暑さで起きたせいで、寝覚めは最悪だ。クーラーをつけて、二度寝してやる。そう思ってスマホを手にすると、アラームが鳴り始めた。そうだ、今日から二学期が始まる。
二度寝は諦めて、リビングに向かった。両親はすでに仕事に出ているようで、テーブルに朝食とメモ書きがあった。
『遅刻しないようにね!』
娘の思考回路を完璧に読んだメッセージ。
「……しないよ」
独り言で返すと、食パンを焼きにキッチンに立った。パンが焼けるまでは手持ち無沙汰で、スマホを取る。ロック画面には、新規メッセージが届いている通知があった。
送り主が咲乃だとわかってすぐ、トークルームを開いた。
『怜依ちゃん、おはよう! 今日から学校だね!』
ただ文字が並んでいるだけなのに、咲乃の声と笑顔が容易に想像できて、怜依は笑みをこぼした。
そして猫が欠伸をした隣に”おはよう”と書かれているスタンプを返した。
咲乃とやり取りをしたことで、憂鬱だった気分が一気に明るくなった。今日はいい日になりそうだと思うくらい。
『30分くらいしたら、怜依ちゃんの家に行くね!』
「あらら、早い」
だけど、早めの行動は咲乃らしい。
了解、と短く返したとき、パンが焼きあがった。それに用意されていたベーコンエッグを乗せて、朝食を済ませる。
顔を洗って、髪を整えて、制服に着替えて。今日はまだ夏服でいいんだっけ。まだ暑いから、夏服でいっか。メイクは、面倒だからなし。ああ、でも、咲乃の隣にいるには、最低限はしておかないと。
怜依に与えられた三十分で、怜依はどんどん身支度を進めていく。
そしてリュックを背負えば出発ができる状態になって気付いた。何一つ準備をしていないことに。昨日、遅くまで夏休み課題と対峙していたから、筆箱もノートも机の上に散らかったまま。せっかく頑張って仕上げたのに、忘れるなんて洒落にならない。しっかり忘れ物をしないようにリュックに入れると、怜依は家を出た。
「おはよ、怜依ちゃん」
玄関を開けると、咲乃はもういた。
肩で切りそろえられたボブカットは綺麗に内にカーブしていて。透明感抜群の白い肌に、ぱっちり二重。ピンク色の唇が潤っているのが、天然ものだなんて信じられない。
世界一可愛い咲乃が、怜依に手を振る。
「怜依ちゃん?」
「ごめん、咲乃が可愛くて、別世界に行ってた」
「もう、怜依ちゃんったら」
怜依のそれは、通常運転。それでも咲乃は慣れないみたいで、照れ笑いを見せる。それすらも、怜依には可愛くて仕方なかった。
「早く学校行こう、遅れちゃう」
咲乃は怜依の背中を押した。怜依が自力で歩き始めると、咲乃は怜依の隣に立った。
「怜依ちゃん、宿題終わった?」
「……一応?」
ほとんど答えを見て無理やり終わらせたことは、咲乃には言えないけれど。
「すごい! 一週間前はいっぱい残ってたのに」
咲乃は怜依がズルい手を使ったことは一切疑っていないらしい。それで褒められても、微妙な気持ちになる。来年は心から喜べるように、さっさと宿題を終わらせよう。そう思った。
「怜依ちゃん、あのね、私……彼氏ができたの」
時間が止まった気がした。
咲乃が頬を赤らめていることはわかる。でも今、何を言ったのかがわからない。いや、わかりたくない。
だって、咲乃に。咲乃に彼氏って。彼氏?
「……は?」
怜依は間抜けな声を出した。
高校生になったばかりの四月も、夏休み中も、そんな素振りは一切見せなかったのに。
本当に急な話で、怜依は嘘ではないかと疑ってしまう。ずっと一緒にいた咲乃に彼氏ができたなんて、嘘だ、と。
そんな怜依を見て、咲乃はくすくすと笑う。
衝撃発言をされて若干混乱していても、その表情を可愛らしいと思う余裕はあるらしい。
「怜依ちゃん、驚きすぎだよ」
それはつまり、今の話は嘘だということなのだろうか。五ヶ月遅れのエイプリルフール、みたいな。
「じゃあ、彼氏ってのは……」
淡い期待を抱いて、聞いてみる。しかし、まだ完全に嘘と決まったわけではないため、それは慎重に尋ねた。
「嘘じゃないよ?」
見事に打ち砕かれた。
怜依はショックを受けているというのに、やはり咲乃は楽しそうだ。いや、幸せそうなのか。
この咲乃は可愛い。まさに天使。
だけど、咲乃の可愛さが、自分だけのものではなくなった。自分以外の誰かが、男が、咲乃を可愛いと言い、咲乃が頬を綻ばせる。
そんなの、イヤだ。
「相手は……」
「怜依ちゃんも知ってる人だよ。新城先輩」
これが、怜依も認める相手であれば、素直に仕方ないと言えただろう。
しかし相手が新城。怜依が知っている新城は、一人しかいない。
理系クラスの新城隼人。
新城と言えば、銀髪、ピアス、サボり魔、常にチラつく女の影……とにかく風紀を乱すようなことばかり。まさに、絵に書いたような不良。
そんな不良に、可愛い咲乃が捕まるなんて。
「なんで、新城?」
“よりによって”というの言葉は、一呼吸置いたことで、怜依の体内に留まった。
いくら新城のことが認められないからと言って、すべてを否定することは、怜依にはできなかった。
そうすれば、咲乃を悲しませることがわかっていたから。
「一週間前、怜依ちゃんと図書館に行ったでしょ? その帰り、駅前でね、知らない男の人に絡まれちゃって」
「は?」
咲乃が柔らかい顔で話していると、怜依の強ばった声が遮った。
瞬間的に、咲乃の彼氏の存在は頭から消えたらしい。
「誰? どんな人? どうやって絡まれた? 顔、覚えてる?」
怜依は咲乃が戸惑うほどに、咲乃に詰め寄った。
「ちょ、ちょっと落ち着いて、怜依ちゃん」
咲乃に言われて、怜依は口を閉じた。
だが、詳しく聞き出さなければ気が済まないというのは、顔を見れば容易にわかった。
せめて、納得のいく説明が聞ければ。
そんな願望も、表情に滲み出ている。
「でね? 自分ではどうすることもできないなあ、困ったなあってときに、新城先輩が助けてくれたの」
咲乃は目を輝かせている。聞かずとも、新城に憧れていることが伝わってきてしまう。
これほどまでになにかを愛しく思っている顔は、見たことがない。小学校高学年からの付き合いだが、初めてだ。
知らない咲乃を、新城が引き出すなんて。
怜依の中には、素直に喜べない、黒い感情が渦巻いていた。
でも、咲乃には気付かれたくなかった。怜依が嫌だと感じていることが伝わってしまったら、間違いなく、怜依が幸せに染まる咲乃を奪ってしまう。
それも、嫌だった。
「……そっか」
笑えと身体に命令して、作った笑みはきっと、ぎこちない。
「よかったね、咲乃」
すると、咲乃は満面の笑みを見せた。もうすっかり萎れてしまった向日葵よりも、明るい笑顔だ。
幸せ?なんて聞かなくてもわかるくらい。
変な顔になっていたとしても、心から思ってなかったとしても、お祝いの言葉を伝えてよかった。
そう、思うことにした。
「怜依ちゃん、咲乃ちゃん! おはよ!」
校門が見えてくると、そこに立っていた相田佑真が手を振りながら叫んだ。
その明るい声は、今の怜依には受け付けられなかった。よって、いつもよりも華麗にスルーをした。
咲乃は無反応で佑真の前を通り過ぎていく怜依と、驚きつつも寂しそうな表情を見せる佑真を交互に見る。
「待ってよ、怜依ちゃん。どうしたの? なにかあった?」
佑真は慌てて追いかけてくる。
その結果、怜依を挟んで三人が並び歩く形となった。
「私のせい、かな。彼氏できたって言ったから」
反応しない怜依に代わって、咲乃が困ったように笑いながら答える。
「へえ、それはまた……ん? 彼氏? 誰に?」
「私。一週間前に彼氏ができたの」
佑真は少し大袈裟に、驚いた顔を見せた。
「咲乃ちゃんに彼氏!? あー、なるほど、それでショック受けちゃったんだ? 怜依ちゃん、本当に咲乃ちゃんのことが好きなんだから」
「うるさい」
怜依は力いっぱい、佑真を押しのけた。それはただの八つ当たりだ。中学からの付き合いだから遠慮なく接することができるゆえの、八つ当たり。
「怜依ちゃん、拗ねないの」
何度も似たようなことをされてきた佑真は、まったく気にする様子を見せない。それどころか、そんな子供のようなことをする怜依を、佑真はからかうように言った。まるで恐れ知らずだ。
怜依は佑真を一瞥すると、また無視をして歩き始めた。
「ごめんごめん、待って」
佑真が言うと、校舎に入る階段の途中で、怜依は足を止めた。
しかし、それは佑真を待つためではなかった。
視線の先、昇降口にて靴を履き替えている新城を発見したから。怜依は新城を睨みつけている。
「新城先輩!」
すると、咲乃が声を上げて、新城に駆け寄った。
挨拶をして、靴を履き替えに行って、また新城のところに戻って。その一連の流れを見ていると、微笑ましく思う。
だけど、穏やかではいられなかった。
並ぶと咲乃のほうが背が小さくて、咲乃は新城を見上げる。怜依が引き出すことができなかった柔らかい表情を浮かべて、新城の隣にいる。
話を聞いていただけでは現実味がなかったのに、こうして実際に新城と並ぶ咲乃を見ると、本当なんだと、思わざるを得ない。
今日は一段と可愛く見えたのは、新城に会うから? そのために、準備していたの? こうやって、咲乃は私の傍から離れていくんだね。
寂しいという言葉では収まらないくらい、胸が痛む。
咲乃のことを見たくないと思ったのは、初めてのことだった。
あんなにも可愛い咲乃が目の前にいるのに、目を逸らしてしまう。
「咲乃ちゃんの彼氏って、新城くんなの……?」
いつの間にか隣にいた佑真も、その光景が信じられないらしい。表情が物語っている。
「……らしい」
怜依の声は、恐ろしく小さかった。
「でも、新城くんには」
「隼人!」
動揺する佑真の声を、後ろから駆けてくる女子が遮った。
まさに、噂をすれば、という状況だった。
二人の傍を駆け抜け、新城の元に向かったのは、足立花那。新城のことを慕っている女子だ。
「おはよ、隼人」
花那は甘い声で言いながら、咲乃に気付いた。
ヘアメイクは完璧で、制服を着崩している花那に対して、あまりオシャレをしていない咲乃。
花那の完璧さに圧倒されてしまって、咲乃は視線を泳がせた。
「あれ? この子……そうだ、いい子のサクノちゃん。なんで隼人といるの?」
咲乃はよく、昼休みや放課後、怜依の教室に行っていた。だから、一学年上でも咲乃のことを知っているのは、なにも不思議ではなかった。
しかし、その言葉に、咲乃は表情を強ばらせた。
「彼女だから」
新城は表情を変えず、さも当然と言わんばかりに答えた。
すると、花那の纏う空気が変わった。
「……へえ」
花那は咲乃の頭の先から足先まで、じっくりと見る。値踏みされる瞬間は、いい気がしない。変な緊張感にも襲われ、咲乃は花那の顔が見れなかった。
「隼人、今度は随分とカワイイ子を選んだね」
それが褒め言葉ではないことは、怜依にもわかった。
誰よりも、咲乃が一番可愛いのに。
花那の物言いが気に入らなかった怜依は、花那と咲乃の間に割って入る。そして、花那を睨んだ。
「悪いけど、咲乃のほうが圧倒的に可愛いから」
「あれ、いたんだ? サクノちゃんの騎士さん」
花那の煽る表情に、怜依の額には血管が浮き出る。
だけど、怜依は周りが見えず騒ぎを起こすような、愚か者ではない。
静かに深呼吸をして、怒りを抑え込む。
「咲乃、行こう」
怜依は乱雑に靴を下駄箱に入れ、上履きを手にする。そして咲乃の手を引き、その場を離れた。
『随分とカワイイ子を選んだね』
聞こえなかったはずの花那の嘲笑が加わって、脳内で再生される。
我慢なんかせずに、もっと文句を言ってやればよかった。”可愛い”をがっつり作っている人が、バカにできるような存在じゃないのに。
歩けば歩くほど怒りが込み上げてきて、自然とスピードが速くなる。
「怜依ちゃん、速いよ」
ただ廊下を歩き続け、外廊下に出ると、咲乃の小さな声が聞こえた。
振り向くと、息を切らせている咲乃がそこにいる。少しずつ落ち着いていったと思えば、咲乃は俯いた。
「私……新城先輩と付き合わないほうがいいのかな……」
すぐにでも、別れてほしい。
ずっと自分から離れて行ってほしくないし、なんなら、私以外はいらないって言って。
それが怜依の本音だが、言えるはずがなかった。この独占欲は咲乃を困らせるだけで、なにより、幸せそうな咲乃を見た以上、言えない。
「……咲乃は、どうしたいの?」
「別れたくないよ。でも、私……」
咲乃は声を震わせた。さっきの花那の圧が効いてきたらしい。こんなにも落ち込んでいる姿を見ると、ますます花那のことが許せなくなる。でも、今は花那に対して怒る時間ではない。咲乃の笑顔を取り戻すことが最優先だ。
「咲乃が別れたくないなら、別れなくていいよ」
「いいの? 怜依ちゃん、イヤじゃない?」
なぜそう言うのか。聞くまでもなかった。やっぱり咲乃には、怜依が作り笑いをしていたことは気付かれていたらしい。
「それは……だって、大好きな咲乃が新城に取られた気がして、寂しくって」
これくらいなら、咲乃を困らせないだろう。そう思って、少しだけ本音を告げた。
すると、わずかに咲乃から暗い表情が消えた。
咲乃がもとに戻るまで、あと少し。
「咲乃が一番、可愛いからね」
何度も伝えてきた言葉。これしか伝えられない自分の語彙力を呪った。
咲乃のいいところは、まだまだあるのに。
「ありがとう、怜依ちゃん」
咲乃は柔らかく笑ったことで、怜依は胸をなでおろした。
この笑顔が守れるのなら、いくらでも本音を隠そう。
そう、心に決めた。
二度寝は諦めて、リビングに向かった。両親はすでに仕事に出ているようで、テーブルに朝食とメモ書きがあった。
『遅刻しないようにね!』
娘の思考回路を完璧に読んだメッセージ。
「……しないよ」
独り言で返すと、食パンを焼きにキッチンに立った。パンが焼けるまでは手持ち無沙汰で、スマホを取る。ロック画面には、新規メッセージが届いている通知があった。
送り主が咲乃だとわかってすぐ、トークルームを開いた。
『怜依ちゃん、おはよう! 今日から学校だね!』
ただ文字が並んでいるだけなのに、咲乃の声と笑顔が容易に想像できて、怜依は笑みをこぼした。
そして猫が欠伸をした隣に”おはよう”と書かれているスタンプを返した。
咲乃とやり取りをしたことで、憂鬱だった気分が一気に明るくなった。今日はいい日になりそうだと思うくらい。
『30分くらいしたら、怜依ちゃんの家に行くね!』
「あらら、早い」
だけど、早めの行動は咲乃らしい。
了解、と短く返したとき、パンが焼きあがった。それに用意されていたベーコンエッグを乗せて、朝食を済ませる。
顔を洗って、髪を整えて、制服に着替えて。今日はまだ夏服でいいんだっけ。まだ暑いから、夏服でいっか。メイクは、面倒だからなし。ああ、でも、咲乃の隣にいるには、最低限はしておかないと。
怜依に与えられた三十分で、怜依はどんどん身支度を進めていく。
そしてリュックを背負えば出発ができる状態になって気付いた。何一つ準備をしていないことに。昨日、遅くまで夏休み課題と対峙していたから、筆箱もノートも机の上に散らかったまま。せっかく頑張って仕上げたのに、忘れるなんて洒落にならない。しっかり忘れ物をしないようにリュックに入れると、怜依は家を出た。
「おはよ、怜依ちゃん」
玄関を開けると、咲乃はもういた。
肩で切りそろえられたボブカットは綺麗に内にカーブしていて。透明感抜群の白い肌に、ぱっちり二重。ピンク色の唇が潤っているのが、天然ものだなんて信じられない。
世界一可愛い咲乃が、怜依に手を振る。
「怜依ちゃん?」
「ごめん、咲乃が可愛くて、別世界に行ってた」
「もう、怜依ちゃんったら」
怜依のそれは、通常運転。それでも咲乃は慣れないみたいで、照れ笑いを見せる。それすらも、怜依には可愛くて仕方なかった。
「早く学校行こう、遅れちゃう」
咲乃は怜依の背中を押した。怜依が自力で歩き始めると、咲乃は怜依の隣に立った。
「怜依ちゃん、宿題終わった?」
「……一応?」
ほとんど答えを見て無理やり終わらせたことは、咲乃には言えないけれど。
「すごい! 一週間前はいっぱい残ってたのに」
咲乃は怜依がズルい手を使ったことは一切疑っていないらしい。それで褒められても、微妙な気持ちになる。来年は心から喜べるように、さっさと宿題を終わらせよう。そう思った。
「怜依ちゃん、あのね、私……彼氏ができたの」
時間が止まった気がした。
咲乃が頬を赤らめていることはわかる。でも今、何を言ったのかがわからない。いや、わかりたくない。
だって、咲乃に。咲乃に彼氏って。彼氏?
「……は?」
怜依は間抜けな声を出した。
高校生になったばかりの四月も、夏休み中も、そんな素振りは一切見せなかったのに。
本当に急な話で、怜依は嘘ではないかと疑ってしまう。ずっと一緒にいた咲乃に彼氏ができたなんて、嘘だ、と。
そんな怜依を見て、咲乃はくすくすと笑う。
衝撃発言をされて若干混乱していても、その表情を可愛らしいと思う余裕はあるらしい。
「怜依ちゃん、驚きすぎだよ」
それはつまり、今の話は嘘だということなのだろうか。五ヶ月遅れのエイプリルフール、みたいな。
「じゃあ、彼氏ってのは……」
淡い期待を抱いて、聞いてみる。しかし、まだ完全に嘘と決まったわけではないため、それは慎重に尋ねた。
「嘘じゃないよ?」
見事に打ち砕かれた。
怜依はショックを受けているというのに、やはり咲乃は楽しそうだ。いや、幸せそうなのか。
この咲乃は可愛い。まさに天使。
だけど、咲乃の可愛さが、自分だけのものではなくなった。自分以外の誰かが、男が、咲乃を可愛いと言い、咲乃が頬を綻ばせる。
そんなの、イヤだ。
「相手は……」
「怜依ちゃんも知ってる人だよ。新城先輩」
これが、怜依も認める相手であれば、素直に仕方ないと言えただろう。
しかし相手が新城。怜依が知っている新城は、一人しかいない。
理系クラスの新城隼人。
新城と言えば、銀髪、ピアス、サボり魔、常にチラつく女の影……とにかく風紀を乱すようなことばかり。まさに、絵に書いたような不良。
そんな不良に、可愛い咲乃が捕まるなんて。
「なんで、新城?」
“よりによって”というの言葉は、一呼吸置いたことで、怜依の体内に留まった。
いくら新城のことが認められないからと言って、すべてを否定することは、怜依にはできなかった。
そうすれば、咲乃を悲しませることがわかっていたから。
「一週間前、怜依ちゃんと図書館に行ったでしょ? その帰り、駅前でね、知らない男の人に絡まれちゃって」
「は?」
咲乃が柔らかい顔で話していると、怜依の強ばった声が遮った。
瞬間的に、咲乃の彼氏の存在は頭から消えたらしい。
「誰? どんな人? どうやって絡まれた? 顔、覚えてる?」
怜依は咲乃が戸惑うほどに、咲乃に詰め寄った。
「ちょ、ちょっと落ち着いて、怜依ちゃん」
咲乃に言われて、怜依は口を閉じた。
だが、詳しく聞き出さなければ気が済まないというのは、顔を見れば容易にわかった。
せめて、納得のいく説明が聞ければ。
そんな願望も、表情に滲み出ている。
「でね? 自分ではどうすることもできないなあ、困ったなあってときに、新城先輩が助けてくれたの」
咲乃は目を輝かせている。聞かずとも、新城に憧れていることが伝わってきてしまう。
これほどまでになにかを愛しく思っている顔は、見たことがない。小学校高学年からの付き合いだが、初めてだ。
知らない咲乃を、新城が引き出すなんて。
怜依の中には、素直に喜べない、黒い感情が渦巻いていた。
でも、咲乃には気付かれたくなかった。怜依が嫌だと感じていることが伝わってしまったら、間違いなく、怜依が幸せに染まる咲乃を奪ってしまう。
それも、嫌だった。
「……そっか」
笑えと身体に命令して、作った笑みはきっと、ぎこちない。
「よかったね、咲乃」
すると、咲乃は満面の笑みを見せた。もうすっかり萎れてしまった向日葵よりも、明るい笑顔だ。
幸せ?なんて聞かなくてもわかるくらい。
変な顔になっていたとしても、心から思ってなかったとしても、お祝いの言葉を伝えてよかった。
そう、思うことにした。
「怜依ちゃん、咲乃ちゃん! おはよ!」
校門が見えてくると、そこに立っていた相田佑真が手を振りながら叫んだ。
その明るい声は、今の怜依には受け付けられなかった。よって、いつもよりも華麗にスルーをした。
咲乃は無反応で佑真の前を通り過ぎていく怜依と、驚きつつも寂しそうな表情を見せる佑真を交互に見る。
「待ってよ、怜依ちゃん。どうしたの? なにかあった?」
佑真は慌てて追いかけてくる。
その結果、怜依を挟んで三人が並び歩く形となった。
「私のせい、かな。彼氏できたって言ったから」
反応しない怜依に代わって、咲乃が困ったように笑いながら答える。
「へえ、それはまた……ん? 彼氏? 誰に?」
「私。一週間前に彼氏ができたの」
佑真は少し大袈裟に、驚いた顔を見せた。
「咲乃ちゃんに彼氏!? あー、なるほど、それでショック受けちゃったんだ? 怜依ちゃん、本当に咲乃ちゃんのことが好きなんだから」
「うるさい」
怜依は力いっぱい、佑真を押しのけた。それはただの八つ当たりだ。中学からの付き合いだから遠慮なく接することができるゆえの、八つ当たり。
「怜依ちゃん、拗ねないの」
何度も似たようなことをされてきた佑真は、まったく気にする様子を見せない。それどころか、そんな子供のようなことをする怜依を、佑真はからかうように言った。まるで恐れ知らずだ。
怜依は佑真を一瞥すると、また無視をして歩き始めた。
「ごめんごめん、待って」
佑真が言うと、校舎に入る階段の途中で、怜依は足を止めた。
しかし、それは佑真を待つためではなかった。
視線の先、昇降口にて靴を履き替えている新城を発見したから。怜依は新城を睨みつけている。
「新城先輩!」
すると、咲乃が声を上げて、新城に駆け寄った。
挨拶をして、靴を履き替えに行って、また新城のところに戻って。その一連の流れを見ていると、微笑ましく思う。
だけど、穏やかではいられなかった。
並ぶと咲乃のほうが背が小さくて、咲乃は新城を見上げる。怜依が引き出すことができなかった柔らかい表情を浮かべて、新城の隣にいる。
話を聞いていただけでは現実味がなかったのに、こうして実際に新城と並ぶ咲乃を見ると、本当なんだと、思わざるを得ない。
今日は一段と可愛く見えたのは、新城に会うから? そのために、準備していたの? こうやって、咲乃は私の傍から離れていくんだね。
寂しいという言葉では収まらないくらい、胸が痛む。
咲乃のことを見たくないと思ったのは、初めてのことだった。
あんなにも可愛い咲乃が目の前にいるのに、目を逸らしてしまう。
「咲乃ちゃんの彼氏って、新城くんなの……?」
いつの間にか隣にいた佑真も、その光景が信じられないらしい。表情が物語っている。
「……らしい」
怜依の声は、恐ろしく小さかった。
「でも、新城くんには」
「隼人!」
動揺する佑真の声を、後ろから駆けてくる女子が遮った。
まさに、噂をすれば、という状況だった。
二人の傍を駆け抜け、新城の元に向かったのは、足立花那。新城のことを慕っている女子だ。
「おはよ、隼人」
花那は甘い声で言いながら、咲乃に気付いた。
ヘアメイクは完璧で、制服を着崩している花那に対して、あまりオシャレをしていない咲乃。
花那の完璧さに圧倒されてしまって、咲乃は視線を泳がせた。
「あれ? この子……そうだ、いい子のサクノちゃん。なんで隼人といるの?」
咲乃はよく、昼休みや放課後、怜依の教室に行っていた。だから、一学年上でも咲乃のことを知っているのは、なにも不思議ではなかった。
しかし、その言葉に、咲乃は表情を強ばらせた。
「彼女だから」
新城は表情を変えず、さも当然と言わんばかりに答えた。
すると、花那の纏う空気が変わった。
「……へえ」
花那は咲乃の頭の先から足先まで、じっくりと見る。値踏みされる瞬間は、いい気がしない。変な緊張感にも襲われ、咲乃は花那の顔が見れなかった。
「隼人、今度は随分とカワイイ子を選んだね」
それが褒め言葉ではないことは、怜依にもわかった。
誰よりも、咲乃が一番可愛いのに。
花那の物言いが気に入らなかった怜依は、花那と咲乃の間に割って入る。そして、花那を睨んだ。
「悪いけど、咲乃のほうが圧倒的に可愛いから」
「あれ、いたんだ? サクノちゃんの騎士さん」
花那の煽る表情に、怜依の額には血管が浮き出る。
だけど、怜依は周りが見えず騒ぎを起こすような、愚か者ではない。
静かに深呼吸をして、怒りを抑え込む。
「咲乃、行こう」
怜依は乱雑に靴を下駄箱に入れ、上履きを手にする。そして咲乃の手を引き、その場を離れた。
『随分とカワイイ子を選んだね』
聞こえなかったはずの花那の嘲笑が加わって、脳内で再生される。
我慢なんかせずに、もっと文句を言ってやればよかった。”可愛い”をがっつり作っている人が、バカにできるような存在じゃないのに。
歩けば歩くほど怒りが込み上げてきて、自然とスピードが速くなる。
「怜依ちゃん、速いよ」
ただ廊下を歩き続け、外廊下に出ると、咲乃の小さな声が聞こえた。
振り向くと、息を切らせている咲乃がそこにいる。少しずつ落ち着いていったと思えば、咲乃は俯いた。
「私……新城先輩と付き合わないほうがいいのかな……」
すぐにでも、別れてほしい。
ずっと自分から離れて行ってほしくないし、なんなら、私以外はいらないって言って。
それが怜依の本音だが、言えるはずがなかった。この独占欲は咲乃を困らせるだけで、なにより、幸せそうな咲乃を見た以上、言えない。
「……咲乃は、どうしたいの?」
「別れたくないよ。でも、私……」
咲乃は声を震わせた。さっきの花那の圧が効いてきたらしい。こんなにも落ち込んでいる姿を見ると、ますます花那のことが許せなくなる。でも、今は花那に対して怒る時間ではない。咲乃の笑顔を取り戻すことが最優先だ。
「咲乃が別れたくないなら、別れなくていいよ」
「いいの? 怜依ちゃん、イヤじゃない?」
なぜそう言うのか。聞くまでもなかった。やっぱり咲乃には、怜依が作り笑いをしていたことは気付かれていたらしい。
「それは……だって、大好きな咲乃が新城に取られた気がして、寂しくって」
これくらいなら、咲乃を困らせないだろう。そう思って、少しだけ本音を告げた。
すると、わずかに咲乃から暗い表情が消えた。
咲乃がもとに戻るまで、あと少し。
「咲乃が一番、可愛いからね」
何度も伝えてきた言葉。これしか伝えられない自分の語彙力を呪った。
咲乃のいいところは、まだまだあるのに。
「ありがとう、怜依ちゃん」
咲乃は柔らかく笑ったことで、怜依は胸をなでおろした。
この笑顔が守れるのなら、いくらでも本音を隠そう。
そう、心に決めた。