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 莉帆と話した日の放課後、怜依は昇降口で咲乃を待った。
 いつもなら待ち遠しくて仕方ないのに、咲乃に“寂しい”と伝えるために待つ今は、緊張で吐きそうだ。
 はやく来てほしいけど、来てほしくない。アンビバレントな状態に、辟易してしまう。
 そんな怜依に気付く者はいない。怜依と相対して、友人たちと談笑しながら、たくさんの生徒たちが怜依の前を通り過ぎていく。
 そんな中で、銀髪が視界に入った。
 きちんと確かめるまでもなく、新城だ。その隣には、咲乃がいる。咲乃は新城と話すために新城を見上げていて、怜依には気付かない。

『あの二人もお似合いだよね』

 その光景を見ていると、茉由の言葉を思い出した。
 お似合いだとは思いたくない。だけど、違和感なく見れている自分に驚いてしまった。

「怜依ちゃん!」

 二人の邪魔になる前に帰ろうと思ったと同時に、咲乃が怜依を呼んだ。
 咲乃は怜依の元に駆け寄ってくる。
 久々に咲乃の可愛さを直視して、嫌な気持ちが浄化された気がした。

「ここでなにしてるの?」
「……咲乃を待ってた」

 怜依は言いながら、新城を盗み見る。
 怜依たちのやり取りに興味がないのか、欠伸をしている新城に、苛立ちなのか、悔しさなのか、言葉には言い表しがたい感情を覚えた。

「私を待っててくれたの?」
「うん……」

 不安に溺れてしまいそうで、怜依はすがる思いで咲乃の手を握る。

「咲乃……一緒に帰ろ?」

 今まで、何気なく言えていた言葉を伝えるのが、とてつもなく怖かった。
 新城を優先されたらどうしよう。莉帆が言っていたようなことが起きたら。
 咲乃が振り向いて、新城とアイコンタクトをしているのもまた、恐怖を増大させた。

「うん!」

 再び怜依を見た咲乃は、満面の笑みを浮かべた。断られなかったどころか、最高の笑顔を見せられて、怜依は一気に緊張から解放された。
 表情筋が緩み、安心が現れる。

「じゃあ先輩、また明日」
「ん」

 咲乃と新城は軽く言葉を交わすと、咲乃は下駄箱に向かった。
 あまりにもあっさりとしていて、怜依はただ見ていることしかできなかった。二人だけの空気を感じ取って、邪魔をしたような罪悪感に苛まれる。

「怜依ちゃん、はやくー!」

 新城になにか言うべきか迷っていると、咲乃に急かされて、怜依は靴を履き替えに行く。
 下駄箱を離れる間際、新城に視線をやると、新城は遅れて動き出し、靴を履き替えていた。

「怜依ちゃんと帰るの久しぶりで、嬉しいな」

 咲乃が隣にいて、知ってる笑顔を見せてくれて。
 怜依にとっての幸せな時間が、戻ってきた。
 その事実はきっと、咲乃が思っているよりも幸福な瞬間だ。

「そうだね、私も嬉しい」

 怜依の中に潜む黒い塊は、心の奥底に沈んでいって、怜依は自然に笑顔を返した。初めから抱いていなかったようにも錯覚してしまう。
 咲乃の足取りは軽く、スキップをしているように見える。

「怜依ちゃんは蒼組だったよね。練習は順調?」
「まあ、それなりにね。咲乃はどう?」

 やる気ないままに、練習していないなんて、かっこ悪くて言えるわけがない。
 咲乃に嘘をついたことに、僅かながらに罪悪感を覚え、明日からは少し真面目に取り組もうと思った。
 しかし、右手の人差し指を顎に当てて考える素振りを見せる咲乃は、怜依の小さな嘘に気付いていないらしい。

「んー、やっぱり、暑くて疲れちゃうかな。今日もね、疲れてぐったりしてたら、新城先輩がお水くれたの」

 暗い感情が消えたと感じたのは、やはり錯覚だったらしい。
 喜びが一気に萎んでいく。
 足が重く感じ、少しずつ咲乃との距離が開く。

「……そっか」

 怜依の声は、わかりやすく落ち込んだ。
 新城の話をしないで。
 怜依がそう願っていることは、顔を見てもわかった。だが、少し先を歩く咲乃は、怜依の表情を知らない。

「怜依ちゃん?」

 怜依の歩幅が小さくなったことに気付いた咲乃が、怜依を呼ぶ。咲乃は、心配そうに怜依を見ている。
 気付いてほしいけれど、気付いてほしくない。
 相変わらず真逆な言葉が頭の中に浮かんで、咲乃を悲しませない選択をする。
 咲乃に気付かれないように、笑顔で隠す。

「私が咲乃に水を渡したかったのにって思っただけ」
「深刻そうな顔して、そんなこと考えてたの?」

 咲乃がそう言って笑ったことで、また空気が緩和される。
 咲乃といながら、いつまでも暗い気持ちでいるなんて、そんな勿体ないことはできない。今度は黒い塊を、無理矢理押さえ込んだ。

「でも、高校の体育祭って、疲れるけど楽しいね。中学のときと違って自由だし」
「徒競走はないし?」

 悪ふざけのノリで続ける。
 楽しいと思い込ませないと、咲乃の隣にはいられない気がしていた。

「さすが、怜依ちゃん。走らなくていいのが一番嬉しい」

 咲乃は少し驚いたのち、笑いながら同意した。
 まだ、私が知っている咲乃だ。
 そんなことを思い、安心した。きっと、あの日一軍女子に咲乃が知らない子になると言われたせいだ。
 咲乃のことを知らないくせに、いろいろ言うなんて、二度としないでほしいと思った。

「咲乃のダンス、絶対可愛いだろうな。そうだ、動画に残しておこう」
「えー、恥ずかしいよ。新城先輩にも笑われたし」

 怜依の表情が固まる。
 自然と出てくる名。咲乃にとって、新城がそばにいることは、もう当たり前のことなの?

「動きがぎこちないとか、ハムスターみたいとか、絶対褒めてないじゃん!ってこといっぱい言われたんだよ、酷いよね」

 咲乃は新城に対して文句を言いながら、振り向いた。
 反応を返せない怜依。もう、作り笑いすらできなかった。
 咲乃を困らせている。それは、咲乃の歪んだ表情を見れば明らかだ。
 でも、言っていいの? 寂しいとか、可愛らしい感情ではなく、新城の話は聞きたくないという、嫉妬心なんて。
 怜依は、言いたくなかった。知られたくなかった。

「怜依ちゃんは、相田先輩と同じ組だったよね。仲良い人と同じ組になれて羨ましいな」

 すると、咲乃はわかりやすく話題を変えた。
 勘づかれたことは、確かめなくともわかった。
 いつから、お互いに気を遣って、触れたくないところには触れなくなったんだろう。見栄を張って、本音を言うのが怖くなっちゃったんだろう。
 もう、勇気の出し方なんて忘れてしまった。
 取り繕うことが、当たり前になってしまっていた。

「……知り合いがいないよりマシだけど、私はやっぱり、咲乃と同じ組になりたかったよ。堂々と咲乃の応援ができなくて、つまらないし」
「あ、そっか! 私も怜依ちゃんの応援できないんだ」

 咲乃はわかりやすく落ち込んだ表情を見せる。
 表情豊かで可愛らしい。
 ずっと咲乃を見ていたい。見守っていたい。離れていかないで。
 確かにそう思っているのに、怜依の中に一つの選択肢が浮かび上がっていた。

「じゃあ怜依ちゃん、明日も頑張ろうね!」

 別れ道に着くと、咲乃は大きく手を振りながら、怜依から離れていく。
 咲乃に小さく手を振り返し、その姿が見えなくなるほどに、怜依から表情が消えていく。

「バイバイ、咲乃」

 もう、咲乃には聞こえない声。
 それは、また明日会おう、という意味で零れた独り言ではなかった。
 咲乃の話を聞きたくないと思うなら。咲乃のそばにいるのが苦しいのなら。
 咲乃から離れるしかない。
 その切なさの込められた、静かな声だった。

   ◆

 体育祭が終わっても、まだ暑さが消えない。
 蝉は鳴かなくなったけれど、夏だと言われても頷ける気温だ。
 その暑さに苛立ちながら、身体を起こす。
 窓を開け、小さな欠伸を一つした。

『今日は学校だよ!』
「……わかってるよ」

 食卓にあった、いつもの母親からの手書きメッセージに、気だるげに答える。
 学校であることは忘れてはいない。でも、行く気力はなかった。
 わざと咲乃から離れる日々。咲乃に見つかっても、気付いていないフリをして逃げて。
 咲乃と初めての体育祭は、大して思い出を残せなくて。それで退屈さを覚えるだけでなく、新城と一緒にいるところを何度も目撃して。
 もう、心が疲れていた。
 それでも学校に行くのは、咲乃の姿を見たいから。
 言葉は交わしたくないけど、逢えないのは嫌だった。
 今日もそれを達成するためだけに、行きたくない学校に向かう。
 独りの通学路にも、慣れてしまった。半年前に戻っただけ。そう思えば、なんてことはなかった。
 音楽でも聴きながら歩こうとカバンのポケットに入れっぱなしにしていたイヤホンを取り出したそのとき、救急車のサイレンが聞こえてきた。
 音の大きさ的に、かなり近い。
 だけど、自分には関係ないと思った怜依はイヤホンを耳に嵌めて、音楽を流す。
 朝には相応しくないバラード曲を流し、歩を進める。
 学校の校門が見えてきたと思えば、救急車が出てきた。さっきの救急車だろうか。
 唐突に他人事には思えなくなってきたけれど、それでも怜依は無関心だった。
 救急車が通り過ぎて行くのを見送りながら、校舎に向かう。

「和多瀬さん!」 

 靴を脱いでいると、慌てた声で名を呼ばれた。イヤホンをしていても聞こえてくるほどの、大きな声だ。
 イヤホンを取り外し、視線を動かすと、先に校舎内にいた莉帆が、怜依のもとに駆け寄る。思わず、なにかあった?と聞きたくなるほどに、莉帆は困惑した様子だ。

「咲乃ちゃんが!」

 嫌な予感に襲われた。
 莉帆は少しだけ呼吸を整える。

「咲乃ちゃんが、階段から落ちて運ばれたって……!」

 世界から、音が消えた。
 そんな気がした。
 今の救急車、知らない誰かを運んでいたわけじゃないの……?

「咲乃が……」

 声が震える。
 階段から落ちて運ばれるなんて、相当酷い怪我をしたに違いない。
 最悪な事態も想像してしまって、心臓が誰かに鷲掴みされたようだった。

「和多瀬さん、大丈夫……?」

 大丈夫ではないことはわかっている。それでも、莉帆にはそれ以外、なにを言えばいいのかわからなかった。

「ごめん……今日は、帰る……」

 怜依は手に持っていた靴を投げ、中途半端に靴を履いてから、駆け出した。
 咲乃。咲乃。咲乃。
 お願い、無事でいて。
 強く願いながら、ひたすら走った。