◇
一時限目は、数学だった。一週間も経てば、かなり授業は進んでいて、三角関数なんて知らない単元が始まっていた。
怜依はまったく知らないことで戸惑っているのに、周りは黒板とノートを交互に見て、授業を受けている。
授業に集中できるとは思っていなかったけど、こうなってしまうと、ますます聞く気力がなくなった。
そっとペンを置いて、窓の外に視線をやる。いつもは視界の端にちらつく銀色の髪は、今日はいない。なににも遮られずに、空を見つめる。
咲乃にいろいろ言っていたのは、花那だと思ったのに。
一番の当てが外れてしまい、もう手詰まりの予感がした。
薄暗い雲が、青い空を隠し始める。雨が降りそうな空だ。目を逸らしたくなるような、嫌な雰囲気。
『和多瀬。気付いてあげて』
机に伏してしまおうと思ったそのとき、新城の声が聞こえてきた。
咲乃の裏アカを教えられたときに言われた言葉。
それを思い出すと、眠っている場合ではないと思った。
情報を整理するために、閉じていたノートを開く。
咲乃は、新城と別れるように迫られていた。でも、誰に? あの話を信じるならば、花那ではなかった。だとすれば、他の新城の取り巻きか。一体、何人いるのだろう。全員に聞いて回っていては、怜依が不審がられて終わり。現実味のない手段だ。実践すべきではない。
そして、花那の言葉。
新城と咲乃は、お互いに好きだから付き合っていたわけではない。
これがもし本当なら、咲乃のあの言葉たちは、誰のことを言っているのだろう。そして、なんのために、付き合ったのか。
後者に関しては、新城に聞けばすぐ解決するだろう。だけど、新城の口からは教えないと言われてしまっている。聞けそうにない。
それから、もう一つ。
咲乃には友達がいない。
これは、嘘だ。だって、咲乃はよく、香田織寧の話をしていたから。
小学校のときから、今でも織寧の話が出てくる。織寧が友達じゃないだなんて、嘘だ。
きっと、花那が見かけなかっただけ。
怜依もそうだったように、組が違えば、話す機会だって減るのだから。
そう考えながら、気付きたくないことが思い浮かんでくる。
例えば、織寧がお見舞いに来ないとか。
例えば、夏休みに咲乃と遊んでいなかったとか。
咲乃に友達がいないというのは、怜依が信じたいことなのかもしれない。
これは一度、織寧と会って話を聞いたほうがいいだろう。
そこまでまとめて、シャーペンを置いた。
気付けば、雨が降り始めていた。
◇
昼休み、怜依は織寧に会うために、一階に降りた。
たしか、クラスは咲乃と同じ一組だったはず。春、咲乃が織寧と同じクラスであることを嬉しそうに報告していた。
そんな記憶を頼りに、一年生のフロアに足を踏み入れる。たった一年違うだけの彼らが、とても眩しく見えた。その賑やかさに、廊下の端から進むのを躊躇ってしまう。
雨が降っていることもあって、廊下にはたくさんの生徒がいる。この中から香田織寧を探すのは、無理だ。
諦めて帰ろうとしたそのとき、前方から歩いてくる一人の女子生徒と目が合った。おさげの彼女は、なんだか見覚えがある。
まさに、彼女が香田織寧だった。
織寧は怜依に気付くと、軽く会釈をして、教室に入ろうとする。
「ま、待って……!」
怜依が慌てて引き留めると、織寧は少し驚いた様子を見せた。
「香田織寧さん、だよね?」
「そうですけど……」
「あの、ちょっとだけ、時間ある?」
織寧が戸惑いながら頷くと、二人はその場を離れ、隣の空き教室に入った。
壁を一枚挟むだけで、外の騒がしさと世界が切り離されたような気がしてくる。外では変わらず、雨が降っている。
さて、なにを聞く?
貴方は本当に咲乃の友達?なんて聞けるわけがない。
こうして押しかけておきながら、なにを話せばいいのかわからなくなるなんて、織寧にとっても迷惑だろう。
はやく、なにか言わないと。
「和多瀬先輩が、私になんの用ですか?」
迷っていると、織寧が先に切り出した。怜依は数回ほど瞬きをする。
「私の名前、知ってるの?」
「それは、まあ。先輩と白雪さんの仲の良さは、昔から有名なので」
白雪さん。
咲乃は“織寧ちゃん”と呼んでいたのに、その距離に違和感を抱いた。
だけど、認めたくない気持ちが強くて、怜依はその違和感に目を瞑る。
「香田さんは」
どうして咲乃のお見舞いに来ないの?
そんな言葉が喉元まで出かかった。
違う、そんな責めるようなことが言いたいわけではない。
咲乃の友達なんだよね?
これも、違う気がする。
「……咲乃と新城が付き合ってるって、知ってた?」
絞り出したのが、あんなにも避けていたこの話題だなんて。
でも、これを聞いたとて、次にどう話せばいいのかわからない。無計画に行動しなければよかった。
「新城……あ、あの銀髪の先輩? 白雪さん、あんな派手な人と付き合ってたんだ」
怜依は織寧のことをよく知らない。
けれど、よく知らなくても、この反応に嘘偽りがないことを感じ取った。
咲乃は、織寧には伝えていなかった。友達なのに。
「香田さんから見ても、咲乃が新城と付き合うのって意外に思う?」
「それは、まあ……白雪さんって、真面目で大人しいいい子ちゃんだから、そういう派手な人とは付き合わないと思ってました」
織寧の言う咲乃のイメージは、あまりいい印象を抱かなかった。むしろ、嫌がっているような。
ますます、咲乃と織寧が友達なのか、疑惑が深まってしまう。
もう、遠回しに尋ねるのはやめよう。
「あの……もしかして、咲乃のことあまり好きじゃない?」
織寧はすぐには答えない。
怜依から目を逸らして、気まずそうに俯いた。
「……正直、苦手です」
怜依はその言葉を静かに受け止める。
多くの女子から慕われていても、怜依が新城を嫌がるように、咲乃のことをそう感じる人がいてもおかしくない。
怜依には、織寧を責める資格なんてない。
「……だから、最近は咲乃と一緒にいないの?」
「私が白雪さんと一緒にいないんじゃなくて、白雪さんが私たちといても、和多瀬先輩を優先するんですよ」
そう言われて、学校での咲乃を思い出した。
どんなときでも、見かけたら必ず怜依のもとに駆け寄ってきていた咲乃。
怜依はそれを可愛らしく思っていた。
でも、織寧からしてみれば、一緒にいるのに、自分のもとを去って別の人のところに行かれる。一度ならず、何度も。
これを、よく思う人なんていないだろう。
「白雪さんは、私たちのこと友達だなんて思っていないんだろうなって思っても、いつも静かについて来てて。昔は明るい子だったのに、中学生になった辺りから黙ってそこにいるから、なんか……よくわかんないです」
また、知らない咲乃だ。
本当に、咲乃を見ていなかったんだと思い知らされる。
「……あの、大丈夫ですか?」
怜依が受け止めきれずにいると、織寧が恐る恐る言った。怜依は無理に笑顔を作る。
「大丈夫。ごめんね、時間取らせて。話、聞かせてくれてありがとね」
唐突に話を切り上げたから、織寧は戸惑いながら、ドアに向かう。
そしてドアを開けると、なにかを思い出したような声を漏らした。
「多分なんですけど、白雪さんは、和多瀬先輩のことだけが、好きなんだと思います。それも含めて、新城先輩と付き合ってるのは変な感じがします。……じゃあ」
織寧は小さく頭を下げて、教室を出ていった。
一人の空間で、怜依は机に体重を預け、息を吐き出す。
咲乃と織寧は友達と言えるような関係ではなかった。言うなれば、ただの同級生。クラスメイト。
そして、最後の言葉。
咲乃は怜依だけが好き。
それが答えを示しているような気がした。
「あれは、新城のことじゃなくて、私のことだったの……?」
怜依の独り言に応えるのは、雨音だけ。
もし、それが正解なら。
咲乃は、怜依といることで苦しんでいたことになる。
そんなの信じたくないけど、その可能性が浮上してしまった今、抱いている感情をどう言語化すればいいのかわからない。
そして、やっぱり新城と付き合い始めた理由もわからない。
『俺からは話さない』
新城はそう言っていたけど、この答えを持っているのは、咲乃か新城のどちらか。
咲乃はまだ眠ったままだから、咲乃を見つけるためには、新城に聞くしかない。
「どこにいるの、バカ」
怜依は強くなり始めた雨を見つめながら呟いた。
一時限目は、数学だった。一週間も経てば、かなり授業は進んでいて、三角関数なんて知らない単元が始まっていた。
怜依はまったく知らないことで戸惑っているのに、周りは黒板とノートを交互に見て、授業を受けている。
授業に集中できるとは思っていなかったけど、こうなってしまうと、ますます聞く気力がなくなった。
そっとペンを置いて、窓の外に視線をやる。いつもは視界の端にちらつく銀色の髪は、今日はいない。なににも遮られずに、空を見つめる。
咲乃にいろいろ言っていたのは、花那だと思ったのに。
一番の当てが外れてしまい、もう手詰まりの予感がした。
薄暗い雲が、青い空を隠し始める。雨が降りそうな空だ。目を逸らしたくなるような、嫌な雰囲気。
『和多瀬。気付いてあげて』
机に伏してしまおうと思ったそのとき、新城の声が聞こえてきた。
咲乃の裏アカを教えられたときに言われた言葉。
それを思い出すと、眠っている場合ではないと思った。
情報を整理するために、閉じていたノートを開く。
咲乃は、新城と別れるように迫られていた。でも、誰に? あの話を信じるならば、花那ではなかった。だとすれば、他の新城の取り巻きか。一体、何人いるのだろう。全員に聞いて回っていては、怜依が不審がられて終わり。現実味のない手段だ。実践すべきではない。
そして、花那の言葉。
新城と咲乃は、お互いに好きだから付き合っていたわけではない。
これがもし本当なら、咲乃のあの言葉たちは、誰のことを言っているのだろう。そして、なんのために、付き合ったのか。
後者に関しては、新城に聞けばすぐ解決するだろう。だけど、新城の口からは教えないと言われてしまっている。聞けそうにない。
それから、もう一つ。
咲乃には友達がいない。
これは、嘘だ。だって、咲乃はよく、香田織寧の話をしていたから。
小学校のときから、今でも織寧の話が出てくる。織寧が友達じゃないだなんて、嘘だ。
きっと、花那が見かけなかっただけ。
怜依もそうだったように、組が違えば、話す機会だって減るのだから。
そう考えながら、気付きたくないことが思い浮かんでくる。
例えば、織寧がお見舞いに来ないとか。
例えば、夏休みに咲乃と遊んでいなかったとか。
咲乃に友達がいないというのは、怜依が信じたいことなのかもしれない。
これは一度、織寧と会って話を聞いたほうがいいだろう。
そこまでまとめて、シャーペンを置いた。
気付けば、雨が降り始めていた。
◇
昼休み、怜依は織寧に会うために、一階に降りた。
たしか、クラスは咲乃と同じ一組だったはず。春、咲乃が織寧と同じクラスであることを嬉しそうに報告していた。
そんな記憶を頼りに、一年生のフロアに足を踏み入れる。たった一年違うだけの彼らが、とても眩しく見えた。その賑やかさに、廊下の端から進むのを躊躇ってしまう。
雨が降っていることもあって、廊下にはたくさんの生徒がいる。この中から香田織寧を探すのは、無理だ。
諦めて帰ろうとしたそのとき、前方から歩いてくる一人の女子生徒と目が合った。おさげの彼女は、なんだか見覚えがある。
まさに、彼女が香田織寧だった。
織寧は怜依に気付くと、軽く会釈をして、教室に入ろうとする。
「ま、待って……!」
怜依が慌てて引き留めると、織寧は少し驚いた様子を見せた。
「香田織寧さん、だよね?」
「そうですけど……」
「あの、ちょっとだけ、時間ある?」
織寧が戸惑いながら頷くと、二人はその場を離れ、隣の空き教室に入った。
壁を一枚挟むだけで、外の騒がしさと世界が切り離されたような気がしてくる。外では変わらず、雨が降っている。
さて、なにを聞く?
貴方は本当に咲乃の友達?なんて聞けるわけがない。
こうして押しかけておきながら、なにを話せばいいのかわからなくなるなんて、織寧にとっても迷惑だろう。
はやく、なにか言わないと。
「和多瀬先輩が、私になんの用ですか?」
迷っていると、織寧が先に切り出した。怜依は数回ほど瞬きをする。
「私の名前、知ってるの?」
「それは、まあ。先輩と白雪さんの仲の良さは、昔から有名なので」
白雪さん。
咲乃は“織寧ちゃん”と呼んでいたのに、その距離に違和感を抱いた。
だけど、認めたくない気持ちが強くて、怜依はその違和感に目を瞑る。
「香田さんは」
どうして咲乃のお見舞いに来ないの?
そんな言葉が喉元まで出かかった。
違う、そんな責めるようなことが言いたいわけではない。
咲乃の友達なんだよね?
これも、違う気がする。
「……咲乃と新城が付き合ってるって、知ってた?」
絞り出したのが、あんなにも避けていたこの話題だなんて。
でも、これを聞いたとて、次にどう話せばいいのかわからない。無計画に行動しなければよかった。
「新城……あ、あの銀髪の先輩? 白雪さん、あんな派手な人と付き合ってたんだ」
怜依は織寧のことをよく知らない。
けれど、よく知らなくても、この反応に嘘偽りがないことを感じ取った。
咲乃は、織寧には伝えていなかった。友達なのに。
「香田さんから見ても、咲乃が新城と付き合うのって意外に思う?」
「それは、まあ……白雪さんって、真面目で大人しいいい子ちゃんだから、そういう派手な人とは付き合わないと思ってました」
織寧の言う咲乃のイメージは、あまりいい印象を抱かなかった。むしろ、嫌がっているような。
ますます、咲乃と織寧が友達なのか、疑惑が深まってしまう。
もう、遠回しに尋ねるのはやめよう。
「あの……もしかして、咲乃のことあまり好きじゃない?」
織寧はすぐには答えない。
怜依から目を逸らして、気まずそうに俯いた。
「……正直、苦手です」
怜依はその言葉を静かに受け止める。
多くの女子から慕われていても、怜依が新城を嫌がるように、咲乃のことをそう感じる人がいてもおかしくない。
怜依には、織寧を責める資格なんてない。
「……だから、最近は咲乃と一緒にいないの?」
「私が白雪さんと一緒にいないんじゃなくて、白雪さんが私たちといても、和多瀬先輩を優先するんですよ」
そう言われて、学校での咲乃を思い出した。
どんなときでも、見かけたら必ず怜依のもとに駆け寄ってきていた咲乃。
怜依はそれを可愛らしく思っていた。
でも、織寧からしてみれば、一緒にいるのに、自分のもとを去って別の人のところに行かれる。一度ならず、何度も。
これを、よく思う人なんていないだろう。
「白雪さんは、私たちのこと友達だなんて思っていないんだろうなって思っても、いつも静かについて来てて。昔は明るい子だったのに、中学生になった辺りから黙ってそこにいるから、なんか……よくわかんないです」
また、知らない咲乃だ。
本当に、咲乃を見ていなかったんだと思い知らされる。
「……あの、大丈夫ですか?」
怜依が受け止めきれずにいると、織寧が恐る恐る言った。怜依は無理に笑顔を作る。
「大丈夫。ごめんね、時間取らせて。話、聞かせてくれてありがとね」
唐突に話を切り上げたから、織寧は戸惑いながら、ドアに向かう。
そしてドアを開けると、なにかを思い出したような声を漏らした。
「多分なんですけど、白雪さんは、和多瀬先輩のことだけが、好きなんだと思います。それも含めて、新城先輩と付き合ってるのは変な感じがします。……じゃあ」
織寧は小さく頭を下げて、教室を出ていった。
一人の空間で、怜依は机に体重を預け、息を吐き出す。
咲乃と織寧は友達と言えるような関係ではなかった。言うなれば、ただの同級生。クラスメイト。
そして、最後の言葉。
咲乃は怜依だけが好き。
それが答えを示しているような気がした。
「あれは、新城のことじゃなくて、私のことだったの……?」
怜依の独り言に応えるのは、雨音だけ。
もし、それが正解なら。
咲乃は、怜依といることで苦しんでいたことになる。
そんなの信じたくないけど、その可能性が浮上してしまった今、抱いている感情をどう言語化すればいいのかわからない。
そして、やっぱり新城と付き合い始めた理由もわからない。
『俺からは話さない』
新城はそう言っていたけど、この答えを持っているのは、咲乃か新城のどちらか。
咲乃はまだ眠ったままだから、咲乃を見つけるためには、新城に聞くしかない。
「どこにいるの、バカ」
怜依は強くなり始めた雨を見つめながら呟いた。