「ううん、いいの。お母さんも、苦しかったんだよね」

「美雨……いいえ、きっと辛かったのは美雨と、ドナーのご家族よ」

「お母さん……」

 母がどれだけの覚悟で、私にドナーの話をしようとしているのかひしひしと伝わってくる。ごくりと生唾を飲み込んで、母の次の言葉を待った。

「二年半前、美雨のドナーになってくれた人の名前は——鳴海桜晴くん。当時十六歳だった、高校二年生の男の子よ」

 紡がれた真実に、脳天を貫くような鋭い衝撃が頭の中を駆け抜けた。

「鳴海……桜晴」

 もう何度聞いたか分からないその名前を、初めて母の前で口にした。
 どうして、こんなことが起こってしまうのだろう。
 私の中で動いている心臓が、本当に彼のものだったなんて。信じたくない。けれど、紛れもない事実であることは、沈痛な面持ちをする母の顔を見れば明らかだった。

「あの時……美雨が心臓移植を決めてくれた時は動揺させたくなくて、詳細についてあなたに話さなかった。それが正しいとも間違ってるとも思わない。でも少なくとも、あの時の私にとっては、必要なことだったの。何よりも大切だった、美雨の命を守るために」

 母の両目から一筋、また一筋と涙がこぼれ落ちて頬に二つの線をつくる。正直、心の中がぐちゃぐちゃで、母の涙さえ、どう受け取ればいいか分からない。私の命がいちばん大事だと言ってくれるのは、すごく嬉しい。お母さんが、何より私のことを大切にしてくれて、私が病気になってからは身を窶して働いて治療代を稼いでくれたことも知っている。それでもお金が足りなくて親戚たちに頭を下げて回ったことだって、灰谷先生からこっそり聞いていた。
 それぐらい、お母さんが私のために身も心もすり減らして頑張ってくれたことを、知ってるのに。
 どうして私は、今こんなにも母に対して、敵愾心(てきがいしん)を抱いてしまっているのだろう——。

「桜——鳴海、くんの命は、大事じゃなかったのかな」

 違う。大事じゃなかったとか、そういう理由じゃない。お母さんだって、心臓を提供してくれる彼の命を重んじてくれたはずだ。何より娘である私の命を救うために腐心してくれたことは分かっている。
 それなのに、胸を焦がされそうなほどの勢いで燃えているこの気持ちがなんなのか、整理がつけられなくて聞いてしまった。

「美雨……」

 言葉を失ったお母さんが、私の頬に手を伸ばす。桜晴の命を蔑ろにしたわけじゃない。それを分かってほしい——そんな願いを感じ取って、私は唇を噛み締めた。
 母の手のひらをそっと自分の手で外す。弾かれたように見開かれた母の瞳は、悲しげに揺れていた。
「私は、桜晴に、会いたかった」
 何を言っているのか分からない。
 きっとお母さんには、嗚咽を漏らしながら叫ぶ私の心情を理解してもらうことはできない。それでもこの気持ちに嘘はつけない。
 私は桜晴が好きだ。

「ごめんなさいっ」

 これ以上、自分の醜態を晒したくなくて、ご飯もまだだと言うのに、二階の部屋へと駆け上がる。

「美雨!」

 胸が破れるんじゃないかってくらい大声で私の名前を呼ぶお母さん。そんな彼女の叫びを振り切って、部屋の扉を閉めた。

「はあ……はあっ」 

 バクバクバクバク、と、心臓が大きく速く脈打って胸が痛い。こんな症状は、移植をする前に何度も経験した。あの時は薬で治していたけれど、今は都合の良い薬なんてどこにもない。

「桜晴……」

 右手で胸を押さえて、彼の名前を何度も口にした。

 桜晴、桜晴、桜晴……。
 強く激しく脈動しているこの心臓は、彼だ。夥しい量の血液を私の全身に押し出して、私に「生きろ」と叫んでいるみたいだ。

「どうして桜晴が」

 西が丘高校の修学旅行で起きた観光バスの事故で、重症を負ったのは桜晴だけだった。なんで彼だけがそんな目に遭ってしまったの? どうして私はたったひとり、彼と入れ替わってしまったの?
 やるせない気持ちが荒波のように押し寄せる。ざぶんという大きな音を立てて、岩に弾けた波の飛沫が全身に降りかかるのを想像する。足元から崩れ落ちそうになった。
 床に膝をついて、ただ現実を受け入れられずに泣いた。
 私の命は、桜晴の命の犠牲の上に成り立っているものだった。