授業は滞りなく進み、私はせっせと彼のノートに板書を写していった。

「やっぱり桜晴って、あんまりノートが綺麗じゃないな」

 字が汚い、というわけではない。むしろ一つ一つの文字は整っていて、私よりも綺麗なくらいだ。そうではなくて、ノートのまとめ方が、ただ黒板をまる写ししただけで、色も黒一色で分かりにくい。男の子に特有の、殴り書きしたような文字で、ぱっと見なんて書いてあるか判別できない。たぶん、家に帰って復習しようとしても、自分で自分の文字を解読できないんじゃないだろうか。

「これは……頑張り甲斐があるわね」

 ノートをまとめるのはとても好きだ。
 私は、もしいつか桜晴との入れ替わりが終了したら、桜晴が困らないように美しいノートを作ろうと意気込んだ。桜晴の方は、どこまで綺麗にノートを作ってくれるか分からないけれど、私は私なりに、彼の心に残る何かを残したいと思う。
 そうだ。入れ替わりが終わったら、私たちは二度と会うことがないのだ。せめて思い出の中だけでも私という存在を彼の中に残したい。
 どうしてそこまで考えてしまうのだろう。
 桜晴とはこの入れ替わりという人生で最も珍しい体験を通して、運命を共にしているからだろうか。それとも私が、桜晴のことを——。

「いやいや、そんなことないって」

 自分でしてしまった妄想を咄嗟に掻き消す。
 気がつけば昼休みに突入していて、私は桜晴のお母さんが作ってくれたお弁当を食べ始める。美味しい。うちのお母さんのご飯も美味しいけれど、桜晴のところのご飯も、温かい家庭の味がする。
お弁当を食べ終えると、江川くんにまた学校のことを聞き出そうかと席を立とうとした。だが、同じタイミングで話しかけてくる男の子がいた。

「おい鳴海。お前って、まだ小説書いてんの?」

「え?」

 その男子は、チンチクリンのいがぐり頭をしており、意地悪そうな目つきを私に向けた。
 尖った声のトーンからしても、決して桜晴に良い感情を抱いていないとすぐに分かる。
 どこかで見たことある男の子だ……と、必死に記憶を探る。昨日と今日以外に、彼のことを見た記憶がある。そんなことあるはずないのに——と記憶を掘り起こしているうちに、思い当たる節があった。
 そうだ……一昨日見た夢の中に、彼がいた。
 桜晴が中学の教室で、『山椒魚』を音読していた時だ。吃音が出たことを、クラスメイトたちが笑っていた。嘲笑する生徒たちの中に、確かに彼もいたような気がする。夢の中で、桜晴の中学校の制服には、胸のところに苗字が縫い付けられていた。この人の名前は確か——。

「……伊藤(いとう)くん、今なんて?」

 一種の賭けではあった。夢の中で、彼は確かに「伊藤」だったけれど、本当に夢の中の人物が現実に存在しているか定かではない。だが、いつのまにか目の前まで迫ってきていた男は、私の呼びかけを否定せずに「話、聞いてなかったのか」と鼻で笑っていた。

「だから、小説だよ。あの、何書いてるのか分かんないやつ。お前、中学の時、昼休みになったらずっと机に齧り付いて書いてたじゃん。てか、高校に入ってからも書いてただろ。勉強するふりして。だっせえ趣味だなって思って側から見てたぜ」

 桜晴が小説を書いていた?
 それも、中学の時から今まで?
 これは、彼のパーソナルな過去に関する話ではないか。私は、心臓がドクドクと大きく脈打つのを感じる。動悸がするのは、彼の過去を知ってしまったからというのもそうだが、それ以上に、目の前の男が人の趣味を馬鹿にするのが許せなかった。
 私は、正直あまり他人に対して腹を立てるタイプではない。
 自分について悪く言われても、腹を立てるよりも先に、気持ちが沈んでしまうタイプだ。
 だけど今日ばかりは違う。
 桜晴の趣味を馬鹿にされたことが、あまりにも許しがたく、腹の底から煮えたぎるような思いがした。

「……人の趣味を笑うって、悪趣味だよ」