いつの間にか眠りについていて、意識が戻ったときには、カーテンの隙間から光が差し込んでいた。
ドアの向こうから物音がすることから、親がまだいることに気付いた。
二度寝をしたところで中途半端な時間になるだろうから、怜依はベッドを降りた。
「あれ、早いね、怜依。おはよう」
リビングに向かうと、身支度を整え、朝食の準備をしていた母親の深琴がいた。
怜依の気持ちが落ちたままなのを察してか、暖かい笑みだ。
「おはよう……」
「もう朝ごはん食べる?」
「……うん」
忙しなく動く深琴を見守りながら、怜依は席に着いた。
そこには、白紙のメッセージカードがある。
いつも、何気ない言葉が書かれているカード。まだ白紙なのは、これから書くつもりなのか。それとも、書くことがないのか。
きっと、後者だろう。
こんな状態の娘に、どんな言葉を置いて行けばいいのか、わからないのが普通だ。
怜依は食卓テーブルの真ん中に置かれたペン立てから、黒のボールペンを抜き取る。
『学校、行ってくる』
なんてどうでもいい報告なんだろう。
深琴に気付かれる前に、捨ててしまおう。
「行くの?」
紙を丸めようとしたとき、背後から声がした。驚き、振り向くと、深琴が真後ろに立っている。
「びっくりした……」
「ごめん、ごめん。そんな驚くとは」
深琴は笑いながら、怜依の前にサラダを置いた。そして、怜依の向かいの席にも置くと、席に着く。
「いただきます」
今のメッセージに触れるより先に、手を合わせて食べ始めた。
準備が整った状態で食べないというのは居心地が悪く、小声で「いただきます」といい、箸を手にした。
「咲乃ちゃん、目を覚ましたの?」
口に物を含んだ状態だったから、首を横に振ることで答える。
「そっか……階段から落ちて、頭打ってるんだっけ。心配だね」
怜依がゆっくりと食べ進めていくのに対して、深琴はどんどん平らげていく。二人に与えられた時間が、同じものとは思えないような時の流れ方をしているようだ。
「千早さんは? どんな?」
「元気だよ。なんか、私のほうが心配してる感じがするくらい」
言って、自分の声にトゲがあることに気付いた。
怜依の物言いに、深琴も驚いている。怜依は深琴の視線から逃げる。
「元気なふりを、してるんじゃないかな」
顔を上げると、深琴は視線を落として、食べ続けている。
「平気なふりをしていないと、心が壊れちゃうときもあるからね」
深琴は最後の一口を水で流し込み、席を立った。お皿をシンクに運び、洗い始める。
食卓テーブルに一人残された怜依は、箸が進まなかった。
自分の視野の狭さを思い知らされ、恥ずかしく感じた。
一人娘が、頭を打って意識不明になっているなんて、心配していないわけがない。少し考えればわかることだ。
いつも通りに見えるからといって、勝手に決めつけてしまった。
こんなだから、咲乃の心の叫びにも、気付けなかったのかな。
そう思うと、余計に箸が進まなくなった。
「怜依、大丈夫? 今日も休む?」
怜依が固まっているところに、洗い物を終えた深琴は、カウンター越しに柔らかい声で呼びかけた。その表情には、心配の色が見える。
「……大丈夫。今日は行く」
「そう? でも、無理は禁物だからね。やっぱり休もうかなってなったら、休みなさい。じゃあ、行ってきます」
深琴は腕時計を付けたり、スマホをカバンに入れたりと、無駄のない動きで準備を終えると、そのまま家を出た。
「……行ってらっしゃい」
それを言ったときには、ドアが閉まる音がした。
一人になったリビングは、怜依にとっての日常。そのはずなのに、今日は深琴と話したからか、やけに静かに感じた。
壁に掛けられた時計は、七時十五分を指している。明らかに、いつもより早い。
だけど、好都合かもしれない。早く学校に行けば、花那を待ち伏せることができるから。
それに気付いた怜依は、すぐに朝食を食べ終え、身支度を整えた。咲乃がいないとわかっているから、メイクはなし。必要最低限で整えられた容姿は、なんとも暗い印象だ。
だが、自分の見目には興味がない怜依は、そのまま家を出た。
高く澄んだ青空を見ていると、まだ夏に取り残されているような気がしてくる。だけど、ときどき吹き付ける涼しい風に、秋を予感しながら、独り、歩き進めた。
学校に着くと、朝練をしている部活生たちの声を聞きながら、昇降口で花那を待つ。
雲も涼しい風を受けて、空を流れ進む。あの雲、犬みたい、なんて思いながら、静かに見つめる。
そうしているうちに、周りが賑やかになり始めたことに気付いた。
スマホで時間を確認すると、八時を過ぎたばかりだった。
咲乃がいないのに、それぞれの日常が流れていく。友達と笑いあっている人、スマホを触っている人、恋人と幸せそうに歩いている人。
一週間前、咲乃が救急車で運ばれたことも、未だに眠ったままなのも、誰も知らないみたい。
ああ、そうか。
みんな、他人のことに興味なんてないんだ。私がそうだったみたいに。
そう思うと、途端に世界がどうでもよく感じた。
「あれ、怜依ちゃん?」
先に現れたのは、佑真だった。怜依がここにいることを疑うような目を向けてくる。
「ここでなにしてるの?」
「足立花那を待ってる」
「足立さん?」
佑真は目で“どうして?”と尋ねている。
私も、なにも知らないでいられたら、こんな反応をしただろう。お気楽で羨ましい。
「咲乃のことで、ちょっとね」
佑真から視線を逸らしたそのとき、怜依は花那の姿を見つけた。怜依にも佑真にも気付かず、スマホを片手に歩いてくる。
その表情から感情が読み取れず、近寄りがたく思ってしまう。
それでも、目的のために怜依は足を踏み出した。
「……なに」
怜依が道を塞ぐと、花那は怪訝そうに言った。
少なからず、怜依の話を聞く気があるのか、イヤホンを外す。
「……咲乃のことで、聞きたいことがある」
「貴方の天使ちゃん?」
相変わらず、花那は咲乃を見下しているようだった。
今度こそ言い返してやろうかと思ったが、今の目的はそこではない。
怜依は芽生えた怒りを、無理矢理鎮める。
「場所、変えたい」
「今、ここで話せないこと?」
怜依は周囲を見た。
まだ、登校してくる生徒がいる。ここで、話していいこととは思えない。
小さく頷くと、花那は面倒そうに息を吐き出した。
それを肯定と受け取り、怜依は下駄箱に向かう。
「怜依ちゃん……」
佑真は、まだ教室に行っていなかったようで、心配そうに怜依を呼び止めた。
しかし次の言葉を言わない。
怜依には佑真の言葉を待つ時間などなかったため、佑真を置いて校内を進んだ。
ときどき、花那が後ろにいるかを確認しながらたどり着いたのは、非常階段。
咲乃が怪我を負った場所だ。
「こんなところに連れてきて、私をあの子みたいにケガさせようって魂胆?」
花那は階段を降りていく。
途中で振り向いた表情は、呆れている。
「……足立さんが、咲乃を落としたの?」
怜依の言葉に、花那はニヤリと笑った。
花那が踊り場に立ったとき、風が吹いた。花那の柔らかい髪がなびく。
身体ごと怜依と向き合った花那は、まだ不敵な笑みを浮かべている。
「私じゃないよ」
花那の言葉が、静かに置かれた。
私じゃない? あんな表情をしておいて?
「嘘つかないで」
怜依は階段を降り、花那の胸ぐらを掴んだ。勢いで、花那のスクールバッグが肩から落ちる。
「アンタが、ここで咲乃に新城と別れるように迫って、咲乃が頷かなかったから、落としたんでしょ!?」
怒りに身を任せた怜依と、未だに冷静な花那。少しでも間違えば踊り場から落ちてしまいそうなのに、花那は少しも動揺を見せない。
「だから、私じゃないってば」
花那は怜依の手を引き剥がすと、襟元を正す。
怜依はまだ納得がいっていない。
「だいたい、別れを迫るってなに? そんなことしてないから」
「咲乃のこと、気に入らなかったんじゃないの」
花那が咲乃を見下していた表情は、まだ明確に思い出せる。
あれで、咲乃が新城と付き合うことを認めていたとは、到底思えない。
「どうせ別れるってわかってて、言うわけないじゃん」
花那がどうしてそんなことを知っているのか、怜依にはわからなかった。
花那は興味なさそうに、自分の毛先をいじっている。
「隼人、いつも通り本気じゃなかったし。あの子も、別に隼人のこと好きじゃなかったみたいだし?」
「そんなわけ……」
花那の、怜依を嘲笑うような表情を見ると、語尾が消えていった。
「貴方、あんなにあの子を構っていながら、なにも見てないんだね」
返す言葉が見つからない。今、一番言われたくない言葉だった。
だけど、咲乃の表情を思い返すと、どうしてもそれが信じられなかった。あんなに、新城のことが好きでたまらないという反応をしていたのに。
「……なにを根拠に、そう思うの」
「あの子が嫉妬しなかったから。普通は、隼人の彼女にとって、私って目障りな存在なんだよね。だから、嫌われ慣れてるっていうか。睨まれても、別に?って感じなんだけど。あの子は、怯えてはいたけど、私を睨んだりしなかった。だから、この子は隼人のことが好きで、隼人と付き合ってるんじゃないんだなって思った。私が邪魔なんかしなくても、別れるだろうなって」
花那の話に、嘘が紛れているようには感じない。
怜依が見ている咲乃が、咲乃のすべてではないとわかった今、それも受け入れるべき姿なんだろう。だけど、あの表情が嘘だったとも思えなかった。
「私には、新城が好きなように見えたのに……」
「じゃあ、貴方の前だけはそう振る舞ってたんじゃない?」
「なんのために」
咲乃のことをよく知らないで言われたことが気に入らず、怜依は間髪入れずに言った。
「見栄を張るため?」
花那が適当に答えたように感じて、ますます面白くない。
「知ってる? あの子、貴方の前でしか笑ってないの」
あんなにも笑顔が似合う子なのに? いつだって笑顔を絶やさないような子なのに?
もう、なにを信じればいいのか、わからなくなってしまった。
「体育祭練習のときとか、隼人と話したくて紅組に行ってたけど、あの子、一人でポツンとしてることが多かったし。友達いないんじゃない?」
明らかに咲乃が侮辱されているのに、怜依は返す気力がなかった。
怜依が呆然としている中で、始業を告げるチャイムが鳴った。
「あーあ、遅刻じゃん、私」
そんなこと、気にしないくせに。
そう思っても、言わなかった。
「それで? 気が済んだ?」
花那は小さな欠伸をしながら言う。
これ以上、花那に聞くことはなさそうで、怜依は頷いた。
「じゃ、犯人探し、頑張ってねー」
とてつもなく興味なさそうに言いながら、花那は階段を降りていった。
無意識のうちに緊張していたようで、一人になった途端、大きく息を吐き出すと共に、膝を抱えて丸まった。
花那から聞いた話は、まだ処理がしきれていない。やっぱり、嘘があったのではないかと思ってしまうくらいだ。
「もうわかんないよ、咲乃……」
怜依の独り言は、青空に溶けていった。
ドアの向こうから物音がすることから、親がまだいることに気付いた。
二度寝をしたところで中途半端な時間になるだろうから、怜依はベッドを降りた。
「あれ、早いね、怜依。おはよう」
リビングに向かうと、身支度を整え、朝食の準備をしていた母親の深琴がいた。
怜依の気持ちが落ちたままなのを察してか、暖かい笑みだ。
「おはよう……」
「もう朝ごはん食べる?」
「……うん」
忙しなく動く深琴を見守りながら、怜依は席に着いた。
そこには、白紙のメッセージカードがある。
いつも、何気ない言葉が書かれているカード。まだ白紙なのは、これから書くつもりなのか。それとも、書くことがないのか。
きっと、後者だろう。
こんな状態の娘に、どんな言葉を置いて行けばいいのか、わからないのが普通だ。
怜依は食卓テーブルの真ん中に置かれたペン立てから、黒のボールペンを抜き取る。
『学校、行ってくる』
なんてどうでもいい報告なんだろう。
深琴に気付かれる前に、捨ててしまおう。
「行くの?」
紙を丸めようとしたとき、背後から声がした。驚き、振り向くと、深琴が真後ろに立っている。
「びっくりした……」
「ごめん、ごめん。そんな驚くとは」
深琴は笑いながら、怜依の前にサラダを置いた。そして、怜依の向かいの席にも置くと、席に着く。
「いただきます」
今のメッセージに触れるより先に、手を合わせて食べ始めた。
準備が整った状態で食べないというのは居心地が悪く、小声で「いただきます」といい、箸を手にした。
「咲乃ちゃん、目を覚ましたの?」
口に物を含んだ状態だったから、首を横に振ることで答える。
「そっか……階段から落ちて、頭打ってるんだっけ。心配だね」
怜依がゆっくりと食べ進めていくのに対して、深琴はどんどん平らげていく。二人に与えられた時間が、同じものとは思えないような時の流れ方をしているようだ。
「千早さんは? どんな?」
「元気だよ。なんか、私のほうが心配してる感じがするくらい」
言って、自分の声にトゲがあることに気付いた。
怜依の物言いに、深琴も驚いている。怜依は深琴の視線から逃げる。
「元気なふりを、してるんじゃないかな」
顔を上げると、深琴は視線を落として、食べ続けている。
「平気なふりをしていないと、心が壊れちゃうときもあるからね」
深琴は最後の一口を水で流し込み、席を立った。お皿をシンクに運び、洗い始める。
食卓テーブルに一人残された怜依は、箸が進まなかった。
自分の視野の狭さを思い知らされ、恥ずかしく感じた。
一人娘が、頭を打って意識不明になっているなんて、心配していないわけがない。少し考えればわかることだ。
いつも通りに見えるからといって、勝手に決めつけてしまった。
こんなだから、咲乃の心の叫びにも、気付けなかったのかな。
そう思うと、余計に箸が進まなくなった。
「怜依、大丈夫? 今日も休む?」
怜依が固まっているところに、洗い物を終えた深琴は、カウンター越しに柔らかい声で呼びかけた。その表情には、心配の色が見える。
「……大丈夫。今日は行く」
「そう? でも、無理は禁物だからね。やっぱり休もうかなってなったら、休みなさい。じゃあ、行ってきます」
深琴は腕時計を付けたり、スマホをカバンに入れたりと、無駄のない動きで準備を終えると、そのまま家を出た。
「……行ってらっしゃい」
それを言ったときには、ドアが閉まる音がした。
一人になったリビングは、怜依にとっての日常。そのはずなのに、今日は深琴と話したからか、やけに静かに感じた。
壁に掛けられた時計は、七時十五分を指している。明らかに、いつもより早い。
だけど、好都合かもしれない。早く学校に行けば、花那を待ち伏せることができるから。
それに気付いた怜依は、すぐに朝食を食べ終え、身支度を整えた。咲乃がいないとわかっているから、メイクはなし。必要最低限で整えられた容姿は、なんとも暗い印象だ。
だが、自分の見目には興味がない怜依は、そのまま家を出た。
高く澄んだ青空を見ていると、まだ夏に取り残されているような気がしてくる。だけど、ときどき吹き付ける涼しい風に、秋を予感しながら、独り、歩き進めた。
学校に着くと、朝練をしている部活生たちの声を聞きながら、昇降口で花那を待つ。
雲も涼しい風を受けて、空を流れ進む。あの雲、犬みたい、なんて思いながら、静かに見つめる。
そうしているうちに、周りが賑やかになり始めたことに気付いた。
スマホで時間を確認すると、八時を過ぎたばかりだった。
咲乃がいないのに、それぞれの日常が流れていく。友達と笑いあっている人、スマホを触っている人、恋人と幸せそうに歩いている人。
一週間前、咲乃が救急車で運ばれたことも、未だに眠ったままなのも、誰も知らないみたい。
ああ、そうか。
みんな、他人のことに興味なんてないんだ。私がそうだったみたいに。
そう思うと、途端に世界がどうでもよく感じた。
「あれ、怜依ちゃん?」
先に現れたのは、佑真だった。怜依がここにいることを疑うような目を向けてくる。
「ここでなにしてるの?」
「足立花那を待ってる」
「足立さん?」
佑真は目で“どうして?”と尋ねている。
私も、なにも知らないでいられたら、こんな反応をしただろう。お気楽で羨ましい。
「咲乃のことで、ちょっとね」
佑真から視線を逸らしたそのとき、怜依は花那の姿を見つけた。怜依にも佑真にも気付かず、スマホを片手に歩いてくる。
その表情から感情が読み取れず、近寄りがたく思ってしまう。
それでも、目的のために怜依は足を踏み出した。
「……なに」
怜依が道を塞ぐと、花那は怪訝そうに言った。
少なからず、怜依の話を聞く気があるのか、イヤホンを外す。
「……咲乃のことで、聞きたいことがある」
「貴方の天使ちゃん?」
相変わらず、花那は咲乃を見下しているようだった。
今度こそ言い返してやろうかと思ったが、今の目的はそこではない。
怜依は芽生えた怒りを、無理矢理鎮める。
「場所、変えたい」
「今、ここで話せないこと?」
怜依は周囲を見た。
まだ、登校してくる生徒がいる。ここで、話していいこととは思えない。
小さく頷くと、花那は面倒そうに息を吐き出した。
それを肯定と受け取り、怜依は下駄箱に向かう。
「怜依ちゃん……」
佑真は、まだ教室に行っていなかったようで、心配そうに怜依を呼び止めた。
しかし次の言葉を言わない。
怜依には佑真の言葉を待つ時間などなかったため、佑真を置いて校内を進んだ。
ときどき、花那が後ろにいるかを確認しながらたどり着いたのは、非常階段。
咲乃が怪我を負った場所だ。
「こんなところに連れてきて、私をあの子みたいにケガさせようって魂胆?」
花那は階段を降りていく。
途中で振り向いた表情は、呆れている。
「……足立さんが、咲乃を落としたの?」
怜依の言葉に、花那はニヤリと笑った。
花那が踊り場に立ったとき、風が吹いた。花那の柔らかい髪がなびく。
身体ごと怜依と向き合った花那は、まだ不敵な笑みを浮かべている。
「私じゃないよ」
花那の言葉が、静かに置かれた。
私じゃない? あんな表情をしておいて?
「嘘つかないで」
怜依は階段を降り、花那の胸ぐらを掴んだ。勢いで、花那のスクールバッグが肩から落ちる。
「アンタが、ここで咲乃に新城と別れるように迫って、咲乃が頷かなかったから、落としたんでしょ!?」
怒りに身を任せた怜依と、未だに冷静な花那。少しでも間違えば踊り場から落ちてしまいそうなのに、花那は少しも動揺を見せない。
「だから、私じゃないってば」
花那は怜依の手を引き剥がすと、襟元を正す。
怜依はまだ納得がいっていない。
「だいたい、別れを迫るってなに? そんなことしてないから」
「咲乃のこと、気に入らなかったんじゃないの」
花那が咲乃を見下していた表情は、まだ明確に思い出せる。
あれで、咲乃が新城と付き合うことを認めていたとは、到底思えない。
「どうせ別れるってわかってて、言うわけないじゃん」
花那がどうしてそんなことを知っているのか、怜依にはわからなかった。
花那は興味なさそうに、自分の毛先をいじっている。
「隼人、いつも通り本気じゃなかったし。あの子も、別に隼人のこと好きじゃなかったみたいだし?」
「そんなわけ……」
花那の、怜依を嘲笑うような表情を見ると、語尾が消えていった。
「貴方、あんなにあの子を構っていながら、なにも見てないんだね」
返す言葉が見つからない。今、一番言われたくない言葉だった。
だけど、咲乃の表情を思い返すと、どうしてもそれが信じられなかった。あんなに、新城のことが好きでたまらないという反応をしていたのに。
「……なにを根拠に、そう思うの」
「あの子が嫉妬しなかったから。普通は、隼人の彼女にとって、私って目障りな存在なんだよね。だから、嫌われ慣れてるっていうか。睨まれても、別に?って感じなんだけど。あの子は、怯えてはいたけど、私を睨んだりしなかった。だから、この子は隼人のことが好きで、隼人と付き合ってるんじゃないんだなって思った。私が邪魔なんかしなくても、別れるだろうなって」
花那の話に、嘘が紛れているようには感じない。
怜依が見ている咲乃が、咲乃のすべてではないとわかった今、それも受け入れるべき姿なんだろう。だけど、あの表情が嘘だったとも思えなかった。
「私には、新城が好きなように見えたのに……」
「じゃあ、貴方の前だけはそう振る舞ってたんじゃない?」
「なんのために」
咲乃のことをよく知らないで言われたことが気に入らず、怜依は間髪入れずに言った。
「見栄を張るため?」
花那が適当に答えたように感じて、ますます面白くない。
「知ってる? あの子、貴方の前でしか笑ってないの」
あんなにも笑顔が似合う子なのに? いつだって笑顔を絶やさないような子なのに?
もう、なにを信じればいいのか、わからなくなってしまった。
「体育祭練習のときとか、隼人と話したくて紅組に行ってたけど、あの子、一人でポツンとしてることが多かったし。友達いないんじゃない?」
明らかに咲乃が侮辱されているのに、怜依は返す気力がなかった。
怜依が呆然としている中で、始業を告げるチャイムが鳴った。
「あーあ、遅刻じゃん、私」
そんなこと、気にしないくせに。
そう思っても、言わなかった。
「それで? 気が済んだ?」
花那は小さな欠伸をしながら言う。
これ以上、花那に聞くことはなさそうで、怜依は頷いた。
「じゃ、犯人探し、頑張ってねー」
とてつもなく興味なさそうに言いながら、花那は階段を降りていった。
無意識のうちに緊張していたようで、一人になった途端、大きく息を吐き出すと共に、膝を抱えて丸まった。
花那から聞いた話は、まだ処理がしきれていない。やっぱり、嘘があったのではないかと思ってしまうくらいだ。
「もうわかんないよ、咲乃……」
怜依の独り言は、青空に溶けていった。