暗く深い海の底に、沈んでいるような感覚だった。
心臓移植のドナーが桜晴だと聞いてから、私の心は冷え固まったまま動かない。東京の冬は北海道の冬に比べるとずっと暖かいのに、桜晴と入れ替わっている昼間もずっと寒さに震えていた。
年が明けてから少し経った頃、桜晴からメッセージが届いた。
私に本音を話してほしいというもの。
私の気持ちを慮って、精一杯優しい言葉をかけてくれる彼に、申し訳なさや情けなさが募って、胸がいっぱいになった。それなのに私は、桜晴からの手紙のようなメッセージに返事を書くことができなかった。
本当のことを伝えたら、私の過去の話に言及せざるを得なくなる。
そうすれば桜晴との入れ替わりが終わってしまう。
そうでなくても、彼に真実を伝えるのはあまりにも酷すぎる。
桜晴のメンタルのことを考えると、とてもじゃないが修学旅行やドナーの話を伝える気になれなかった。
桜晴のお母さんが作ってくれるお昼ご飯のお弁当も、私のお母さんが作ってくれる夕飯も、喉を通らない日が増えた。お母さんたちに心配をかけないよう、全部食べているふりをして捨てることもあった。
数ヶ月の間、そうやって一人で悶々と考え続けていたのだけれど。学年が変わり、とうとう二年生の四月が来てしまったと絶望しかけていたある日のこと。
「桜晴、ちょっといいかしら」
とある日曜日の午後、私が部屋で本を読んでいると、桜晴のお母さんが部屋まで呼びにやって来た。
「ん、なに?」
わざわざ部屋まで呼びに来るなんて珍しい。本から顔を上げて母親の方を見ると、彼女はほっこり笑ってこう言った。
「蒸しパンつくったから、どう? あんた好きでしょ」
「蒸しパン? うん、食べる」
普段あまりお菓子など作っている様子もないのに、突然蒸しパンを作ったというのには驚いたけれど、家庭の蒸しパンなら私も大好きだ。
母親について一階に降りると、リビングに広がるやさしく甘い香りに、一気にお腹がぐうと鳴った。
「あ、兄ちゃんも来たんだ」
秋真はすでに片手に蒸しパンを持って漫画を読んでいた。父親も、「これうまいな」と言いながらはむはむと蒸しパンを口に運んでいる。私はこっくりと頷くと、母親から出来立てのものを受け取った。椅子に座り一口口に含むと、やわらかい口当たりと昔懐かしい味がじわりと広がる。夢中になって一個目を食べ終えて、母親に二つ目をもらった。
「あら、たくさん食べるのね」
そんな私に、微笑ましげな笑顔を向ける桜晴のお母さん。こんなふうに、家族で蒸しパンを食べるなんて穏やかな時間を味わったのはいつぶりだろう。特に秋真やお父さんは休みの日も野球の練習で出かけていることが多い。家族四人でおやつを食べる時間が、とてつもなく贅沢なもののように思えた。
「桜晴、ちょっと聞きたいことがあるの」
母親がそう切り出したのは、私が三つ目の蒸しパンを平らげた時だ。さすがに三つも食べるとお腹も張ってきて、そろそろ休憩しようかと感じていた時だ。
「聞きたいこと?」
桜晴のお母さんが改まってそんなことを聞いてくるのは初めてだ。なんだろう、と純粋に気になった。
「これなんだけどね」
彼女はカウンターの上に置いてあった一冊のノートを私の前に差し出す。「備忘録」——見覚えのある大学ノートの表紙に、どきりと心臓が跳ねた。
桜晴が書いている小説のノートだ。
どうして母親が持っているの? と質問する必要はなかった。
「勝手に持ち出してごめんなさいね。昨日、あなたの部屋を掃除してたらたまたま見つけたのよ。これ、小説よね? 桜晴、小説書くのが好きなの?」
母親の瞳が、私から本音を引き出そうと真剣な光を帯びている。彼女の瞳に映る桜晴の顔が困惑気味に揺れていた。
心臓移植のドナーが桜晴だと聞いてから、私の心は冷え固まったまま動かない。東京の冬は北海道の冬に比べるとずっと暖かいのに、桜晴と入れ替わっている昼間もずっと寒さに震えていた。
年が明けてから少し経った頃、桜晴からメッセージが届いた。
私に本音を話してほしいというもの。
私の気持ちを慮って、精一杯優しい言葉をかけてくれる彼に、申し訳なさや情けなさが募って、胸がいっぱいになった。それなのに私は、桜晴からの手紙のようなメッセージに返事を書くことができなかった。
本当のことを伝えたら、私の過去の話に言及せざるを得なくなる。
そうすれば桜晴との入れ替わりが終わってしまう。
そうでなくても、彼に真実を伝えるのはあまりにも酷すぎる。
桜晴のメンタルのことを考えると、とてもじゃないが修学旅行やドナーの話を伝える気になれなかった。
桜晴のお母さんが作ってくれるお昼ご飯のお弁当も、私のお母さんが作ってくれる夕飯も、喉を通らない日が増えた。お母さんたちに心配をかけないよう、全部食べているふりをして捨てることもあった。
数ヶ月の間、そうやって一人で悶々と考え続けていたのだけれど。学年が変わり、とうとう二年生の四月が来てしまったと絶望しかけていたある日のこと。
「桜晴、ちょっといいかしら」
とある日曜日の午後、私が部屋で本を読んでいると、桜晴のお母さんが部屋まで呼びにやって来た。
「ん、なに?」
わざわざ部屋まで呼びに来るなんて珍しい。本から顔を上げて母親の方を見ると、彼女はほっこり笑ってこう言った。
「蒸しパンつくったから、どう? あんた好きでしょ」
「蒸しパン? うん、食べる」
普段あまりお菓子など作っている様子もないのに、突然蒸しパンを作ったというのには驚いたけれど、家庭の蒸しパンなら私も大好きだ。
母親について一階に降りると、リビングに広がるやさしく甘い香りに、一気にお腹がぐうと鳴った。
「あ、兄ちゃんも来たんだ」
秋真はすでに片手に蒸しパンを持って漫画を読んでいた。父親も、「これうまいな」と言いながらはむはむと蒸しパンを口に運んでいる。私はこっくりと頷くと、母親から出来立てのものを受け取った。椅子に座り一口口に含むと、やわらかい口当たりと昔懐かしい味がじわりと広がる。夢中になって一個目を食べ終えて、母親に二つ目をもらった。
「あら、たくさん食べるのね」
そんな私に、微笑ましげな笑顔を向ける桜晴のお母さん。こんなふうに、家族で蒸しパンを食べるなんて穏やかな時間を味わったのはいつぶりだろう。特に秋真やお父さんは休みの日も野球の練習で出かけていることが多い。家族四人でおやつを食べる時間が、とてつもなく贅沢なもののように思えた。
「桜晴、ちょっと聞きたいことがあるの」
母親がそう切り出したのは、私が三つ目の蒸しパンを平らげた時だ。さすがに三つも食べるとお腹も張ってきて、そろそろ休憩しようかと感じていた時だ。
「聞きたいこと?」
桜晴のお母さんが改まってそんなことを聞いてくるのは初めてだ。なんだろう、と純粋に気になった。
「これなんだけどね」
彼女はカウンターの上に置いてあった一冊のノートを私の前に差し出す。「備忘録」——見覚えのある大学ノートの表紙に、どきりと心臓が跳ねた。
桜晴が書いている小説のノートだ。
どうして母親が持っているの? と質問する必要はなかった。
「勝手に持ち出してごめんなさいね。昨日、あなたの部屋を掃除してたらたまたま見つけたのよ。これ、小説よね? 桜晴、小説書くのが好きなの?」
母親の瞳が、私から本音を引き出そうと真剣な光を帯びている。彼女の瞳に映る桜晴の顔が困惑気味に揺れていた。