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 夕方の六時、怜依は咲乃が入院している病院の中庭にいた。
 雨上がりということもあって、少し肌寒く感じる。昼間の雨は、夏を連れ去ったらしい。
 新城がしていたように、ベンチに座っていようかと思ったが、まだ濡れていて座れそうにない。
 軒下で来るかどうかわからない新城を待つ。ここでしか、新城に会えない気がしたから。
 冷えた風が吹き、怜依はくしゃみをした。

「ここでなにしてるの?」

 すると、新城の声がした。
 驚いているような、呆れているような、そんな表情をしてそこに立っている。

「新城を待ってた」
「まあ、そんなことだろうと思ったけど」

 新城はそう言いながら、怜依に小さなペットボトルを差し出した。どうやら自販機で買ってきてくれたらしい。

「……ありがとう」

 受け取ると、それが温かいことに気付いた。
 ホットココア。もう、それが自販機に並ぶ時期になっていたなんて。
 咲乃の時間が止まっていても、世界は変わらず時間が過ぎていることを残酷に感じた。
 新城は缶を開け、コーヒーを飲んでいる。
 呑気なものだ。こっちはそれどころではないのに。
 だけど、せっかくの温かい飲み物が冷えてしまってはもったいない。怜依は本題に入る前にココアを飲む。冷え始めていた身体に、ココアが沁みる。
 怜依がペットボトルから口を離すと、新城は歩き始めた。

「どこ行くの」

 逃げられると感じた怜依は、慌てて引き留めた。

「立ち話はしんどいでしょ」

 新城がそう言って建物に入っていくと、怜依はその背中を追いかけた。
 二人は人が少ない場所を探し、三人掛けのソファを見つけた。一人分の隙間を作って、両端に怜依と新城は座る。

「昨日の今日で俺を待ってたってことは、お手上げってこと?」
「ちが……」

 それを否定しようとしたけれど、結局答えを聞こうとしていたことに変わりはない。
 怜依は違うと言い切れなかった。

「……今日、学校で足立花那と、香田織寧に話を聞いてきた」
「へえ。なにかわかった?」

 わかったこともあれば、わからなくなったこともある。だから、できるなら、新城が知っていることをすべて話してほしい。
 でも、咲乃との約束がある以上、きっと新城は話さない。
 だったら、一番聞きたいことだけを聞くしかない。

「……二人が、お互いに好きってわけじゃないってことがわかった」

 新城の言葉が止まる。
 この反応は、肯定と受け取っていいのだろうか。
 でも、そうだとしたら、咲乃の反応の説明がつかない。あんなにも、新城のことが好きなように振る舞っていた理由。別れたくないと言った理由。
 いや、違う。あれは全部、演技だったんだ。

「……なんで、そんな嘘をついたの」

 まだ、新城は答えない。
 咲乃との約束を、ここまで誠実に守るような人だなんて、知らなかった。

「咲乃が起きたら、一緒に怒られるから。お願い、新城。全部話して」

 新城はまっすぐ前を見つめたまま、コーヒーを飲む。そしてズボンのポケットからスマホを取り出した。

「……和多瀬は、白雪のこれが誰のことを言っているのか、わかった?」

 新城からスマホを借りる。”これ”は、咲乃の裏アカ。

「昨日はすぐに切り上げたけど、今度はちゃんと、見てあげて」

 新城に言われて、遡れるだけ遡った。一番古い投稿は、去年の七月のものだった。そこから上にスクロールして、投稿を読み進める。

『一緒にいたいからって理由で高校決めちゃった』
『喜んでくれたってことは、迷惑じゃないってことだよね』
『絶対受かろう』
『いつから、一緒じゃないと不安を感じるようになったんだろ』
『ずっと隣にいてもいいって言ってもらえるように、頑張ろう』

 ああ、やっぱり。これは、私のことを言っていたんだ。
 咲乃が苦しんでいたことに気付けなかった自分を情けなく思う。

「白雪は、和多瀬に依存してたんだ」
「依存?」
「そう。和多瀬がいないと生きてけないってやつ」

 それは、私のほうだ。新城を選んだ咲乃は、違わないか。
 そう思ったけど、話の腰を折るわけにはいかない。
 怜依は反論したい思いを堪え、咲乃が残し続けた本音を見ていく。
 投稿は、七月から一気に今年の四月に飛んだ。

『いっぱい「好き」って言ってもらってるのに、私に言われてるわけじゃない気がしてくる』
『私が私をキライだから、信じたいのに信じれない』
『こんなにいっぱい暗いこと考えてるって知られたら、嫌われちゃう』
『でも、これも私』
『本当の私を知っても、嫌わないでくれるかな……なんて、都合よすぎるよね』
『こんな私、消えちゃえばいいのに』
『消えたい』

 その言葉を見た瞬間、手が止まった。
 咲乃がこんなに追い詰められていたなんて、知らなかった。あの笑顔の下で、たくさん泣いていたなんて。
 新城が『気付いてあげて』と言っていた理由を、今、理解した。

「……新城は、咲乃が苦しんでることを知ってたの?」

 画面から目を逸らしたくて新城を見ると、ちょうど缶コーヒーを飲み切ったようだった。

「んー……俺と白雪が出会ったきっかけは聞いてる?」
「駅で輩に絡まれてたところを助けてもらったって」
「うん、そう。駅で会った」

 本当なのかわからずに言うと、新城は頷いた。
 全部がウソのように思えていた中で、真実もちゃんとあったことに安心した。
 
「そのとき俺、困ってるのが白雪って気付かずに助けたんだよね。で、ナンパ野郎を追いやってから、そこにいたのが”天使の咲乃”ってことに気付いて。いい子ちゃんがこんなところでなにしてんのって言ったら、白雪は困ったような顔をした」

 怜依は、咲乃と花那が顔を合わせたときのことを思い出した。
 あのとき、花那はなんと言っていただろうか。あれが、花那の存在に怯えたわけではなく、言葉に反応していたのだとしたら。
 怜依が何度も言ってきた言葉が、咲乃にとって呪いになっていたことになる。
 まさか、誉め言葉で言っていたものが、咲乃を苦しめていたなんて、思いもしなかった。

「……タイミングが、悪かったんだと思う。ほら、上手く仮面が被れないタイミングってあるでしょ。そのときの白雪は、ちょうどそれだったんだ。で、いろいろ話してくうちに、白雪は、いい子でいることがつらいって零したんだ」

 言葉が出なかった。
 もうこれ以上聞きたくないとも思うのに、知らなければならないという義務感が、それをさせなかった。

「和多瀬、今どこまで読んだ?」
「え? あ、えっと、まだ四月……」
「もうちょい読み進めて」

 言われるがままに、スクロールする。

『またやっちゃった』
『どうしても試しちゃう』
『嫌われるようなことをしてるのに、笑って許してくれることに安心して、なにしてるんだろう』
『くだらない承認欲求のために好きな人を傷付ける私、本当に最低』

 怜依には、咲乃に傷付けられたという心当たりはなかった。だから、この言葉は違和感しかない。

「白雪は、和多瀬に嫌われるのを怖がってて。嫌われたら世界が終わるって言うくらい、和多瀬に依存してた」
「私はそれでもよかったのに……」
「和多瀬がよくても、白雪はよくなかったんだよ」

 そう言われて、怜依は言い返せなかった。
 文字ではあるけれど、咲乃が苦しんでいたことを知った今、それは一方通行な思いでしかないとわかってしまった。

「で、和多瀬だけに甘えるから苦しいんだってことで、俺との恋人ごっこを提案したってわけ」

 新城の話は唐突に完結した。怜依は呆気に取られてしまう。
 まだ、もっと話すことがあるはずだ。
 新城からおままごとのような関係を始めた理由とか。新城が咲乃の裏アカを知ってる理由とか。
 まだ、足りない。

「俺の話は終わりだよ、和多瀬。あとは白雪と直接話して」

 新城は言いながら、手を組んで身体を伸ばす。
 そう言われてしまっては、問い詰めることもできない。

「全部読んだ?」
「……まだ」

 新城が話してくれないなら、残された手がかりはこの投稿しかない。
 続きを読もうとスマホに目をやると、画面が真っ暗になっていた。新城に渡してロックを外してもらうと、最新の投稿に戻っていた。
 もう一度すべて遡るのは時間がかかりそうだ。
 一番知りたいのは、咲乃が誰に別れを迫られていたのか。
 それがわかりそうな九月まで戻した。

『私に彼氏ができたって言ったら、怒るかな』
『今度こそ、嫌われる?』
『でも、独り立ちするいいチャンス』
『強くなれるかな』
『ううん、強くなりたい』

 咲乃の言う、怜依を試すとはどういうことなのか、理解した。
 そして、咲乃が別れたくないと言っていた理由も。
 新城のことが好きだから、別れたくないって言ったわけじゃなかったんだ。

『最近、話せてない』
『やっぱり、間違ったかな』
『話せないの、しんどい』
『会いたい』
『でも、いつか、会うこともできなくなる日が来るだろうし』
『そのための時間なんだって思うことにしよう』

 怜依が咲乃を避けていたことで、咲乃を苦しめていたなんて。
 わかっていたら、素直に寂しいって言ったのに。
 そう思う反面、咲乃も一緒にいたいと思ってくれていたことに安心しているところもあった。

『私があの人を傷つけてるって言われた』
『彼氏なんて作ったから、いっぱい傷つけてるんだって』
『私もそう思う』
『別れろって言われた』
『それが正解なんだろうけど、まだ、それは選べない』
『まだ、私は強くなれてない』

 手が、止まった。
 そうだ、どうして忘れていたんだろう。
 咲乃は、誰かに新城との別れを迫られていたんだ。
 でもこれを見るに、それを言った人物は怜依が傷ついているからという理由で、新城と別れるように言っている。
 パズルのピースは揃っている。
 だけど、認めたくなくて、完成させられない。
 だって、それは、あまりにも残酷すぎる。

「和多瀬?」

 新城の心配するような声で、怜依は画面から目を逸らす。
 新城を捉えた瞳は、小さく揺れ動いている。

「めちゃくちゃ顔色悪いけど、大丈夫?」

 大丈夫なわけがない。

「ねえ、新城……咲乃を階段から落としたのって……」

 嫌だ、言いたくない。
 言ったら、認めたことになる。
 だけどもう、その可能性しか考えられない。

「……佑真なの?」

 新城は、応えなかった。