自分でも信じられないほど低い声が口から漏れ出た。
 伊藤くんは少したじろいだ後、「はは、なんだって?」と私を挑発する。自分の発言を、少しも悪く思っていないような口ぶりに、私の我慢のリミッターはメーターを振り切ってしまう。

「だから、人の趣味を笑うのが、最低だって言ってるの。分からない? あなただって、何か好きなことくらいあるでしょ。サッカーとか野球とか。インドアな趣味でもいいよ。私はあなたの趣味を否定しない。どんな趣味でも、夢中になれることがあるって素敵なことだもん。でもあなたは、桜晴の好きなことを否定した。そこに何の意味もないのに。ただ、笑って、彼のことを揶揄いたかっただけだよね? それって、人のこといじめて自殺に追い込む犯罪者がすることだよ」

 言いながら、しまった、と思った。
 つい頭にきて、私自身の言葉(・・・・・・)として喋ってしまっていた。女口調で、しかも自分のことを「桜晴」と他人みたいに呼んでしまった。
 伊藤くんの顔がみるみるうちに引き攣っていく。「犯罪者」と言われたことがよほど堪えたのか、それとも私がおかしな口調で話し始めたのに引いてしまったのか。

「お前……いつから女になったんだ? もしかして二重人格? 気持ち悪っ」

 果たして真実は、後者だった。
 私は、自分の真意が伝わらなかったことへの絶望と、桜晴の名誉を傷つけてしまった情けなさで、胸が張り裂けそうになった。
 ガタン、と椅子が倒れた。椅子から立ち上がって、その場から逃げ出した。
 五時間目と六時間目って、なんだったんだっけ……そうだ、体育だ。私が苦手な体育が二時間連続であるんだった。だったらいいや。
 心は痛みに引き裂かれそうなのに、頭の中では冷静にそんなことを思った。
 私は慣れない電車に乗り、まっすぐに自宅へと向かう。早く、一人きりの世界へ行きたい。クラスメイトに桜晴のことを馬鹿にされたこと、入れ替わり中に最もやってはいけないヘマをしてしまったことへのやるせなさと後悔が渦を巻く。今の私の気持ちは、誰にも分からない。たった一人、桜晴を除いて——。
 桜晴の家にたどり着くと、私は真っ先に部屋に入り、彼の机の周りを物色した。それらしいノートをペラペラとめくってみる。どのノートも学校で勉強に使っているものばかりだったけれど、一つだけ、ノートの表紙に「備忘録」とタイトルが記されたものがあった。
 そのノートをそっと開いてみる。
 中には「備忘録」というタイトルに似合わない、小説の冒頭が書かれていた。

『誰かと人生を入れ替えたいと思ったことはあるだろうか。
 僕は何度も、願ってきた。
 自分じゃない誰かになりたい。』

 たった三行だけ書かれた冒頭は、今の桜晴と私の状況を物語っていて、私ははっと息をのむ。桜晴は、この入れ替わりを小説にしようとしている……? このノートはたった三行だけしか書かれていなかったけれど、彼の本棚を漁っていると、他にも「備忘録」ノートが数冊出てきた。
 どのノートにも彼の綺麗な字がびっしり書かれている。すべて小説だった。他のノートの小説はすでに完結しているようで、最初に見たノートは最近書き始めたものなんだろう。
 ノートに書かれた文字は、学校の板書よりも何倍も丁寧で、素直に美しいと思った。桜晴が、どれだけ切実な想いで文章を綴っているのかが分かる。私は、夢中になって彼が書き綴った小説を読んだ。中学生の頃に書いたものなのか、時々間違った使い方をされている言葉もあったけれど、総じて面白く、気がつけば三冊にも渡る一編の小説を読み終えていた。
 内容は、タイムリープの力を手に入れた少年の話で、ネタ自体はありふれたものだった。けれど、そこに描かれた少年の葛藤がありありと伝わってきて、物語を読み終える頃には、涙が溢れていた。
 ベッドに寝転んで読んでいたので、枕に涙が滴り落ちて、慌ててハンカチで拭う。

「こんなに素敵な小説を書くのね……」

 私はもともと本を読むのが好きだ。運動が苦手なこともあり、幼い頃から家の中でできる読書やお絵描きなんかのインドアな遊びをよくしていた。だから、彼のノートを読んでいる最中も、いつも通りに本を読んでいる感覚に陥っていた。

「小説家になりたいのかな」

 ノート三冊分にも渡る小説を書き上げるのにはそれなりに根気がいるはずだ。私には経験ないけれど、絶対に大変なことだ。それを、中学生の彼が普通にやってのけるのは、やっぱりそれなりの想いがあるからなんだろう。
 ますます、彼の趣味を馬鹿にした伊藤くんのことが許せなかった。
 彼に抗議をして正解だった。女口調で言い返してしまったのは反省しかないが、私がやったことは、間違いじゃなかったと思う。
 家に帰ったら、ノートで桜晴に今日のことを謝ろう。
 桜晴に許してもらえるかどうかは分からないけれど、正直に私が思ったことを話したいと思う。
 一つ、懸念があるとすれば彼が中学生の頃に小説を書いていることを伊藤くんから聞いてしまったことだ。これは、ペナルティの対象になるんだろうか。もしそうなら、覚悟を決めなければならない。
 どうか、何事もなく一週間後も彼と関わることができますように。
 そう願っている自分がいて、心臓の脈動が、どんどん速くなっていることに気づいた。