咲乃は、一週間経っても目を覚ましていなかった。包帯を頭に巻き、病室のベッドで眠っている。
 命に別状はなかったことに喜びたいのに、咲乃が眠ったままのせいで、安心はできていなかった。
 十段程度の階段でも、打ちどころが悪ければ意識不明の重体となってしまう。
 その事実もまた、恐ろしかった。
 咲乃の左手に、自分の手を重ねる。まだ暖かいことを確かめながら、自分の手が冷えきっていることに気付いた。
 こんな冷たい手だと、咲乃が嫌がる。
 怜依はそっと、手を離した。
 咲乃の体温は確かに感じたのに、生きていないみたい。

「咲乃……もう、夕方だよ……お寝坊さんだね……」

 咲乃に話しかける声は、震えている。涙を堪える表情は、酷く歪む。
 自分の言葉を零せば、抑えていた感情が溢れていく。不安が、存在感を増す。
 このまま、咲乃が目を開けなかったら。
 咲乃のいない世界なんて、生きる価値がないのに。お願い。目を開けて。私の前で笑って。
 おはようって、言いたいよ。
 声を押し殺して、涙を流す。毎日のように不安に押し潰されそうになり、泣いているのに、まだ体内の水分は枯れない。

「怜依ちゃん、今日も来てくれてたの?」

 病室のドアが開くと同時に、女性の声がした。
 入ってきたのは、咲乃の母親である千早(ちはや)だ。その後ろから、制服姿の佑真が付いて入ってきた。
 佑真も眠れていないのか、怜依と同様に目の下に隈を作っている。

「なんで佑真が……」
「下で会ったの。咲乃のお見舞いに来ていいか、遠慮してたみたいだったから」

 千早は言いながら、売店で買ってきた飲み物を冷蔵庫に入れていく。
 佑真は黙ったまま、ベッドの傍に立った。痛々しい姿の咲乃を見て、表情を歪めている。
 二人の重苦しい空気を察してか、千早は静かに怜依の隣にある丸椅子に座った。

「咲乃ちゃん、まだ起きないなんて、心配だね……」
「うん……」

 心配なんて、それだけの単語では収まらない。
 だけど、今の自分の感情を正確に表す言葉を探せるほど、怜依の頭は回っていなかった。

「でも怜依ちゃん、咲乃ちゃんが目を覚ますまで、学校に来ないつもりなの?」

 ああ、佑真はこれを言いに来たんだな。
 咲乃を心配して来たわけではないように感じた途端、怜依の中で、佑真との会話はどうでもよくなった。

「……咲乃がいない場所なんて、行く価値ないから」

 怜依の抑揚のない返答に、佑真は言葉に困っている。
 だけど、訂正する気はなかった。割と本気で思っていることだから。
 学校に行ったところで、咲乃のことが気になってなに一つ身に入らないに決まっている。だったら、学校に行くよりも、ここにいたほうがいい。
 ああ、でも、一つ気になることがあった。

「……新城は、なにしてる?」

 怜依が毎日来ているのに対して、彼氏である新城は、一度も来ていなかった。
 付き合うことには目を瞑ったけれど、こんな状態の彼女を、咲乃を蔑ろにしているのは、許せない。

「新城くん? 同じクラスじゃないから、ちゃんと知らないけど……学校に来てないんじゃないかな。だから、てっきり新城くんもここにいるんだとばかり」
「新城くんって?」

 怜依が、顔を見せずに、どこをほっつき歩いているんだと文句を言う前に、千早が尋ねた。

「咲乃ちゃんの彼氏です」

 怜依が答えたくないことを察してか、佑真はあっさりと伝えた。
 すると、千早は嬉しそうに驚いた。

「咲乃に彼氏! どんな人なの?」

 しかしそれには言葉を詰まらせた。
 容姿が派手な、不良みたいな人、だなんて正直に言えるはずなかった。

「えっと、僕はそんなに詳しく知らなくて……」

 佑真は便利な言葉を使って逃げ、怜依を見た。その視線に気付くと、怜依は睨み返した。
 新城の説明を私にさせるなんて、どういうつもりなんだか、と恨みを込めて。

「……銀髪で遊んでそうな奴だけど、ちゃんと咲乃を大切にできる人だと思うよ」

 新城を褒める言葉なんて、使いたくなかった。
 だけど、咲乃が目の前にいて、咲乃の母親に伝えるのに、新城を下げるようなことも言いたくなかった。
 話しながら脳裏に浮かんだのは、やっぱり、咲乃の幸せそうな顔。あんなふうに顔が緩むくらい、咲乃は新城のことが好きで。純粋に相手を想っていられるのはきっと、咲乃が大切にされているから。
 そんな予想をして言ったのはいいけれど、ここに来ていない以上、矛盾しているようにも思えた。

「銀髪……」

 千早は驚いて、繰り返した。
 娘に彼氏がいて、それが銀髪という目立つ見た目をしていることを、そう簡単に受け入れられるわけがない。

「私、その人、見かけたことあるかも」

 もっと適当に誤魔化せばよかったかも、なんて思っていたら、千早が思い出したように言った。

「見かけたって、どこで……」
「待合室、かな。すごく綺麗な銀髪で、かっこいい子がいるなって覚えてて。そっか、あの子が咲乃の彼氏だったんだね」
「今日は!? 今日、見かけた!?」

 穏やかな千早に対して、新城に一言言わなければ気が済まない怜依は、千早に詰め寄った。
 怜依の動揺した様子に、千早は若干困惑した表情を浮かべる。

「えっと……今日は見かけてないけど、毎日、六時くらいに待合室にいたかな?」

 怜依はカバンからスマホを取り出して、時間を確認する。
 十七時四十三分。
 程よい時間だ。
 怜依はそれ以上なにも言わず、病室を飛び出した。
 どこ。今、どこにいるの。ここまで来てるなら、咲乃の顔を見ていってよ。新城じゃなきゃ、咲乃は安心しないんだから。
 目を覚ましてって、咲乃に声をかけてよ。
 逸る思いは怜依の足を速める。ここが病院であることを忘れそうになったとき、視界の端で銀髪が揺れた。
 新城は中庭のベンチにいた。ただ一人、ベンチに腰をかけて空を見上げている。
 儚げな表情を浮かべる新城を見て、怜依は足を止める。
 呼吸を整えながら、外に出る。生ぬるい風が全身に吹き付けた。

「……ここでなにしてるの」

 止まっていた時間が、怜依が声をかけたことで、ゆっくりと動き出したような気がした。
 新城の視線は怜依を見つける。

「……なに、してるんだろうね」

 新城は、また空を見る。厚い雲が太陽を覆い、新城の顔に影を落とした。
 文句を言ってやらないと、気が済まないのに。
 この新城を見ていると、感情に任せて言っていいのか、迷ってしまった。

「……咲乃の顔、見ていかないの」
「うん。和多瀬がいてあげてよ」

 声が、音にならなかった。
 なに、それ。ここまで来ておいて、咲乃を捨てる気?
 一時の気遣いは途端に忘れてしまった。
 怜依は新城の胸ぐらを掴んだ。唐突の出来事なのに、新城は一切表情を変えない。

「なに、それ。ねえ。それでも咲乃の彼氏?」

 新城は応えない。
 ふざけるな、応えろよ。

「咲乃はまだ目を覚まさない。私じゃダメなの。新城じゃないと、ダメなの」

 怜依の悲痛な叫びに、新城は小さく笑った。
 それが不気味に思えて、怜依の力は緩む。

「和多瀬は、なにも知らないんだね」

 新城は襟元を正すと、ズボンのポケットからスマホを取り出した。
 新城の言葉にケンカを売られたような気がしたけど、買うこともできなかった。
 だって、最近の咲乃のことは、知らないから。

「はい、これ」

 新城は怜依にスマホを差し出す。
 怜依が受け取るのを躊躇っていると、新城はもう一度差し出した。
 表示されていたのは、SNSの鍵アカウント。アカウント名は“黒雪”。

「これって?」
「白雪の裏アカ」

 どうしてそれを新城が知っているのか。
 それを聞くより先に、画面をスクロールした。

『絶対に諦めない』
『でも、一緒にいるために頑張ってる』
『いつだって、あの人の隣に私はふさわしくないって』
『私もそう思う』
『また別れろって、近付くなって言われた』
『間違ってたのかな』

 これは、咲乃の心の声だ。
 怜依が知らない咲乃が、そこにいた。
 これよりも下には進めなかった。動揺と混乱で、手が動かせなかった。

「なに、これ……」
「白雪は、和多瀬には知られたくないって言ってた。でも俺は、和多瀬は知っておくべきだと思う」

 新城は怜依の手からスマホを取る。まったく力が入っていなかったため、簡単に怜依の手中から抜け出した。

「咲乃は、誰かに嫌がらせされてたってこと……?」

 言いながらも、信じられなかった。
 あの咲乃が。優しさの塊で、平和の象徴みたいな子が、こうして悪意をぶつけられていたことが。
 それと同時に、自分を責めた。
 これほどまでに苦しんでいる咲乃に気付けなかった自分を。

「俺からは話さない。そういう約束だから。でも、和多瀬。気付いてあげて」

 まだ遅くない。
 新城の眼はそう言っているようだった。
 そして新城は立ち上がり、歩き出した。

「咲乃には、会わないの」
「白雪が目を覚ましたら、考えるよ」

 怜依は、去っていく新城の背中を見つめることしかできなかった。
 再び姿を現した太陽が、怜依を照らす。その暑さに耐えられず、怜依は建物内に戻った。
 さっき慌てて通っていた廊下を、ゆっくりと歩いて戻る。頭の中には、新城に見せられた咲乃の言葉ばかり。
 ねえ、咲乃。
 咲乃は、誰に別れろって言われたの?
 あの日も、言われてたの?
 そうだ、どうして気付かなかったんだ。
 非常階段なんて、吹奏楽部ならまだしも、咲乃は使わない。そこで怪我をするなんて、妙だ。
 誰かと話して、口論になって、落とされた?
 誰に?

「怜依ちゃん、おかえり。新城くんには会えた?」

 咲乃の病室を開けると、千早しかいなかった。

「佑真は?」
「長居するのは悪いからって、帰っちゃった」
「そう……」

 千早と言葉を交わしながら、咲乃の傍に立った。
 咲乃はまだ、眠っている。包帯は取れない。
 咲乃をこんな目に遭わせておきながら、まだ名乗り出ないで、日常を送っている人がいる。
 それはなによりも許せないことだ。

「絶対、見つけるからね」

 怜依はそっと咲乃の頭を撫でた。