暑さで起きたせいで、寝覚めは最悪だ。クーラーをつけて、二度寝してやる。そう思ってスマホを手にすると、アラームが鳴り始めた。そうだ、今日から二学期が始まる。
 二度寝は諦めて、リビングに向かった。両親はすでに仕事に出ているようで、テーブルに朝食とメモ書きがあった。

『遅刻しないようにね!』

 娘の思考回路を完璧に読んだメッセージ。

「……しないよ」

 独り言で返すと、食パンを焼きにキッチンに立った。パンが焼けるまでは手持ち無沙汰で、スマホを取る。ロック画面には、新規メッセージが届いている通知があった。
 送り主が咲乃だとわかってすぐ、トークルームを開いた。

怜依(れい)ちゃん、おはよう! 今日から学校だね!』

 ただ文字が並んでいるだけなのに、咲乃の声と笑顔が容易に想像できて、怜依は笑みをこぼした。
 そして猫が欠伸をした隣に”おはよう”と書かれているスタンプを返した。
 咲乃とやり取りをしたことで、憂鬱だった気分が一気に明るくなった。今日はいい日になりそうだと思うくらい。

『30分くらいしたら、怜依ちゃんの家に行くね!』
「あらら、早い」

 だけど、早めの行動は咲乃らしい。
 了解、と短く返したとき、パンが焼きあがった。それに用意されていたベーコンエッグを乗せて、朝食を済ませる。
 顔を洗って、髪を整えて、制服に着替えて。今日はまだ夏服でいいんだっけ。まだ暑いから、夏服でいっか。メイクは、面倒だからなし。ああ、でも、咲乃の隣にいるには、最低限はしておかないと。
 怜依に与えられた三十分で、怜依はどんどん身支度を進めていく。
 そしてリュックを背負えば出発ができる状態になって気付いた。何一つ準備をしていないことに。昨日、遅くまで夏休み課題と対峙していたから、筆箱もノートも机の上に散らかったまま。せっかく頑張って仕上げたのに、忘れるなんて洒落にならない。しっかり忘れ物をしないようにリュックに入れると、怜依は家を出た。

「おはよ、怜依ちゃん」

 玄関を開けると、咲乃はもういた。
 肩で切りそろえられたボブカットは綺麗に内にカーブしていて。透明感抜群の白い肌に、ぱっちり二重。ピンク色の唇が潤っているのが、天然ものだなんて信じられない。
 世界一可愛い咲乃が、怜依に手を振る。

「怜依ちゃん?」
「ごめん、咲乃が可愛くて、別世界に行ってた」
「もう、怜依ちゃんったら」

 怜依のそれは、通常運転。それでも咲乃は慣れないみたいで、照れ笑いを見せる。それすらも、怜依には可愛くて仕方なかった。

「早く学校行こう、遅れちゃう」

 咲乃は怜依の背中を押した。怜依が自力で歩き始めると、咲乃は怜依の隣に立った。

「怜依ちゃん、宿題終わった?」
「……一応?」

 ほとんど答えを見て無理やり終わらせたことは、咲乃には言えないけれど。

「すごい! 一週間前はいっぱい残ってたのに」

 咲乃は怜依がズルい手を使ったことは一切疑っていないらしい。それで褒められても、微妙な気持ちになる。来年は心から喜べるように、さっさと宿題を終わらせよう。そう思った。

「怜依ちゃん、あのね、私……彼氏ができたの」

 時間が止まった気がした。
 咲乃が頬を赤らめていることはわかる。でも今、何を言ったのかがわからない。いや、わかりたくない。
 だって、咲乃に。咲乃に彼氏って。彼氏?

「……は?」

 怜依は間抜けな声を出した。
 高校生になったばかりの四月も、夏休み中も、そんな素振りは一切見せなかったのに。
 本当に急な話で、怜依は嘘ではないかと疑ってしまう。ずっと一緒にいた咲乃に彼氏ができたなんて、嘘だ、と。
 そんな怜依を見て、咲乃はくすくすと笑う。
 衝撃発言をされて若干混乱していても、その表情を可愛らしいと思う余裕はあるらしい。

「怜依ちゃん、驚きすぎだよ」

 それはつまり、今の話は嘘だということなのだろうか。五ヶ月遅れのエイプリルフール、みたいな。

「じゃあ、彼氏ってのは……」

 淡い期待を抱いて、聞いてみる。しかし、まだ完全に嘘と決まったわけではないため、それは慎重に尋ねた。

「嘘じゃないよ?」

 見事に打ち砕かれた。
 怜依はショックを受けているというのに、やはり咲乃は楽しそうだ。いや、幸せそうなのか。
 この咲乃は可愛い。まさに天使。
 だけど、咲乃の可愛さが、自分だけのものではなくなった。自分以外の誰かが、男が、咲乃を可愛いと言い、咲乃が頬を綻ばせる。
 そんなの、イヤだ。

「相手は……」
「怜依ちゃんも知ってる人だよ。新城(しんじょう)先輩」

 これが、怜依も認める相手であれば、素直に仕方ないと言えただろう。
 しかし相手が新城。怜依が知っている新城は、一人しかいない。
 理系クラスの新城隼人(はやと)
 新城と言えば、銀髪、ピアス、サボり魔、常にチラつく女の影……とにかく風紀を乱すようなことばかり。まさに、絵に書いたような不良。
 そんな不良に、可愛い咲乃が捕まるなんて。

「なんで、新城?」

 “よりによって”というの言葉は、一呼吸置いたことで、怜依の体内に留まった。
 いくら新城のことが認められないからと言って、すべてを否定することは、怜依にはできなかった。
 そうすれば、咲乃を悲しませることがわかっていたから。

「一週間前、怜依ちゃんと図書館に行ったでしょ? その帰り、駅前でね、知らない男の人に絡まれちゃって」
「は?」

 咲乃が柔らかい顔で話していると、怜依の強ばった声が遮った。
 瞬間的に、咲乃の彼氏の存在は頭から消えたらしい。

「誰? どんな人? どうやって絡まれた? 顔、覚えてる?」

 怜依は咲乃が戸惑うほどに、咲乃に詰め寄った。

「ちょ、ちょっと落ち着いて、怜依ちゃん」

 咲乃に言われて、怜依は口を閉じた。
 だが、詳しく聞き出さなければ気が済まないというのは、顔を見れば容易にわかった。
 せめて、納得のいく説明が聞ければ。
 そんな願望も、表情に滲み出ている。

「でね? 自分ではどうすることもできないなあ、困ったなあってときに、新城先輩が助けてくれたの」

 咲乃は目を輝かせている。聞かずとも、新城に憧れていることが伝わってきてしまう。
 これほどまでになにかを愛しく思っている顔は、見たことがない。小学校高学年からの付き合いだが、初めてだ。
 知らない咲乃を、新城が引き出すなんて。
 怜依の中には、素直に喜べない、黒い感情が渦巻いていた。
 でも、咲乃には気付かれたくなかった。怜依が嫌だと感じていることが伝わってしまったら、間違いなく、怜依が幸せに染まる咲乃を奪ってしまう。
 それも、嫌だった。

「……そっか」

 笑えと身体に命令して、作った笑みはきっと、ぎこちない。

「よかったね、咲乃」

 すると、咲乃は満面の笑みを見せた。もうすっかり萎れてしまった向日葵よりも、明るい笑顔だ。
 幸せ?なんて聞かなくてもわかるくらい。
 変な顔になっていたとしても、心から思ってなかったとしても、お祝いの言葉を伝えてよかった。
 そう、思うことにした。

「怜依ちゃん、咲乃ちゃん! おはよ!」

 校門が見えてくると、そこに立っていた相田(あいだ)佑真(ゆうま)が手を振りながら叫んだ。
 その明るい声は、今の怜依には受け付けられなかった。よって、いつもよりも華麗にスルーをした。
 咲乃は無反応で佑真の前を通り過ぎていく怜依と、驚きつつも寂しそうな表情を見せる佑真を交互に見る。

「待ってよ、怜依ちゃん。どうしたの? なにかあった?」

 佑真は慌てて追いかけてくる。
 その結果、怜依を挟んで三人が並び歩く形となった。

「私のせい、かな。彼氏できたって言ったから」

 反応しない怜依に代わって、咲乃が困ったように笑いながら答える。

「へえ、それはまた……ん? 彼氏? 誰に?」
「私。一週間前に彼氏ができたの」

 佑真は少し大袈裟に、驚いた顔を見せた。

「咲乃ちゃんに彼氏!? あー、なるほど、それでショック受けちゃったんだ? 怜依ちゃん、本当に咲乃ちゃんのことが好きなんだから」
「うるさい」

 怜依は力いっぱい、佑真を押しのけた。それはただの八つ当たりだ。中学からの付き合いだから遠慮なく接することができるゆえの、八つ当たり。

「怜依ちゃん、拗ねないの」

 何度も似たようなことをされてきた佑真は、まったく気にする様子を見せない。それどころか、そんな子供のようなことをする怜依を、佑真はからかうように言った。まるで恐れ知らずだ。
 怜依は佑真を一瞥すると、また無視をして歩き始めた。

「ごめんごめん、待って」

 佑真が言うと、校舎に入る階段の途中で、怜依は足を止めた。
 しかし、それは佑真を待つためではなかった。
 視線の先、昇降口にて靴を履き替えている新城を発見したから。怜依は新城を睨みつけている。

「新城先輩!」

 すると、咲乃が声を上げて、新城に駆け寄った。
 挨拶をして、靴を履き替えに行って、また新城のところに戻って。その一連の流れを見ていると、微笑ましく思う。
 だけど、穏やかではいられなかった。
 並ぶと咲乃のほうが背が小さくて、咲乃は新城を見上げる。怜依が引き出すことができなかった柔らかい表情を浮かべて、新城の隣にいる。
 話を聞いていただけでは現実味がなかったのに、こうして実際に新城と並ぶ咲乃を見ると、本当なんだと、思わざるを得ない。
 今日は一段と可愛く見えたのは、新城に会うから? そのために、準備していたの? こうやって、咲乃は私の傍から離れていくんだね。
 寂しいという言葉では収まらないくらい、胸が痛む。
 咲乃のことを見たくないと思ったのは、初めてのことだった。
 あんなにも可愛い咲乃が目の前にいるのに、目を逸らしてしまう。

「咲乃ちゃんの彼氏って、新城くんなの……?」

 いつの間にか隣にいた佑真も、その光景が信じられないらしい。表情が物語っている。

「……らしい」

 怜依の声は、恐ろしく小さかった。

「でも、新城くんには」
「隼人!」

 動揺する佑真の声を、後ろから駆けてくる女子が遮った。
 まさに、噂をすれば、という状況だった。
 二人の傍を駆け抜け、新城の元に向かったのは、足立(あだち)花那(かな)。新城のことを慕っている女子だ。

「おはよ、隼人」

 花那は甘い声で言いながら、咲乃に気付いた。
 ヘアメイクは完璧で、制服を着崩している花那に対して、あまりオシャレをしていない咲乃。
 花那の完璧さに圧倒されてしまって、咲乃は視線を泳がせた。

「あれ? この子……そうだ、いい子のサクノちゃん。なんで隼人といるの?」

 咲乃はよく、昼休みや放課後、怜依の教室に行っていた。だから、一学年上でも咲乃のことを知っているのは、なにも不思議ではなかった。
 しかし、その言葉に、咲乃は表情を強ばらせた。

「彼女だから」

 新城は表情を変えず、さも当然と言わんばかりに答えた。
 すると、花那の纏う空気が変わった。

「……へえ」

 花那は咲乃の頭の先から足先まで、じっくりと見る。値踏みされる瞬間は、いい気がしない。変な緊張感にも襲われ、咲乃は花那の顔が見れなかった。

「隼人、今度は随分とカワイイ子を選んだね」

 それが褒め言葉ではないことは、怜依にもわかった。
 誰よりも、咲乃が一番可愛いのに。
 花那の物言いが気に入らなかった怜依は、花那と咲乃の間に割って入る。そして、花那を睨んだ。

「悪いけど、咲乃のほうが圧倒的に可愛いから」
「あれ、いたんだ? サクノちゃんの騎士さん」

 花那の煽る表情に、怜依の額には血管が浮き出る。
 だけど、怜依は周りが見えず騒ぎを起こすような、愚か者ではない。
 静かに深呼吸をして、怒りを抑え込む。

「咲乃、行こう」

 怜依は乱雑に靴を下駄箱に入れ、上履きを手にする。そして咲乃の手を引き、その場を離れた。

『随分とカワイイ子を選んだね』

 聞こえなかったはずの花那の嘲笑が加わって、脳内で再生される。
 我慢なんかせずに、もっと文句を言ってやればよかった。”可愛い”をがっつり作っている人が、バカにできるような存在じゃないのに。
 歩けば歩くほど怒りが込み上げてきて、自然とスピードが速くなる。

「怜依ちゃん、速いよ」

 ただ廊下を歩き続け、外廊下に出ると、咲乃の小さな声が聞こえた。
 振り向くと、息を切らせている咲乃がそこにいる。少しずつ落ち着いていったと思えば、咲乃は俯いた。

「私……新城先輩と付き合わないほうがいいのかな……」

 すぐにでも、別れてほしい。
 ずっと自分から離れて行ってほしくないし、なんなら、私以外はいらないって言って。
 それが怜依の本音だが、言えるはずがなかった。この独占欲は咲乃を困らせるだけで、なにより、幸せそうな咲乃を見た以上、言えない。

「……咲乃は、どうしたいの?」
「別れたくないよ。でも、私……」

 咲乃は声を震わせた。さっきの花那の圧が効いてきたらしい。こんなにも落ち込んでいる姿を見ると、ますます花那のことが許せなくなる。でも、今は花那に対して怒る時間ではない。咲乃の笑顔を取り戻すことが最優先だ。

「咲乃が別れたくないなら、別れなくていいよ」
「いいの? 怜依ちゃん、イヤじゃない?」

 なぜそう言うのか。聞くまでもなかった。やっぱり咲乃には、怜依が作り笑いをしていたことは気付かれていたらしい。

「それは……だって、大好きな咲乃が新城に取られた気がして、寂しくって」

 これくらいなら、咲乃を困らせないだろう。そう思って、少しだけ本音を告げた。
 すると、わずかに咲乃から暗い表情が消えた。
 咲乃がもとに戻るまで、あと少し。

「咲乃が一番、可愛いからね」

 何度も伝えてきた言葉。これしか伝えられない自分の語彙力を呪った。
 咲乃のいいところは、まだまだあるのに。

「ありがとう、怜依ちゃん」

 咲乃は柔らかく笑ったことで、怜依は胸をなでおろした。
 この笑顔が守れるのなら、いくらでも本音を隠そう。
 そう、心に決めた。