その日、学校では午後からの授業に出席した。美雨の身体の事情を知っている瑛奈と和湖が、「病院どうたった?」と心配そうに聞いてきた。

「特に、何もなかったよ。問題ないって」

「そっかー良かった! 美雨に何かあったらって思うと、私らは心配でさ」

「うんうん。美雨がいないと、瑛奈のボケに対応できなくなっちゃう」

「それはこっちの台詞!」

 二人がいつも通り明るく戯れ合ってる姿を見て、僕は安心してぷっと吹き出す。
 瑛奈と和湖が美雨の友達で良かった。
 事情を知ってくれている心強い味方は、いないよりいた方が絶対にいい。
 もし僕が彼女の前から姿を消しても、美雨のことを守ってくれる人間が、一人でも多くいた方が——。

「あれ……何考えてるんだろ」

 自分が何を想像しているのか、自分でもよく分からなかった。
 僕が彼女の前から姿を消す? そもそも、美雨と僕は出会ってすらいないのに。それに、入れ替わりが終わると決まったわけでもないのに、どうしてそんなことを考えてしまったんだろう。

「美雨、どうかした? ぼーっとしてる?」

「う、ううん。なんでもない」

「そう、それならいいんだけど」

 和湖が心配そうな瞳を向けて来たので、慌てて否定した。
 美雨に、この身体を返す時がいつか必ずやってくる。分かってはいるけれど、今日に限って想像してしまうのは、やっぱり午前中に病院で心臓移植の話を聞かされたせいだ。
 美雨が今元気なら、それでいいじゃないか。
 どうにか自分を納得させて、午後からの授業に備えるべく、教科書とノートを準備するのだった。

『今日、病院に行きました。美雨のお母さんに、定期検診だと言われて行かざるを得なくて。そこで、きみが心臓移植をしたって話を聞いてしまいました』

 僕はその日の夜、美雨の部屋でノートを広げて今日の出来事を書いてみたが、やっぱり消しゴムでごしごしと擦って消した。美雨だって今日、僕が病院に行く予定であることは知っているはずだ。わざわざ自分から書かなくてもいいのではないか。
 それに、美雨に直接、過去の話を持ちかけるようなことはしない方が良いのだと思い至った。病院の話は頭の片隅に追いやって、瑛奈たちとの他愛もない会話だけを書き連ねる。

「これでいいや」

 出来上がった今日のノートは、特にツッコミどころのない普通の一日の出来事しか書かれていなかった。それでいい。彼女に余計な心配はかけたくないし。
 ノートのページを閉じると、いつのまにか八時が近づいていることに気づいた。宿題をちゃちゃっと済ませた頃には、ちょうど僕は自分の世界へと戻っていた。

見慣れたはずの自分の部屋の方が、よそよそしく感じてしまうなんて、美雨としての生活がすっかり板についてしまっている。苦笑しながら、僕は書きかけの小説のノートを開いた。美雨との入れ替わりの日々を題材にした青春小説。最初はなんの気なしに書き始めたのだけれど、今ではこの小説を仕上げることに心血を注いでいる。
 僕たちが入れ替わりで出会い、過ごした日々が消えないように。
 どうか誰か一人でも多くの心に、この想いが残りますように。
 そんなふうに願っている自分がいて、自分でも戸惑いを隠せなかった。 
 家族と夕飯を食べている最中、秋真がスカウトを受けた三宮高校に見学に行ってきたと話してきた。秋真が先月の試合で好成績を残したことは、美雨から報告を受けていた。その日の食卓は、きっと父さんあたりが大盛り上がりしたんだろうな、と容易に想像がついたけれど、美雨は淡々と事実だけを書いてくれていた。
 僕は素直に、秋真がスカウトをされて良かったと思う。やっぱり成功するのは僕のような落ちこぼれではなく、秋真みたいな秀才なんだって受け入れられた。
 だけどその後、美雨が秋真の本音を聞いたらしく、秋真の想いには胸を打たれた。
 僕は弟のことを、ほんの少ししか分かっていなかった。
 秋真、ごめん。
 期待されるのもされないのも、どっちも苦しいよな。
 そうと分かってからは、僕も必死で小説を綴っている。僕には僕の、秋真には秋真の人生があるから。秋真はあれから、これまで以上に野球の練習に一生懸命だ。僕が八時に現実に戻ってからも庭で素振りをしているから、彼の本気さがひしひしと伝わってきた。
 秋真と自分を比べるのはもうやめよう。
 気持ちを昇華できたのも、美雨が秋真から素直な心のうちを引き出してくれたおかげだった。

 書けるところまで小説を書き進めていると、いつのまにか深夜一時を回っていた。どうりで瞼が重いはずだ。僕は、ノートを閉じて棚にしまう。今日は何文字ぐらい書けただろう。手書きというアナログな手法をとっているので、正確な文字数は数えられない。でも、ざっと十ページ分は進んだ。手首が疲れて悲鳴を上げている。ベッドに横になり、静かに意識を沈めた。