僕はあの少年と同じように、クラスでちょっとしたいじめを受けた。原因は僕の吃音だ。そこまで酷いものではなかったが、この時僕は再び、誰かと人生を入れ替わりたいと思ってしまった。でも、部屋の中でどれだけ祈っても入れ替わりは起きない。試しに久しぶりに生命橋にやって来て、「もう一度誰かと人生を入れ替えてください」と願った。
 すると、今度は四十代ぐらいの主婦と入れ替わることに成功したのだ。

 僕は以前のように互いにノートを書きながら近況を報告し、入れ替わりの人生を楽しんだ。入れ替わった先では、自分が自分でなくてもいい。他人の人生を適当に過ごすだけで一日が過ぎていく。そんな快楽に、僕は夢中になった。
 しかしこの時の入れ替わりも、ある日突然終わってしまった。
 今度も向こうがノートに、「三年前に夫に不倫をされて鬱になった」と過去のパーソナルな一面を明かした後だった。一週間後、僕たちの入れ替わりは強制終了させられたのだ。

 二度の入れ替わりを経験して、僕はなんとなく入れ替わりのルールが分かってきた。
 入れ替わりは、お互いが望んだ時に発生すること。
 僕の場合は生命橋で願った時にしか入れ替わりは起きないこと。
 午前八時に始まり、午後八時には終了すること。
 おそらく、過去の自分のパーソナルな一面を打ち明けると、一週間後に入れ替わりが強制終了してしまうこと。

 ざっと並べてみたところ、こんな感じだろう。
 以来僕は、このルールを頭の片隅に置いて、何度も入れ替わりに挑戦した。もちろん、生命橋で願っても、入れ替わることができなかったこともある。入れ替わる相手がいなかったということだ。入れ替わりは双方が願った時でないと成立しないから、入れ替われる方が奇跡という他はない。
 時々入れ替わりが成立すると、僕は他人の人生を生きることを楽しんだ。
 不思議なことに、入れ替わった先では吃音が発症することはなかった。自分ではない別の誰かになりきることで、吃音の原因になっていたストレスも振り切ることができたのだろう。
 相手の方も、僕と入れ替わることで精神的に救われたと言ってくれることもあった。
 僕の人生なんて他人に譲れるような代物じゃないと思っていたけれど、実際に入れ替わりで感謝をしてもらえると、鼻高々な気分になれた。
 僕はこうして、今日も誰かと人生を入れ替えることを願う。
 さあ、次は誰と入れ替わるんだろう。
 まだ見ぬ相手の姿に思いを馳せながら、ホワイトアウトした視界の中で、僕は意識を宙に飛ばした——。