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 四限の終わりを告げるチャイムが鳴ると、咲乃は机の上を片付けて、弁当袋をカバンから取り出した。

「咲乃ちゃん、お昼一緒に食べない?」

 そのまま席を立とうとすると、織寧に呼び止められた。
 織寧からのお誘いなんて久しぶりで、つい頷きたくなる。
 だって、今までずっと、静かにそばにいるだけだったから。
 こうして声をかけられることはなかったから。
 せっかくのお誘いを、断りたくなかった。
 だけど、その衝動を必死に抑える。

「えっと、今日は先約があって……」
「そっか」

 織寧は気にしていないのだろうけど、咲乃は次がないように感じた。

「あの、また誘ってくれる……?」

 不安そうに言う咲乃に、織寧は笑みを返す。

「もちろん」

 咲乃は安心した様子を見せると、教室を後にした。
 いつもなら、怜依の教室に向かうけど、今日は違う。
 楽しげな声から離れ、体育館裏に行った。
 そこには数段の階段に腰かける先客がいた。
 すっかり冷たくなった風が、綺麗な銀髪を揺らす。
 退屈そうに遠くを見つめる横顔を見ると、長い時間待たせてしまったような気がした。

「先輩、遅れてごめんなさい」

 声をかけると、新城は優しく微笑んだ。

「全然待ってないよ」

 新城はそう言いながら、左手で隣を叩いた。
 新城の表情と仕草を見ていると、まったく気にしていないことが伝わってくる。
 咲乃は新城に指示された通り、新城の左隣に座る。

「すみません、こんなところに来てもらっちゃって」

 ちゃんと新城と話す時間がほしくてここを指定したのは、咲乃。
 寒くなって来たのだから、校内で話せばいいことはわかっている。
 でも、人気が少ない場所は、どうしても階段を上らなければならない。
 それが怖くて、外を指定した。

「いいよ。教室だと、和多瀬がいるもんね」

 新城は笑いながら、菓子パンの袋を開ける。
 本当の理由がまったく伝わっていないことを訂正しようと思ったけど、余計な心配をかけるだけのような気がして、黙って弁当箱を開く。
 いつもの、千早の弁当。
 静かな昼食時間。
 日常と、ちょっとした非日常の塩梅がちょうどよくて、心地いい。

「それで、話って?」

 いつまでもこの静かな時間に浸ってはいられない。
 新城の言葉で、一気に喉が締まった気がした。
 でも、言わないと。

「……終わりに、しましょう」

 新城の顔が見れない。
 本当に終わってもいいのかって、まだ悩んでいる。
 新城との関係を終わらせて、自分の足で歩み進められるのか、不安が残っているから。
 だけど、自分に自信を持つためには、これ以上甘えていられない。
 だから。

「もう、大丈夫なの?」

 お互いに、風に攫われてしまいそうな声量。
 こんなにも間を置いて話すことは滅多になくて、変に緊張する。

「……たぶん、大丈夫じゃないです」

 新城を安心させるためには、嘘でも大丈夫だって言うべきだったんだろう。
 わかっているけど、ここで見栄を張ったって、意味がない。
 自分に言い聞かせるための嘘は、もうやめるんだ。

「でも……自信を持って怜依ちゃんの傍にいるために、先輩に甘えるのは、やめようと思って」
「……そっか」

 静かな声に、どんな感情が込められているのかわからなくて、次の言葉に慎重になる。
 風が吹かなければ、新城のその横顔を見ることができたのに。

「先輩には、本当に感謝してます」
「俺はなにもしてないよ」

 新城が自嘲しているように聞こえた。

「そんなことないです」

 咲乃には、新城がそう言う理由がわからなかった。
 なにもしてないなんて、そんなわけがない。
 新城がいなかったら、ずっと自分を嫌い続ける地獄にいた。
 新城がいたから、過去の自分と、今の嫌いな自分と向き合うことができた。

「先輩には、いっぱい支えてもらいました」

 絶対に伝わってほしくて力強く言うと、新城は咲乃を見た。
 その表情には後悔が滲んでいるように感じた。

「でも、白雪を守れなかった」

 唐突に、腑に落ちた。
 あの日、咲乃は新城が引き留めるのを振り払って、佑真と話しに行った。
 そして、階段から落ちて怪我をした。
 新城のせいだと思った瞬間はないけれど、そんな会話をしたことで、新城は自分を責めていたんだろう。
 だから、病室に来れなかったのではないだろうか。

「……俺は、ただの傍観者でしかなかった」

 新城の泣きそうな、儚い表情の理由は、これだったんだ。
 その表情を見ていると胸が締め付けられて、泣きたくなる。
 なにか、言わないと。
 でも、なにを言ったらいい? なんて言えば、先輩に届くの?

「なんで白雪が泣きそうになってるんだよ」
「だって……」

 私が先輩を巻き込んだ。
 私が、先輩を傍観者にした。
 すべて自分のせいに思えてきて、どうしても”ごめんなさい”という言葉しか出てこない。
 でもきっと、ここで謝ったって新城は受け入れない。

「先輩が、素の私と接してくれたから、私はもっと素直になってもいいんだって思えたんです。怜依ちゃんや織寧ちゃんと向き合うことができたのは、全部先輩のおかげなんです。だから、そんな悲しいこと言わないで……」

 泣くのはズルい。
 そうわかっていても、勝手に涙が頬に落ちた。
 これでは新城を困らせるだけ。
 咲乃は慌てて、手の甲で涙を拭った。
 すると、新城に手首を掴まれた。

「そんなに擦ったら、目が真っ赤になるよ」

 新城が無表情に見えてしまって、やっぱり伝わらないんだと、咲乃は落ち込んでしまう。
 いっそのこと、この思いがそのまま新城に見えたらいいのに。
 そうすれば、こんなふうにもどかしく感じることもないだろうに。

「……白雪、変わったね」
「だとしたら、先輩のおかげです」

 新城に信じてほしくて、咲乃は間髪入れずに言った。

「違うよ。白雪が頑張ったからだよ。一番近くで見てた俺が言うんだから」
「新城先輩がそばにいてくれたから、頑張れたんです」

 新城が自分の功績を認めないことを、咲乃は認めない。
 そう感じる眼差しだ。
 すると、新城は観念したのか、笑みをこぼした。

「……そっか」

 それを見て、咲乃は自分がヒートアップしていたことに気付き、急に恥ずかしく思った。

「……そうですよ」

 また、お互いに言葉を探す時間。
 だけど、不思議とその無言の時間が嫌いではなかった。
 むしろ、新城との関係の終わりに向かっているようで、寂しさすら感じた。

「あのアカウントは消すの?」
「そのつもりです。もう、必要ないですし」

 あれは、怜依には言えない、黒い感情を吐き出すために作ったアカウント。
 もう隠す必要がなくなったのなら、消すだけだ。
 そう決めていたはずなのに、あの場が唯一新城と繋がっている場所だと思うと、消すのが惜しくなってくる。

「俺は残しててもいいと思うけどね」
「え……」

 まだ繋がっていてもいいと言われたような気がして、咲乃の顔には喜びが見えた。

「いくら和多瀬にいろいろ知られたからって、全部を話すこともないと思うから」
「……じゃあ、残しておきます」

 今後、怜依に隠しごとをするつもりは一切ない。
 でも、新城が残していていいって言うから。
 繋がっていていいって。

「うん」

 新城は柔らかく微笑むと、立ち上がった。
 新城との関係、そしてこの時間が終わってしまう合図だ。

「じゃあ、またね。白雪」

 咲乃が返事をすれば、本当に終わる。
 終わらないで。
 そう思うけど、いつまでも新城と偽物の関係でいることもできない。
 寂しいけれど、また一から関係を築けばいいだけの話だ。

「……はい。本当に、ありがとうございました」

 立ち上がってお礼を言うと、新城は小さく微笑んで、去っていった。
 冷たい風が、すっかり葉を落とした枝を揺らす。
 丸裸になって寂しい姿が、自分と重なった。
 今はなにもない。でも、春になればまた緑の葉をつける。
 自分も、そんなふうになれたら。
 そう思いながら、咲乃はその場を離れた。