「父さんあのね」と、彼に桜晴の想いを伝えようとした。でも私が口を開くより先に、母親の方が「あなたは」と口を開いた。

「もう忘れたのかもしれないけれど、桜晴が吃音で悩んでる時、私、すっごく辛かったのよ」

「吃音? なんで今その話を」

「いいから聞いて。桜晴が吃音を発症してしまったのは、私たちが家で桜晴に自信をつけさせてあげられなかったからじゃないかって、自分を責めたの。正直、私もあなたも、秋真のことにつきっきりで、桜晴のことを見てあげられてなかったわよね? 子供にはそういう親の心が伝わるものなんだって、気づいたのよ。最近ね、桜晴の担任の先生からちょっと話を聞いたんだけど、学校で吃音が出ていないんですって。私びっくりしたわ。確かに、高校生になってから、桜晴の気持ちがちょっとずつ前向きになってるんじゃないかって感じてたの。だから私は、桜晴が小説家になりたいっていう夢も、応援したい。桜晴が前を向くために必要なことなら、応援しないわけにはいかないもの」

 胸に溜まっていた想いを滝のように吐き出していく母親を、私はただただ呆然と見つめていた。桜晴のために紡がれた言葉が、桜晴の胸に深く浸透していく。彼は今ここにいないのに、まるで彼が乗り移っているかのように、心が開いて母親の言葉を飲み込んでいく感覚が全身を駆け巡った。
 父親はすっと真面目な表情になり、何かを深く考え込んでいる様子だった。秋真も、言いたいことを抑え込んで父親の言葉を待っている。リビングの掛け時計の音が、チ、チ、チと響き渡った。

「……そうだな。母さんの言う通りだ」

 紡ぎ出された父親の返答に、この場にいる全員が息をのむのが分かった。

「俺はずっと……秋真のことばかり考えていた。いや、自分の夢を秋真に押し付けたんだから、結局は自分のことだけを考えてたんだな。桜晴のこと、もっと見てやるべきだった。秋真の意思だってもっと尊重するべきだった。二人とも、本当にすまなかった」

 大の大人が頭を下げる様子を、私も秋真もじっと見つめるしかなかった。

「兄ちゃんは……すごいよ。俺は、どんな時でも親の意見に言いなりになってたけど、兄ちゃんはずっと、自分の意思を貫いてきたんだから。尊敬する」

「秋真……」

 自分の過ちを顧みた両親の言葉も、桜晴のことを尊敬すると言った秋真の言葉も、すべてが柔らかな陽だまりのように温かく、胸がじんわりと熱くなった。

「みんな、ありがとう……。小説家になれるかどうかは分からないけれど、今すごく嬉しい」

 気がつけばポロポロと涙が溢れていて、母親がティッシュを渡してくれた。
 桜晴は、こんなにも家族に愛されていたんだ……。
 知らなかった。桜晴に期待しない両親と、出来のいい弟の間で、彼はずっと悩んでいたから。こんな日が訪れるなら、今すぐこの身体を桜晴に返してあげたい。この気持ちは、彼が味わうべきものなんだから。
 この温かな空間から、もうすぐ桜晴がいなくなる。
 一気に胸が締め上げられるような切なさが込み上げる。
 三人は、桜晴修学旅行の最中に事故に遭うことをまったく予想なんてしていないだろう。私だけが、彼が死ぬことを知っている。そして、彼の心臓を私が奪って生き続ける。
 ティッシュで拭いても涙が止まらない。私は三人の前から立ち去り、二階の部屋へと駆け上がった。

「桜晴?」

 と私を心配する母親の声も聞こえないふりをして。部屋の中で、一人咽び泣いた。

「ううっ……」

 本当にこのままでいいの?

 桜晴に何も伝えないまま、ただその時が来るのを待ってるの?
 そんなの、そんなの——あまりに残酷だ。
 このままじゃ、桜晴も家族もきっと浮かばれない。

「私は……知らせるべきなんだ」

 運命は、私が何をしてもしなくても変わらないのかもしれない。
 でも人の気持ちは誰かの行動によって簡単に変わってしまう。
 桜晴に、すべてを伝えよう。
 たとえそれが間違っているのだとしても。
 家族の愛に触れてしまった私はもう、後戻りできない。