日曜日の朝、いつものように午後八時に桜晴と入れ替わる。普段の土日なら、桜晴の家の食卓でちょうど朝食を食べようという時間だ。でもこの日は違った。一階の方が何やら騒々しい。朝から家族は何をしているのだろうかと不思議に思いながら、一階へと降り立った。

「桜晴、何してるの。ぼーっとしてないで早く準備しなさい」

「準備?」

 桜晴の母親が、バタバタと身支度をして、出かける用意をしていた。傍では弟の秋真が、「俺のシューズどこ!?」とかけずり回っている。父親は金属バットを持って、家の中で素振りしていた。

「言わなかった? 今日は秋真の大事な試合だって。甲子園常連校の高校の監督もたくさん見にくるの。ここでスカウトされる可能性大よ」

「はあ」

 スカウト、という響きを母親はいたく気に入ったらしく、その後も「すぐスカウト来たら嬉しいわね」なんて遠足前の子供みたいにワクワクしている様子だった。
 私は内心、「そんなに都合よくいくかなあ」と冷めた気持ちで家族のドタバタを眺めていたが、やがて時間が来て全員で車に乗り込んだ。
 父親はとても上機嫌で、まるで自分が試合に出るかのよう。秋真は緊張しているのか、普段はあっけらかんとした性格なのに、車内では固い顔をしていた。そんな秋真に、母親が喝を入れる。私は、朝食を食べ損ねたお腹がぐう、と鳴った。


「秋真、いけー! かっとばせえっっ!」

 試合は秋真の所属する中学野球部が九回裏の時点で五点、相手チームが八点でピンチだ。ツウアウト満塁。秋真はなんと、四番打者らしく、チームメイトの期待を背負ってホームに立っている。真っ直ぐに伸びる姿は、いつも部屋でのんきにゲームをしているところからはまるで想像もつかない。

「秋真、いけるぞおおおおおお!」

 父親が私の隣で大きな声援を送ったと同時に、相手チームのピッチャーが球を投げる。野球には詳しくないが、かなり速い。猛速球で飛んでくる球を見据えて、秋真が大きくバットを振りかぶった。
 カッキーン、と小気味良い音が脳天を突き抜ける。放物線を描いた球は、外野を超えて応援席の方へ、遠く飛んで行った。
 へえ、秋真ってこんなに真剣に球を打つんだ。
 と感心している間もなく、チームからどっと歓声が上がる。

「ホームランだあああっ!」

 誰かが叫んだと同時に、秋真は余裕の笑みで一塁から二塁、二塁から三塁へと駆け抜ける。ホームへと戻ってきた秋真を、全員が笑顔で迎えた。
 母親も父親も、そんな秋真のことを愛しそうに眺めている。
 私は……純粋に秋真がすごいと思った。
 あんなふうにプレッシャーのかかる場面で期待通りにホームランを打てるなんて。私なら絶対に無理だ。

「秋真よくやったぞ!」

 父親が早速息子の元へと駆け寄る。母親も、同じように目に涙を浮かべながら秋真の元へ急ぐ。私は依然として応援席に座ったまま、遠くからぼんやりと弟の成功を眺めた。
 なんかちょっと、まぶしすぎるなあ。
 私は一瞬、自分が桜晴の気持ちになって秋真の成功を傍観している気分になっていた。
 いつか桜晴がノートに書いていた。自分は、秋真と比べると何の才能もないって。父親も母親も、自分のことは諦めて、秋真に絶大な期待を寄せている。自分には何もない。吃音は発症するし、成績もよくないし。運動だって人並みぐらいだ、と。
 私はその時、「そんなことない」と書いた。
 何もないなんて、そんな悲しいことは言わないでほしい。確かに、野球みたいに目立った才能はないのかもしれない。それでも、桜晴が書いた小説は、確実に私の心を動かした。桜晴にだって、小説という素敵な特技があるんだ。
 桜晴は私の返事に「ありがとう」と返してくれた。
 その時はそれで満足してしまっていたけど。桜晴、あなたはずっとこんな気持ちだったんだね。私には兄弟がいないから完全に理解できてはいなかった。誰にも期待されていないという感覚は、自分として生きる気力をこんなにも奪っていく。自分が自分である必要性が感じられなくなる。
 私は一人、がらんどうになった応援席で、桜晴のためにすーっと涙を流した。