君が世界のすべてだった

 三人になっても、室内の空気は重たいまま。
 咲乃の目の前で佑真との縁を切るような態度を取ったのは、間違ったのかもしれない。
 これでは、咲乃が自分を責めてしまう。
 怜依は自分の感情を優先しすぎたことを後悔した。

「咲乃、ごめん」

 静かな空間に、怜依の言葉が置かれる。
 怜依に謝られると思っていなかった咲乃は、動揺を見せる。

「なんで、怜依ちゃんが謝るの……?」
「だって……全部私のせいだから」

 咲乃は小さく首を横に振った。

「違う……違うよ、怜依ちゃん……」

 咲乃の瞳が、涙で潤んでいく。
 その表情を見ていると、胸が締め付けられて仕方ない。
 咲乃にこんな顔をさせている原因は、間違いなく自分なんだ。
 そう思うと、今までのすべての言動に後悔の念を感じてしまう。

「……私が、咲乃も佑真も追い詰めた。私がもっと二人のことを見ていたら、こんなことにはならなかった」

 もっと咲乃のことをよく見ていたら。
 咲乃が本音を覆い隠して笑うことはなかった。
 もっと佑真のことをよく見ていたら。
 佑真が咲乃に意地悪を言うこともなかった。
 この悲しい事故を起きたのは、咲乃のせいでも、佑真のせいでもない。
 私のせいだ。

「だから、ごめん。今までも、たくさん苦しめてごめん」

 自分には泣く資格はない。
 そうわかっているのに、涙が頬を伝った。
 怜依は右手の甲で涙を拭う。
 すると、咲乃が怜依を抱き締めた。
 それは咲乃にしては強い力で、怜依は少し苦しかった。

「怜依ちゃんのせいじゃないよ」

 咲乃はそう言うと、怜依から離れた。
 その瞳は力強くて、目が離せない。

「絶対に、怜依ちゃんのせいじゃない」

 励ますための言葉とは少し違うように感じた。
 でも、一番の原因は私だ。
 そう言いたくても、言わせてもらえない雰囲気だ。

「これは、私が弱くって新城先輩に頼ったから起きたことなの。怜依ちゃんは、なにも悪くない」

 なにも?
 そんなわけない。
 私にだって、悪いところはあった。
 そのせいで、二人を苦しめて来たんだから。
 それを正さない限り、この悲しみは連鎖してしまう。
 だから、そんなふうに肯定しないで。

「怜依ちゃんは、私にいっぱい嬉しいことを言ってくれた。たくさん可愛がってくれた。私は、嬉しかったよ。それを、全部悪かったみたいに言わないで」

 咲乃は寂しそうに瞳を揺らす。

「お願い、怜依ちゃん。そんなに自分を責めないで?」

 ほかでもない、咲乃がそう言うから、怜依の中で罪悪感のようなものが徐々に小さくなっていった。

「……咲乃も、自分が全部悪いって思わなくてもいいからね」

 咲乃がこの言葉を受け取ってくれなかったのは、その顔を見れば容易にわかった。
 怜依の言葉に対して、こんな反応を見せたのは初めてだ。
 いつも、嬉しそうに笑っていて、それに癒されていたのに。
 もしかして、ずっと、こういう言葉は聞きたくなかった?

「咲乃……?」

 咲乃が苦しむ姿を目の当たりにして、声が震えた。
 だって、これだと、今までのすべてが間違っていたことになる。
 でも、ついさっき、咲乃は嬉しかったって。
 なにを信じて、なにを言えばいいのか、どんどんわからなくなっていく。

「……ごめん、怜依ちゃん。それは、難しい話かな」

 咲乃は困ったように笑みを浮かべた。

「どうして?」

 咲乃はすぐには答えず、視線を落とす。
 ここで聞かなかったら、いつまでも咲乃の本当の言葉を聞けない気がして、問い詰めたくなっている自分がいる。
 でも、これは急かしたってどうしようもない。
 咲乃が話したいと思えるタイミングを待たなければ。
 そうわかっているのに、無言の時間がやけに長く感じる。

「白雪、ゆっくりで大丈夫だよ」

 新城が咲乃に声をかけたことで、怜依は咲乃の顔色が悪いことに気付いた。
 怜依が無言でいたことが、咲乃にとって、圧になっていたらしい。
 新城は咲乃に寄り添うと、咲乃をベッドに座らせた。
 私は、咲乃のなにを見ているのだろう。
 これで咲乃のことが大切だなんて、笑えてくる。

「……私、怜依ちゃんといないときの自分が、好きになれないの。みんなの顔色を窺って、否定されないように振る舞って。自分でそうしているはずなのに、楽しそうにしているみんなと本当に笑えていない私を比べて、惨めに思って。そばに人がいるのに、孤独でいるような気がして。私、なにしてるんだろうって思うことも多かった」

 咲乃の表情が本当に苦しそうで、怜依は咲乃を励ます言葉を必死に考えた。
 だけど、どれも間違っているような気がして、黙って話を聞くことができない。
 すると、咲乃の大きな瞳から涙が落ちた。
 あまりにも綺麗に流れたから、怜依はそれから目が離せない。

「怜依ちゃんがたくさん好きだって言ってくれてるのに、自分を好きになれないことも苦しかった」

 自分の純粋な思いが咲乃を苦しめているなんて、知らなかった。
 笑顔の下に、それだけの涙が隠されていたなんて、知らなかった。
 私が、気付かないといけなかったのに。
 でも、後悔しているだけでは意味がない。
 咲乃が苦しんでいると気付けた今、できることを。

「……私は、どんな咲乃でも好きだよ」

 どうしてこんな薄っぺらいような言葉しか言えないんだ。
 もっと、もっと咲乃を救えるような言葉がきっと、この世には存在しているはずなのに。
 私は、それを知らない。

「ありがとう、怜依ちゃん」

 咲乃が涙を拭って微笑むから、怜依はこの言葉でも咲乃を救うことができたんだって思った。

「でもね、これは私の問題なんだ」

 だけど、違った。
 怜依の言葉では、咲乃を救うことはできない。
 そう感じる眼だ。
 いつの間に、こんなに強くなったんだろう。
 新城といたから? じゃあ、もう、私はいらない?
 そんな不安がよぎった。

「私がどう感じるかの問題なの」

 言葉だけじゃない。今、怜依にできることはなにもない。
 そう言われた気がした。
 力になりたいのに、なにもできないなんて、もどかしすぎる。

「それでね、怜依ちゃん……私が、自信を持って怜依ちゃんの隣に立てるって思えるまで、待っててくれる?」

 さっきまでの強い瞳と打って変わって、その表情には不安が滲んだ。
 それを見ていると、怜依はとんでもない勘違いをしたことに気付いた。
 信じて待つことも、重要な役目。私は、咲乃が安心して戻ってこれる居場所でいよう。
 怜依はそう思った。

「……わかった。いつまでも、待ってる」

 怜依はそっと咲乃の涙の痕に触れた。
 咲乃はくすぐったそうに笑う。
 それが本当に可愛らしくて、いつもの咲乃に見えた。

「でも、長すぎたら大人しくしてられないかも」
「ええ、そんなあ」

 戸惑いながらも、冗談だってわかっているからか、咲乃はクスクスと笑う。
 こんなふうに笑えるなら、きっと、大丈夫だ。

「……じゃあ、咲乃も起きたばっかりで休みたいだろうし、もう帰るね」

 怜依は名残惜しそうに言った。
 そして、咲乃はどこか寂しそうな表情を浮かべる。
 だけど、すぐに表情を切り替えた。

「うん、またね」

 怜依は咲乃に手を振り返し、二人を残して病室を後にした。