十月の一週目の日曜日、美雨の通う美瑛東高校で、運動会当日を迎えた。
 この辺りの十月の平均気温はなんと十度前後のようで、運動会が始まる前はとても寒かった。運動会といえば、初夏やまだ暑さの残る秋に行われる印象なので、とても新鮮な気分だ。

「美雨、やっほー」

「瑛奈、和湖、おはよう」

「おはよう〜」

 運動会の朝、教室は非日常イベントの開始を前に、全員がソワソワしているのが分かった。特に瑛奈は、表情がガチガチに固まっている。実は彼女、チアリーディングをするので運動会前から緊張しているのだ。

「瑛奈、肩の力抜いた方がいいよ〜」

「それは分かってる! 分かってるんだけど、そう簡単にはいかないのっ」

「それなら、私がおまじないかけてあげる。右手出して」

「和湖のおまじないなんて、うさんくさーい」

 そう言いながらも、ちゃんと指示通りに右手を差し出す瑛奈。和湖は何をするつもりなのかと思いながら観察していたが、瑛奈の手のひらに「の」の字を書き始める。僕は、そのあまりにも常套すぎるおまじないに、思わずぷっと吹き出した。

「はい、今書いた字を飲み込んだら大丈夫!」

 得意げに言い放つ和湖に、瑛奈はジト目を向ける。

「これ、小学生がやるやつじゃん! 和湖ったらどんだけ天然なの!?」

「え〜吹奏楽部ではコンクールの本番前にいつもこうしてるよ?」

「……あんたの部活、平和そうだね」

「そんなことないよ。大会前は殺伐としてるんだから」

 ぷりぷりと頬を膨らませて怒る和湖。僕は、和湖が部活中に殺伐とした空気にのまれているところを見てみたいなと、意地悪なことを思った。
 結果的に、天然和湖のおまじないが効いたのか、瑛奈は表情がほぐれて、いつも通りの彼女に戻っていた。

「美雨は、大丈夫? 運動会なんて一番苦手でしょ」

「うう……そうなんだよね。でも、せっかくの行事だし、楽しむ」

 ここ数ヶ月間の経験で、美雨がどれだけ運動音痴なのか身に染みて感じていた。特に、運動会で一年生女子全員で参加するダンスがあるのだが、その練習では何度周りとのズレを感じて焦ったことか。

「うん、楽しもうね。あ、でもダンスでこけないようにしなよ」

「瑛奈、そんなこと言ったら美雨が余計緊張して失敗しちゃうよう」

 二人はそれぞれ言いたいことを言って、私を揶揄っている。とはいえ、私が緊張しないように励まそうとしてくれていることは分かった。

「二人とも、ありがとう。なんとか最後まで頑張ります!」

 きっと、美雨ならこう返事をするだろうな——という想像をしながら、二人に笑顔を向ける。僕の中で、美雨の像がどんどん出来上がっていて、発言する時には常に、「本物の美雨なら」と考えるようになった。
 これまでの入れ替わりでは、割と好き勝手させてもらっていたというのに。
 これも、相手が彼女だったからこそ、自然に身についたことだ。
 もう認めよう。僕は美雨のことを、いつどんな時だって考えてしまう——。

「全校生徒の皆さんに連絡です。開会式は九時からとなります。運動場に整列するよう、お願いします」

 全校生徒向けにアナウンスが流れると、クラスのみんながぶわっと教室から溢れ出した。

「私たちも行こう」

「うん!」

 仲良し三人組で、運動場へ向かう。
 今日は美雨にとって、大切な思い出になる予定の日だ。
 実際は僕が経験することになるのだが、今日の出来事をノートにたくさん綴ろう。美雨が、瑛奈や和湖、クラスのみんなと駆け抜ける青春の一ページが、華やかなものになるように。
 全校生徒が集まり、先生たち、それから観覧しに来た保護者たちが生徒を囲う。運動会前のこのシンと静まり返る空気を、心地よいと思ったのは人生で初めてだ。
 冷えた空気の中、冴え渡る空の下で開会宣言をする女子生徒が壇上に上がる。彼女が息を吸う音が、マイクを通じて響いた。

「ただ今より、令和九年度美瑛東高校運動会を開会いたします!」

 会場で一気に湧き上がる拍手。生徒も、先生も、観客も、みんながこれから始まる運動会というエンタメに期待している証拠だ。男も女も関係ない。運動音痴の自分でさえ、興奮してしまう——はずだった。