咲乃を階段から突き落としたのは、佑真かもしれないと気付いて、数日。
 怜依は、まだ佑真に話を聞くことができていなかった。
 咲乃を苦しめた奴を許さないと思っていたはずなのに、どれだけ時間が経っても、真実を受け止める勇気が出ない。
 だけど、いつまでも立ち止まってはいられない。
 覚悟を決めた怜依は、放課後、文系クラスの教室に向かった。
 和やかな雰囲気の中で殺気立っているから、怜依だけがこの空間に馴染んでいない。

「あれ、和多瀬さん?」

 誰もが怜依を避けてできた道を進んでいると、名前を呼ばれた。
 それによって、怜依は現実に引き戻された。
 目の前しか見えていなかった視野が広がり、お手洗いから戻ってくる莉帆の姿を見つける。

「寄田さん……」

 なにも知らない莉帆はいつも通りで、怜依は息ができた気がした。
 どうやら、とてつもない緊張感に支配されていたらしい。

「ここにいるなんて珍しいね。どうしたの?」
「えっと……」

 佑真を探している。
 正直にそう言えばいいのに、理由を聞かれたら答える自信がなくて、怜依は言葉に困った。
 そのとき、スマホにメッセージが届いた。

『咲乃が目を覚ましました』

 千早からだった。
 それを見て、怜依の中で迷いなんてなくなった。
 逸る気持ちを抑え、瞼を開いた奥から、強い眼差しが現れる。

「佑真、いる?」
「相田くんなら、今日は休みだけど……」

 怜依の雰囲気が変わったことに気付き、莉帆は少し戸惑いを見せる。
 だけど、怜依はそれに気付かない。

「そっか。ありがとう」

 怜依の目には、怜依を引き留めようとする莉帆の姿も、写っていなかった。
 怜依は踵を返して昇降口に向かう。
 その途中、銀髪が視界の端にちらついた。
 新城が窓際の席で帰り支度をしている。
 そういえば、今日は学校に来ていたんだっけ。

「新城」

 新城のそばに行き、怜依は腕を掴んだ。

「え、なに」

 唐突な出来事に、新城はなにが起きているのか理解できていなかった。
 だが、そんなものお構いなしに、怜依は新城の腕を引っ張る。

「咲乃が目を覚ました」

 すべてを理解したような顔をし、新城は席を立った。
 笑い声が響く廊下を、二人は重い顔をして進む。

「アイツとは、話した?」
「……まだ」
「そっか」

 新城はそれだけしか言わなかった。
 臆病だと呆れたり、バカにしたりすると思っていただけに、拍子抜けしてしまう。

「……なに」
「いや、バカにされると思ってたから」
「和多瀬の中で、俺はどれだけクズになってんの?」

 新城はそう言いながら、外靴に履き替える。
 きっと、新城は思っていたような人ではない。それはもう、怜依もわかっている。
 だけど、自分の不甲斐なさはなにか言われるだろうと思っていた。

「しないよ、そんなこと。俺だって、信じてた人に裏切られてたってわかっても、認められないだろうし」

 咲乃はきっと、新城のこういうところに心を許したんだろうな。
 怜依はそんなことを思いながら、中靴を靴箱に入れた。
 そして校門をくぐると、新城は右へ、怜依は左に身体を向けた。

「病院、こっちでしょ?」
「佑真を連れて行こうと思って」

 それを聞いて、新城は心底嫌そうな顔をした。

「うわ、なにそれ……超カオス空間じゃん……」

 それは、怜依にも想像できる。だから、佑真を連れていくのは今日ではなくてもいいと思う節もある。
 でも、佑真のことに気付いていながら、それを隠して咲乃と会うことは難しそうで。
 そういうわけで、たとえ地獄の時間を過ごすことになろうと、佑真を連れていくしかなかった。

「先に咲乃のところに行ってていいよ」
「いや、一緒に行くよ。で、怒られるから」

 それは、怜依にいろいろ話したことに対して言っているのだろう。
 内緒にするという約束を破らせたことを、今さらながらに申し訳なく思った。

「……ありがとう」

 謝罪の言葉が喉元まで出かかったけど、それよりもこっちのほうがふさわしいと思った。
 新城は小さく口角を上げ、佑真の家がある方向に歩き始めた。
 お互いに無言のままで、少しずつ賑やかな世界から乖離していく。
 その無言の時間が、怜依を緊張で支配していった。
 佑真の家に着き、チャイムを鳴らす指は、震えていた。

「はい」

 インターフォンの向こうから聞こえて来たのは、女性の声。

「あの、和多瀬です。佑真、いますか?」
「怜依ちゃん? ちょっと待ってね」

 そこで通話は切れ、怜依はドアから少し離れて息を吐き出した。
 だけど、まだ緊張からは解放されない。
 心臓がここにいるぞと主張していて、うるさい。

「和多瀬、大丈夫?」

 後ろに控えていた新城に声をかけられて、怜依は一人ではないことを思い出した。
 それだけで、少し気が楽になった。

「……大丈夫」

 怜依がそう返したのと同時に、ドアが開いて、佑真が姿を現した。

「怜依ちゃん、どうしたの?」

 いつものように声をかけてくる佑真。
 怜依はそれを気持ち悪いと感じた。
 まだ、隠すつもりなのだろうか。
 その苛立ちをぶつけるより先に、佑真は怜依の後ろにいる新城に気付き、一気に顔色を悪くした。

「なん、で……」
「和多瀬が、お前が犯人だって気付いたから?」

 新城が答えると、佑真は家に逃げ込むために、ドアを開けた。

「佑真!」

 だけど、怜依が佑真の腕を掴んだことで、それは叶わなかった。
 佑真の表情は酷く歪んでいく。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 責め立てる思いは、繰り返し謝る佑真にぶつけてもいいのか、怜依は迷ってしまった。
 今までの時間が、佑真に対しての同情心を煽ってくる。

「……それ、私に言うべきことじゃないよね」
「え……」
「咲乃、起きたって」

 怜依は千早とのトーク画面を、佑真に見せる。
 すると、佑真は静かに、ドアノブから手を離した。
 佑真と怜依が並び、その後ろを新城が歩く。
 咲乃が目を覚ましたという、とても嬉しいニュースを受け取ったとは思えないほど、空気が重い。

「……あの、怜依ちゃん……」

 その沈黙に、佑真が耐えきれずに怜依に声をかけるが、怜依は反応を示さない。
 佑真は視線を泳がし、そのまま俯いた。

「なんで、あんなことしたの」

 怜依の声は酷く冷たかった。
 佑真が横を向いても、怜依は前から視線を動かさない。

「あ、あんなことって……?」
「咲乃を階段から落としたんでしょ?」

 佑真のとぼけた言い草に苛立ち、怜依の声からますます抑揚がなくなる。

「ち、違う!」

 佑真が慌てて否定したことで、怜依は佑真を一瞥する。
 この期に及んで否定するなんて。
 そう思ったけど、悪あがきをしているようには見えなかった。

「落としてないんだ、本当に……」

 語尾が萎み、佑真は視線を落とす。

「……でも、僕のせいで咲乃ちゃんが怪我をしたのは、間違いない」

 佑真が、認めた。
 信じたくなかったのに。嘘だって思いたかったのに。

「僕はただ、怜依ちゃんのために」
「私のため?」

 怜依が強い声で遮ると、佑真は肩をビクつかせた。
 怜依を捉える瞳は揺れ動いていて、怜依のほうが悪いことをしているような気にさせられる。
 どうして、まだ被害者のような反応をするんだろう。
 怜依には理解できなかった。
 いろいろな感情が渦巻いて、怜依は佑真を睨む。

「私のために、咲乃に怪我させたの?」
「違う、そうじゃなくて……怜依ちゃんがずっと元気なかったから、咲乃ちゃんが戻ってきてくれたら、また笑ってくれるって思ったんだ。だから、新城くんと別れてって言ったのに、咲乃ちゃんは嫌だって言うから……」

 怜依は、佑真がなにを言っているのかわからなかった。
 いや、わかりたくなかった。
 怜依は咲乃の幸せが最優先だから、自分の欲は押さえ込んでいたけれど。
 もし。
 もし、自分の思うままに、咲乃に新城と別れるように言って、咲乃が頷かなかったら。
 自分が佑真の立場になっていたかもしれない。
 そう思うと、恐ろしくて仕方なかった。

「僕は本当に、咲乃ちゃんが怪我をすればいいなんて思ってなかったんだ」

 佑真の眼は、信じてほしいと訴えている。
 それを信じて、次はなにを願うのだろう。
 許しを乞うつもりだろうか。

「……なんで、ずっと言わなかったの?」
「それは」
「私が気付かなかったら、ずっと黙ってるつもりだった?」

 佑真の言葉を遮った怜依は、佑真を睨む。
 怜依が閉じ込めていた言葉たちは、溢れ出して止まらない。

「気付かれなければ許されるとでも思ってたの? あと、佑真、咲乃のお見舞いに来てたよね? なにを思って、あそこにいたの?」

 矢継ぎ早に言葉を並べていくうちに、怜依の声には、絶対に許さないという思いが入り込んでいった。
 それを感じ取ったのか、佑真は言葉を失っている。

「ねえ、黙ってないでなにか言ってよ、佑真」
「落ち着け、和多瀬」

 新城の声で、怜依は佑真が見えていなかったことに気付いた。
 佑真は今にも泣きそうに顔を歪めている。
 なんで、佑真がそんな表情をするの? それだけは、絶対に違うでしょ?
 怜依の中で、苛立ちは増すばかり。

「病院、着いたから」

 新城に言われて視線を上げると、咲乃が入院している病院が目の前にあった。
 怜依は大きく深呼吸をする。
 こんな気持ちで、咲乃に会いたくない。
 咲乃が目を覚ましたことに、めいいっぱい喜んでいたい。
 だけど、怒りを鎮めることが精一杯だった。