その日の夜、自分の世界へと戻った私は、椅子に座って机に向かっていた。
ノートを開くと、これまで桜晴が書いてきたメッセージがずらりと並んでいる。私はそのどれもに、返事を書けていない。すべて一度目を通しているが、今この瞬間にもう一度見ると、胸が張り裂けそうだった。
『美雨、僕はきみの気持ちを最後まで尊重するつもりだよ』
『何があったのか、少しずつでいいから教えて欲しい』
『……僕じゃ頼りないかな?』
『美雨のこと、信じて待ってる』
桜晴は一度たりとも、私に文句を言ってきたり怒ったりしなかった。今もきっと、不安な気持ちを抱えたまま夜を過ごしている。
私はそんな優しい桜晴の心を、蔑ろにしていたんだ……。
ノートに向かって、『四月十六日』と日付を入れる。このメッセージを読む明日の桜晴にすべてを伝えるために。ゆっくりと、ペンを動かし始めた。
『桜晴へ
ずっと返事が書けなくてごめんなさい。気持ちが定まらないまま文字を書くことに抵抗がありました。私は桜晴の世界で、変わらず元気にやっています。友人関係も良好です。その点は心配しないでください。
そして、今から私があなたに伝えなければならないことを、書こうと思います。ここから先は、桜晴にとってとても苦しく、辛い事実が書かれることになります。私の過去にも触れる話になるので、入れ替わりが終わってしまうことも覚悟しなくちゃいけません。それでも私は、桜晴に伝えなければならないと思い、筆を取りました。
どうか、あなたの気持ちを優先して、読むか読まないか決めてほしいです。
あなたが私の気持ちを一番に考えてくれたように、あなたも自分の気持ちを一番大事にする権利があります。だから、決心がついた時だけ、読み進めてください』
震える手を押さえながら、ゆっくりとページを捲る。この先を桜晴が読んでくれるかどうか、彼の意思にかかっている。もし読んでもらえなかったら、それが彼の選択ということだ。私は静かに、彼の選択を受け入れよう。
『ページ、めくってくれたんだね。ありがとう。今から、本当に大切なことを話すね。先に書いた通り、桜晴には辛い内容だと思う……。それでも大切なことだから、伝えることに決めました。どうか最後まで、聞いてほしい。
私が心臓の病気で、移植をしたってことは、桜晴も知ってるよね。お母さんと病院に行った時に、気づいたと思います。そのことをあえてノートに書かずに、過去の話に触れないでおこうとしてくれた気遣いも理解してるつもりです。その上で、私は伝えたいことがあります。
私は七歳の頃から心臓の病気を患っていました。
お父さんも同じ病気で、私が五歳の頃に亡くなってしまって……。だから、病気が発覚した時はお母さんと抱き合って泣きました。
それからの生活は本当に大変で。調子が良い時は学校に行って、悪い時は入院をする、そんなあべこべな生活の繰り返しでした。もう気づいてると思うけど、心臓が悪いから体育の授業はずっと欠席してたんだ。そのせいで運動が全然ダメでね。桜晴にもきっと迷惑かけたよね。でも運動会でちゃんとダンスを踊りきれたって聞いたときはすごく嬉しかった。頑張ってくれたんだなって思って、泣きそうになったよ。
話を戻すね。
心臓の病気が治ったのは、二〇二五年四月——中学二年生の春でした。ちょっと前から、もう永くないかもしれないと宣告されている時期だったんだけど、ご存知の通り、移植をしてね。正直、心臓移植なんてほとんど諦めてたの。移植を希望する人で何年も待ち続けている人を知っていたし、実際私も長い時間待ってた。移植を待ってることすら忘れるくらいの時間が経って、突然ドナーが現れたっていう知らせを受けたの。
それで……私は移植手術に成功した。そこからは嘘みたいに元気になって、普通に学校に通えるようになった。体育も、少しずつできるようになって、今の私がある。あの時移植をしていなかったら、きっと私もお父さんと同じように死んじゃってたと思う』
私は、そこでいったん文章を切った。心臓がうるさいくらいに激しく動いていて、これから桜晴に与える衝撃を、自分が先にくらっているような心地にさせられた。
『だから移植をしたこと自体、私は後悔をしていません。ドナーの人にもすごく感謝してる。手術の時ね、お母さんはドナーのことをあまり詳しく教えてくれなかったの。……修学旅行中にバスで事故に遭った男の子、としか聞かされてなくて。きっと私を気遣ってのことだと思う。でも最近、私はどうしても気になってドナーのことをお母さんに聞いちゃったんだ。
私の心臓のドナーは……桜晴、あなたなんだって』
心臓が暴れている。桜晴が泣いているのだ。彼の叫びが彼の心臓を通して伝わってきて、気がつけば私の方が大量の涙を流していた。
「桜晴……」
やるせない気持ちはいつだってついて回る。たとえ彼に真実を伝えても、誰も幸せにならないことぐらい分かっている。それでも私はペンを握り続けた。
『すごく、びっくりしたよね。自分の一週間後の未来が、こんなことになるなんて想像するだけで辛いよね……。本当にごめんなさい。
だけど私は、桜晴の命を救いたい。
自分の命に代えてもいいって思える人に出会えた。
私は桜晴のことが……どうしようもなく好きなんだ』
すっと心のもやが晴れたみたいな気分になって、静かにペンを置いた。とめどなく溢れる涙は未だ手元を濡らして、ノートの紙をふやかしていく。それでも、ようやく桜晴に真実を伝える決心がついたことで、自分の中で一つの覚悟が決まった。
今日から一週間後に、桜晴との入れ替わりが終了する。
修学旅行はちょうど一週間後の四月二十四日からだ。
入れ替わりが終わるのが修学旅行の初日なら、修学旅行に行くかどうか、桜晴の身体に入り込んだ私が決めることができる。
「旅行に行かなければ、救えるかも——」
たったひとり、大切に思う人の命を救うためなら、私はもう迷わない。
自分の命さえ、惜しくないと思ってしまった。
ノートを開くと、これまで桜晴が書いてきたメッセージがずらりと並んでいる。私はそのどれもに、返事を書けていない。すべて一度目を通しているが、今この瞬間にもう一度見ると、胸が張り裂けそうだった。
『美雨、僕はきみの気持ちを最後まで尊重するつもりだよ』
『何があったのか、少しずつでいいから教えて欲しい』
『……僕じゃ頼りないかな?』
『美雨のこと、信じて待ってる』
桜晴は一度たりとも、私に文句を言ってきたり怒ったりしなかった。今もきっと、不安な気持ちを抱えたまま夜を過ごしている。
私はそんな優しい桜晴の心を、蔑ろにしていたんだ……。
ノートに向かって、『四月十六日』と日付を入れる。このメッセージを読む明日の桜晴にすべてを伝えるために。ゆっくりと、ペンを動かし始めた。
『桜晴へ
ずっと返事が書けなくてごめんなさい。気持ちが定まらないまま文字を書くことに抵抗がありました。私は桜晴の世界で、変わらず元気にやっています。友人関係も良好です。その点は心配しないでください。
そして、今から私があなたに伝えなければならないことを、書こうと思います。ここから先は、桜晴にとってとても苦しく、辛い事実が書かれることになります。私の過去にも触れる話になるので、入れ替わりが終わってしまうことも覚悟しなくちゃいけません。それでも私は、桜晴に伝えなければならないと思い、筆を取りました。
どうか、あなたの気持ちを優先して、読むか読まないか決めてほしいです。
あなたが私の気持ちを一番に考えてくれたように、あなたも自分の気持ちを一番大事にする権利があります。だから、決心がついた時だけ、読み進めてください』
震える手を押さえながら、ゆっくりとページを捲る。この先を桜晴が読んでくれるかどうか、彼の意思にかかっている。もし読んでもらえなかったら、それが彼の選択ということだ。私は静かに、彼の選択を受け入れよう。
『ページ、めくってくれたんだね。ありがとう。今から、本当に大切なことを話すね。先に書いた通り、桜晴には辛い内容だと思う……。それでも大切なことだから、伝えることに決めました。どうか最後まで、聞いてほしい。
私が心臓の病気で、移植をしたってことは、桜晴も知ってるよね。お母さんと病院に行った時に、気づいたと思います。そのことをあえてノートに書かずに、過去の話に触れないでおこうとしてくれた気遣いも理解してるつもりです。その上で、私は伝えたいことがあります。
私は七歳の頃から心臓の病気を患っていました。
お父さんも同じ病気で、私が五歳の頃に亡くなってしまって……。だから、病気が発覚した時はお母さんと抱き合って泣きました。
それからの生活は本当に大変で。調子が良い時は学校に行って、悪い時は入院をする、そんなあべこべな生活の繰り返しでした。もう気づいてると思うけど、心臓が悪いから体育の授業はずっと欠席してたんだ。そのせいで運動が全然ダメでね。桜晴にもきっと迷惑かけたよね。でも運動会でちゃんとダンスを踊りきれたって聞いたときはすごく嬉しかった。頑張ってくれたんだなって思って、泣きそうになったよ。
話を戻すね。
心臓の病気が治ったのは、二〇二五年四月——中学二年生の春でした。ちょっと前から、もう永くないかもしれないと宣告されている時期だったんだけど、ご存知の通り、移植をしてね。正直、心臓移植なんてほとんど諦めてたの。移植を希望する人で何年も待ち続けている人を知っていたし、実際私も長い時間待ってた。移植を待ってることすら忘れるくらいの時間が経って、突然ドナーが現れたっていう知らせを受けたの。
それで……私は移植手術に成功した。そこからは嘘みたいに元気になって、普通に学校に通えるようになった。体育も、少しずつできるようになって、今の私がある。あの時移植をしていなかったら、きっと私もお父さんと同じように死んじゃってたと思う』
私は、そこでいったん文章を切った。心臓がうるさいくらいに激しく動いていて、これから桜晴に与える衝撃を、自分が先にくらっているような心地にさせられた。
『だから移植をしたこと自体、私は後悔をしていません。ドナーの人にもすごく感謝してる。手術の時ね、お母さんはドナーのことをあまり詳しく教えてくれなかったの。……修学旅行中にバスで事故に遭った男の子、としか聞かされてなくて。きっと私を気遣ってのことだと思う。でも最近、私はどうしても気になってドナーのことをお母さんに聞いちゃったんだ。
私の心臓のドナーは……桜晴、あなたなんだって』
心臓が暴れている。桜晴が泣いているのだ。彼の叫びが彼の心臓を通して伝わってきて、気がつけば私の方が大量の涙を流していた。
「桜晴……」
やるせない気持ちはいつだってついて回る。たとえ彼に真実を伝えても、誰も幸せにならないことぐらい分かっている。それでも私はペンを握り続けた。
『すごく、びっくりしたよね。自分の一週間後の未来が、こんなことになるなんて想像するだけで辛いよね……。本当にごめんなさい。
だけど私は、桜晴の命を救いたい。
自分の命に代えてもいいって思える人に出会えた。
私は桜晴のことが……どうしようもなく好きなんだ』
すっと心のもやが晴れたみたいな気分になって、静かにペンを置いた。とめどなく溢れる涙は未だ手元を濡らして、ノートの紙をふやかしていく。それでも、ようやく桜晴に真実を伝える決心がついたことで、自分の中で一つの覚悟が決まった。
今日から一週間後に、桜晴との入れ替わりが終了する。
修学旅行はちょうど一週間後の四月二十四日からだ。
入れ替わりが終わるのが修学旅行の初日なら、修学旅行に行くかどうか、桜晴の身体に入り込んだ私が決めることができる。
「旅行に行かなければ、救えるかも——」
たったひとり、大切に思う人の命を救うためなら、私はもう迷わない。
自分の命さえ、惜しくないと思ってしまった。