退院してから、初めての登校日。
 とっくに暴力的な暑さは和らぎ、秋がそこまで近付いているように感じる。
 そんな中で、怜依にも新城にも断って、咲乃は一人で登校していた。
 着々と学校に近付くにつれて、緊張で足が重たくなっていく。
 自分だけが過去に取り残されているから、クラスには馴染めないような気がして。
 だけど、ふと気付いた。
 私は、もともと空気みたいな存在だったな。
 きっと、誰も私のことなんて気にしていない。
 そう思うと、安心と虚しさが同時に襲ってきた。
 学校に行くのも嫌になって、家に戻ってしまおうか。
 足を止めて、来た道を引き返そうとしたとき、怜依が学校で待っていることを思い出した。
 学校に行けば、怜依に会える。
 それだけを頭に、咲乃は足を進めた。
 少しずつ同じ制服を着た人たちとすれ違い始める。
 もうすぐ着くんだ。
 もうすぐ、着いてしまう。
 そんな期待と不安に押しつぶされそうになった。

「咲乃」

 咲乃の不安を一気に取っ払う、怜依の声。
 怜依は咲乃のもとに駆け寄ってくる。

「おはよう、咲乃」

 怜依の顔を見て、全身の力が一気に抜けた感覚があった。
 脱力した勢いで、咲乃は怜依に抱き着く。

「おはよう、怜依ちゃん……」

 怜依はそっと咲乃の頭に触れた。
 なにも言わないけれど、頑張ったねって褒められているような気がして、頬が緩む。
 そのまま生気を養うと、咲乃は怜依から離れる。

「ありがとう、怜依ちゃん。頑張ってくるね」
「うん。行ってらっしゃい」

 お互いに手を振って別れると、咲乃は校舎に入った。
 教室に向かうと、すでに何人か来ていて、若干騒がしかった。
 いつもみんなの笑い声が苦手で、教室にいるのは好きではなかった。
 それは、自分を変えようと決意した今でも変わらない。
 そんなにすぐに変わることができたら、何年も苦労していない。
 咲乃は極力楽しそうな声のほうを見ないようにしながら、窓際にある自分の席に向かった。
 いつもみたく、スマホを触って始業のチャイムを待とう。
 そう決めて、席に着くと、スマホを取り出した。

「あ、織寧おはよ!」

 その声は、騒がしい空間なのに、やけにはっきりと聞こえた。
 視線を上げると、確かに織寧の姿がある。
 織寧とは話さないと。
 でも、どうやって?
 ずっと、織寧たちの近くにいただけで、話しかけることも少ない私が、急に話しかけてもいいの?
 急に怖くなって、咲乃は動けなくなった。
 そんな挙動不審の咲乃に気付いたのか、織寧と目が合った。
 織寧は目を逸らさず、咲乃のもとにやってくる。

「おはよう、白雪さん」
「お、おはよう……」

 こんな急に話すタイミングがやってくるとは思っていなくて、咲乃は言葉に詰まりながら言った。

「あのね、白雪さんがお休みしている間に席替えして、そこ、白雪さんの席じゃなくなったんだよね」
「え……」

 咲乃は急に恥ずかしくなった。

「ご、ごめんなさい」
「ううん、知らなかったんだし、仕方ないよ」

 咲乃は慌てて自分の荷物を回収する。

「えっと、私の席って……」
「こっちだよ」

 織寧が移動すると、咲乃はその背中を追った。
 いつものように、織寧の後ろを歩くだけ。
 ちゃんと思っていることも言えなくて、隣に立てない。
 こんなだから、いつまで経っても自分のことが好きになれないんだ。
 だからもう、織寧に付きまとうのは終わりにする。
 そう決めていたのに、話の切り出し方がわからない。

「ここが白雪さんの席だよ」

 案内されたのは、真ん中の列の一番前。
 みんながハズレだという席だ。
 休んでいたことで、押し付けられたのかな。
 そんな、嫌な考えがよぎる。

「じゃあね」
「あ、あの」

 用が済んだことで、織寧が去ろうとするのを、慌てて引き留めた。
 織寧が迷惑そうな顔をしているように感じるのは、気のせいだろうか。

「なに?」

 その一言も、責められているように感じて、ますます言葉が出てこない。
 でも、今がチャンスなんだ。
 これを逃したら、次はいつになるのかわからない。

「……小学生のとき、学校にシャーペンを持ってきたこと、あった、よね?」

 織寧はピンと来ていないのか、数回瞬きをした。
 だけど、すぐに思い出したらしい。

「……あ、うん、そうだ、持って行ったかも。あのころ、お母さんに可愛いやつ買ってもらって、気に入ってたから」
「それで、私が持ってきちゃダメって言ったんだけど……」

 織寧は今度こそ思い出せないようだ。
 本人が忘れているなら、言わなくてもよかったんじゃないか。
 いや、これは自分にとって清算しなければならない過去。
 逃げ続けるなんてできない。

「あのとき、水を差してごめんなさい」

 賑やかな声が大きくなる中で、咲乃は小さく頭を下げた。
 織寧の反応が怖くて、視線も上げられない。

「……もしかして、ずっと、そのときのことを気にしてたの?」

 咲乃は首を縦に振る。

「そっか、だから……」

 織寧の納得したような声に、思わず顔を上げた。
 織寧はまったくもって、怒ってもいないし、なんなら気にしてすらない。
 何年も引きずっていたのは、咲乃だけだったらしい。

「全然気にしてないから、そんな泣きそうな顔しないで?」

 織寧の表情は柔らかかった。
 ずっと、気まずい表情を向けられていたのに。
 もう、その顔を向けられることはないと思っていたのに。
 それが嬉しくて、視界が滲む。
 泣きそうになっていることは、当然のごとく、織寧に気付かれた。
 織寧はくすくすと笑みをこぼす。

「真面目だね、咲乃ちゃんは」

 あのときと似たような言葉。
 だけど、その表情はあの日とは違って、優しい。
 ずっと染みついて消えなかった記憶が、塗り替えられていく。
 拒絶なんてされていない。
 こうして笑顔で受け止めてくれている。
 咲乃が思っているほど、周りは敵なんかじゃなかった。
 それが嬉しくて、咲乃は教室だということを忘れて、涙を流した。

「あ、織寧が白雪さん泣かせてる!」

 その声で、周りに人がいることを思い出した。
 咲乃は慌てて涙を拭う。

「こ、これは嬉し泣きだから」
「そうなの?」

 咲乃は必要以上に頷いた。
 それを見て、織寧たちは自然と笑った。
 嗤われているのではなく、楽しい空間に交えてもらえている。
 そう感じられる瞬間だった。