◇
咲乃の病室にたどり着くと、怜依は右手でノックをする。
ドアの向こうから聞こえて来たのは、千早の声ではなかった。
それを聞いた瞬間、怜依は勢いよくドアを開けた。部屋には千早はいなくて、咲乃だけがいた。
「あ、怜依ちゃん!」
咲乃は身体を起こしてベッドに座っている。それも、怜依がずっと見たかった笑顔を浮かべて。
咲乃だ。咲乃が、本当に。
込み上げてきた涙を隠すように、怜依は咲乃に抱き着いた。
「怜依ちゃん、苦しいよ」
戸惑い、笑う咲乃。
ずっと、ずっと待っていた。
怜依はゆっくりと咲乃から離れる。
本当に、咲乃がここにいることを確かめるように、怜依は左手で咲乃の頬に触れた。
「寝すぎだよ、咲乃……」
咲乃は、満面の笑みを見せる。
「ごめんね、怜依ちゃん」
怜依の言葉に、咲乃が応える。
これは夢じゃない、現実なんだ。
怜依はもう一度、咲乃を抱き締める。
改めて強い力で抱き着かれながら、咲乃と新城は目が合った。
「新城先輩も来てくれたんですね」
「うん。まあ、俺だけじゃないんだけど」
新城はそう言って、背後に視線を送った。
最後に、佑真が病室に足を踏み入れる。
佑真の姿を見て、咲乃の表情が固まった。
「あの……」
佑真が声を発すると、怜依は咲乃から離れた。
その顔には、もう喜びは残っていない。
怜依が佑真を睨んだことで、部屋の空気は重くなる。
「相田先輩も来てくれたんだね、ありがとう」
そんな中で、咲乃の明るい声が響く。
声はいつもの調子だけど、咲乃は無理をしている。
真実を知った今、それは容易にわかった。
「咲乃、思ってないことは言わなくていいよ」
「え……」
怜依の冷たい声に、咲乃は動揺を見せる。そして、すぐに新城の顔を見た。
咲乃の顔から、笑顔の仮面が消える。
「怜依ちゃんに、言ったんですか」
「……ごめん」
新城は短く謝るだけで、詳しくは言わなかった。
室内は、本格的に静寂に支配されていく。
まだ整理がついていない怜依。どのように振る舞えばいいのかわからない咲乃。謝りたくても言い出せない佑真。そして、ひたすらに黙る新城。
まさに状況は混沌と化している。
「……怜依ちゃんは、どこまで知ってるの?」
ひとまず、寝ていたときの状況を把握したい咲乃が言った。
「咲乃がいつも無理をしてて、新城と付き合うふりをして、佑真に脅されてたってところまで、かな」
それはつまり、ほとんど知っているということ。
咲乃はますます、振る舞い方がわからなくなっていく。それどころか、顔色が悪い。
「和多瀬、ちょっと外に出よう」
それに気付き、怜依が咲乃に声をかけるよりも先に、新城が言った。
だけど、怜依は素直に新城の言うことに従うことはできなくて、心配そうに咲乃を見る。
咲乃は固まって動かない。
「でも……」
「いいから、はやく」
新城は怜依の手首を掴むと、引きずるようにして病室を出た。
まだ咲乃と話すこと、話したいことがたくさんあるのに。
「新城、どうして」
怜依が抗議しようとすると、新城は右手の人差指を自分の唇に当てた。
それを見ると、思わず声を止めてしまった。
「なんで白雪が和多瀬に知られたくなかったのか、忘れた?」
怜依は首を横に振る。
咲乃がずっと知られたくないと思っていた理由。
それはおそらく、怜依に嫌われたくないから。
「……でも私、咲乃のこと嫌いになんてなってない」
咲乃の本音を知ってなお、怜依が咲乃に対してそんな感情を抱いた瞬間はない。
だから、こうして外に連れ出されたことが納得いかない。
「和多瀬がそれを言って解決するなら、こんなことにはなってないんじゃない?」
新城は冷静に言った。
そう言われてしまうと、返す言葉がない。
それでも納得いかなくて、なにか言い返そうと考えているとき、怜依は佑真が廊下にいないことに気付いた。
佑真と咲乃が二人きりになっている。
すぐにでも病室に戻らないといけないような気がして、怜依は踵を返すが、これもまた新城に邪魔をされた。
「もう、なんで」
「和多瀬がいたら、あの二人も話しにくいでしょ」
さっきから、新城の正論が刺さって仕方ない。
それもまた面白くなくて、怜依は不貞腐れた様子で壁に背中を預けている。
すると、新城はドアを少しだけ開けた。
入るなと言われたばかりなのに、どうしてそんなことをするのか、わからなかった。
「あの、咲乃ちゃん……本当に、ごめんなさい」
廊下の多方面から会話が聞こえてくる中で、病室から佑真の声が聞こえた。
新城がドアを開けたのは、二人の様子を盗み聞きするためらしい。
それを理解して、怜依は聞き耳を立てる。
「許さない」
十分に間を取って、咲乃の冷たい声が聞こえた。
咲乃のことを知ってこなければ、これが本当に咲乃の声なのか、疑っていたことだろう。
それほどに、聞いたことのない声のトーンだった。
「先輩にいろいろ言われて、本当に嫌だったし、あそこで先輩と話してなかったら、こんなことにはならなかった」
咲乃の本音すぎる言葉。
それを聞いて、怜依はいろいろなことを思った。
これは、たしかに自分がいては話しにくいだろう、とか。
いつから、こんな咲乃の本音を聞かなくなったのだろう、とか。
自分が抱いている感情のはずなのに、この感情にどんな名前がつくのか、まったくわからない。
「……でも、許す」
「え……」
その声を漏らしたのは、佑真だけではなかった。
怜依も、咲乃がそう続けたのは聞き間違いだと思った。
「白雪咲乃は優しい子だから。優しさの塊みたいな子だから。私は許したくないけど、怜依ちゃんが好きな私は、先輩のこと許せる子だから」
ああ、ここまで。
これほどまで、私は咲乃を追い詰めていたんだ。
咲乃が本当の声を押し殺してしまうくらい。
そう思うと、自分が咲乃に伝えてきた言葉の重さを思い知らされてしまった。
違うよ、咲乃。違うの。
私は、貴方にそんな我慢をしてほしくて、貴方に伝えてきたわけじゃない。
「だから、私は」
「許さなくていいよ、咲乃」
怜依は黙っていられず、咲乃の言葉を遮った。
怜依が唐突に乱入したことで、咲乃と佑真は驚いて怜依を見ている。
だけど、怜依はそんな二人を気にせず、咲乃に近寄った。
「私がどう思うかなんて、考えなくていい。咲乃は、許したくないんでしょ? だったら、許さなくていい。佑真は、それだけのことをしたんだから」
振り向くと、佑真の後ろで文字通り頭を抱えている新城がいる。
まだ、乱入するべきタイミングではなかったらしい。
でも、身体が勝手に動いてしまったのだから、どうしようもない。
「でも怜依ちゃん、いいの?」
咲乃は不安そうに怜依を見上げる。
「いいって、なにが?」
「だって、相田先輩は、怜依ちゃんの友達で……私が許さなかったら、二人は気まずくなるでしょ?」
そこまで考えて、咲乃は許す選択をしたのか。
どこまで、この子は自分の気持ちを無視するのだろう。
それがまた、怜依は悲しかった。
「……そもそも、私だって佑真のこと許してないから」
「そう、なの……?」
「当然だよ。咲乃を傷付けた時点で、絶対に許さない」
怜依のそれがとどめとなり、佑真は言葉を失っている。
無慈悲だとしても、もう、前のように佑真と過ごすことは、怜依にはできそうになかった。
だから、怜依は佑真には声をかけない。
「……ごめんね、咲乃ちゃん。本当に、ごめんなさい」
この空間が耐えきれなくなったのか、佑真は頭を下げて謝ると、そのまま病室を駆け出していった。
咲乃の病室にたどり着くと、怜依は右手でノックをする。
ドアの向こうから聞こえて来たのは、千早の声ではなかった。
それを聞いた瞬間、怜依は勢いよくドアを開けた。部屋には千早はいなくて、咲乃だけがいた。
「あ、怜依ちゃん!」
咲乃は身体を起こしてベッドに座っている。それも、怜依がずっと見たかった笑顔を浮かべて。
咲乃だ。咲乃が、本当に。
込み上げてきた涙を隠すように、怜依は咲乃に抱き着いた。
「怜依ちゃん、苦しいよ」
戸惑い、笑う咲乃。
ずっと、ずっと待っていた。
怜依はゆっくりと咲乃から離れる。
本当に、咲乃がここにいることを確かめるように、怜依は左手で咲乃の頬に触れた。
「寝すぎだよ、咲乃……」
咲乃は、満面の笑みを見せる。
「ごめんね、怜依ちゃん」
怜依の言葉に、咲乃が応える。
これは夢じゃない、現実なんだ。
怜依はもう一度、咲乃を抱き締める。
改めて強い力で抱き着かれながら、咲乃と新城は目が合った。
「新城先輩も来てくれたんですね」
「うん。まあ、俺だけじゃないんだけど」
新城はそう言って、背後に視線を送った。
最後に、佑真が病室に足を踏み入れる。
佑真の姿を見て、咲乃の表情が固まった。
「あの……」
佑真が声を発すると、怜依は咲乃から離れた。
その顔には、もう喜びは残っていない。
怜依が佑真を睨んだことで、部屋の空気は重くなる。
「相田先輩も来てくれたんだね、ありがとう」
そんな中で、咲乃の明るい声が響く。
声はいつもの調子だけど、咲乃は無理をしている。
真実を知った今、それは容易にわかった。
「咲乃、思ってないことは言わなくていいよ」
「え……」
怜依の冷たい声に、咲乃は動揺を見せる。そして、すぐに新城の顔を見た。
咲乃の顔から、笑顔の仮面が消える。
「怜依ちゃんに、言ったんですか」
「……ごめん」
新城は短く謝るだけで、詳しくは言わなかった。
室内は、本格的に静寂に支配されていく。
まだ整理がついていない怜依。どのように振る舞えばいいのかわからない咲乃。謝りたくても言い出せない佑真。そして、ひたすらに黙る新城。
まさに状況は混沌と化している。
「……怜依ちゃんは、どこまで知ってるの?」
ひとまず、寝ていたときの状況を把握したい咲乃が言った。
「咲乃がいつも無理をしてて、新城と付き合うふりをして、佑真に脅されてたってところまで、かな」
それはつまり、ほとんど知っているということ。
咲乃はますます、振る舞い方がわからなくなっていく。それどころか、顔色が悪い。
「和多瀬、ちょっと外に出よう」
それに気付き、怜依が咲乃に声をかけるよりも先に、新城が言った。
だけど、怜依は素直に新城の言うことに従うことはできなくて、心配そうに咲乃を見る。
咲乃は固まって動かない。
「でも……」
「いいから、はやく」
新城は怜依の手首を掴むと、引きずるようにして病室を出た。
まだ咲乃と話すこと、話したいことがたくさんあるのに。
「新城、どうして」
怜依が抗議しようとすると、新城は右手の人差指を自分の唇に当てた。
それを見ると、思わず声を止めてしまった。
「なんで白雪が和多瀬に知られたくなかったのか、忘れた?」
怜依は首を横に振る。
咲乃がずっと知られたくないと思っていた理由。
それはおそらく、怜依に嫌われたくないから。
「……でも私、咲乃のこと嫌いになんてなってない」
咲乃の本音を知ってなお、怜依が咲乃に対してそんな感情を抱いた瞬間はない。
だから、こうして外に連れ出されたことが納得いかない。
「和多瀬がそれを言って解決するなら、こんなことにはなってないんじゃない?」
新城は冷静に言った。
そう言われてしまうと、返す言葉がない。
それでも納得いかなくて、なにか言い返そうと考えているとき、怜依は佑真が廊下にいないことに気付いた。
佑真と咲乃が二人きりになっている。
すぐにでも病室に戻らないといけないような気がして、怜依は踵を返すが、これもまた新城に邪魔をされた。
「もう、なんで」
「和多瀬がいたら、あの二人も話しにくいでしょ」
さっきから、新城の正論が刺さって仕方ない。
それもまた面白くなくて、怜依は不貞腐れた様子で壁に背中を預けている。
すると、新城はドアを少しだけ開けた。
入るなと言われたばかりなのに、どうしてそんなことをするのか、わからなかった。
「あの、咲乃ちゃん……本当に、ごめんなさい」
廊下の多方面から会話が聞こえてくる中で、病室から佑真の声が聞こえた。
新城がドアを開けたのは、二人の様子を盗み聞きするためらしい。
それを理解して、怜依は聞き耳を立てる。
「許さない」
十分に間を取って、咲乃の冷たい声が聞こえた。
咲乃のことを知ってこなければ、これが本当に咲乃の声なのか、疑っていたことだろう。
それほどに、聞いたことのない声のトーンだった。
「先輩にいろいろ言われて、本当に嫌だったし、あそこで先輩と話してなかったら、こんなことにはならなかった」
咲乃の本音すぎる言葉。
それを聞いて、怜依はいろいろなことを思った。
これは、たしかに自分がいては話しにくいだろう、とか。
いつから、こんな咲乃の本音を聞かなくなったのだろう、とか。
自分が抱いている感情のはずなのに、この感情にどんな名前がつくのか、まったくわからない。
「……でも、許す」
「え……」
その声を漏らしたのは、佑真だけではなかった。
怜依も、咲乃がそう続けたのは聞き間違いだと思った。
「白雪咲乃は優しい子だから。優しさの塊みたいな子だから。私は許したくないけど、怜依ちゃんが好きな私は、先輩のこと許せる子だから」
ああ、ここまで。
これほどまで、私は咲乃を追い詰めていたんだ。
咲乃が本当の声を押し殺してしまうくらい。
そう思うと、自分が咲乃に伝えてきた言葉の重さを思い知らされてしまった。
違うよ、咲乃。違うの。
私は、貴方にそんな我慢をしてほしくて、貴方に伝えてきたわけじゃない。
「だから、私は」
「許さなくていいよ、咲乃」
怜依は黙っていられず、咲乃の言葉を遮った。
怜依が唐突に乱入したことで、咲乃と佑真は驚いて怜依を見ている。
だけど、怜依はそんな二人を気にせず、咲乃に近寄った。
「私がどう思うかなんて、考えなくていい。咲乃は、許したくないんでしょ? だったら、許さなくていい。佑真は、それだけのことをしたんだから」
振り向くと、佑真の後ろで文字通り頭を抱えている新城がいる。
まだ、乱入するべきタイミングではなかったらしい。
でも、身体が勝手に動いてしまったのだから、どうしようもない。
「でも怜依ちゃん、いいの?」
咲乃は不安そうに怜依を見上げる。
「いいって、なにが?」
「だって、相田先輩は、怜依ちゃんの友達で……私が許さなかったら、二人は気まずくなるでしょ?」
そこまで考えて、咲乃は許す選択をしたのか。
どこまで、この子は自分の気持ちを無視するのだろう。
それがまた、怜依は悲しかった。
「……そもそも、私だって佑真のこと許してないから」
「そう、なの……?」
「当然だよ。咲乃を傷付けた時点で、絶対に許さない」
怜依のそれがとどめとなり、佑真は言葉を失っている。
無慈悲だとしても、もう、前のように佑真と過ごすことは、怜依にはできそうになかった。
だから、怜依は佑真には声をかけない。
「……ごめんね、咲乃ちゃん。本当に、ごめんなさい」
この空間が耐えきれなくなったのか、佑真は頭を下げて謝ると、そのまま病室を駆け出していった。