朝の登校は、当然のように別。学校で会っても、気付いているはずなのに、目を逸らされる。
 こんなの、考えなくてもわかる。
 怜依に避けられてるって。
 きっかけは、一緒に帰ったあの日だろう。咲乃が予感した終わりは、当たってしまったらしい。
 怜依との関係が終わった。
 でも、世界は変わらずに時を刻んでいる。
 咲乃が時を戻したいと願っても、止めてほしいと思っても、容赦なく進む。
 自分で蒔いた種なのだから、この結果は受け入れるしかない。
 頭ではわかっているけど、まだ心が受け止めきれない。
 眼前に広がるアスファルトのように、世界から色が消えてしまった気がする。
 隣に怜依がいれば、一気に世界は色付くのに。
 まだそう思ってしまう自分に、呆れてしまう。

「咲乃ちゃん」

 何度目かわからないため息をこぼしたとき、名前を呼ばれた。
 そこにいるのは、真剣な表情をした佑真。
 中学は一緒だったけど、家が近かったとは記憶していない。わざわざ家の近くまで来て、待ち伏せしていたのだろうか。

「おはよ、先輩」

 怜依との交流がある相手だから、咲乃は笑顔を作る。
 さっきまで無表情だったから、ちゃんと白雪咲乃になれているのか、不安になる。

「……おはよう」

 佑真は咲乃と目を合わせない。
 なにかを言いにくそうにしているのは、咲乃にもわかった。
 まさか、怜依になにかあったのだろうか。
 いや、それなら新城が教えてくれるはず。
 だったら、佑真がここにいる理由はなに?

「先輩?」

 咲乃の目を見て、また逸らす。
 思わず急かしたくなる気持ちを、必死に抑えた。

「……新城くんと別れなよ」

 もう夏も終わったというのに、一匹の蝉が懸命に鳴いているのが聞こえてきた。
 それよりも、佑真の声は小さく思えた。
 今、この人はなんて言ったの?

「怜依ちゃんのために、新城くんと別れてほしい。別れないなら、もう怜依ちゃんには近付かないで」

 一度話を始めると、抵抗心はなくなったらしい。
 佑真は真剣な眼をして言う。
 この人は、なにを見ているのだろう。
 怜依ちゃんに近付こうとしても、怜依ちゃんが避けているのが現状なのに。
 きっと、怜依が落ち込んでいる姿しか、目に映っていないのだろう。

「咲乃ちゃんのせいで、怜依ちゃんが苦しんでる」

 一気に、空気が薄くなった気がした。
 ずっと、気付いていながら、目を背けていたのに。
 今、佑真に現実を突きつけられるなんて。

「だから、どっちか選んでほしい」
「随分、勝手な選択肢だな」

 咲乃がなにも言えないでいると、別の声が答えた。
 新城の姿を見て、佑真はしまった、という表情をした。
 新城に面と向かって言う勇気はないらしい。

「……僕、先に行くね」

 佑真が去ると、咲乃は大きく息を吐き出した。
 緊張感からは解放されたはずなのに、上手く息ができている気がしない。

「大丈夫?」

 新城の優しい声に安心し、頷いた。
 だけど、佑真の言葉が頭にこびりついて、消えてくれない。
 自分のせいで、怜依が傷ついている。
 わかってはいたけど、他人に言われると罪悪感に押しつぶされそうになる。

「ねえ、白雪。今日、学校サボろっか」

 唐突な提案に驚き、新城を見ると、新城は楽しそうに笑っている。
 一瞬、咲乃を励ますために、わざと明るくしているように思った。でも、そのいたずらっ子のような顔が、演技には見えなかった。

「まだ暑いし、海でも行く?」

 そんな漫画みたいなことを言われると思っていなくて、咲乃は思わず笑ってしまう。
 前にも、こんなふうに笑わされたことがあったっけ。
 新城と話していると、重たく沈んでいく心が、一瞬で救われる。
 その居心地の良さに、いつまでも甘えていたい。
 ふと新城を見ると、柔らかい目をして咲乃の答えを待っている。
 思い切って甘えて、学校から、佑真から、逃げてしまう。
 それが微塵も悪くないと言われているようで、咲乃はその手を取りたくなった。
 だけど、どうしても怜依の存在が忘れられない。
 言葉を交わすことはなくなっても、毎日、見かける怜依。せめて姿だけでも、という気持ちがお互いに働いているのかもしれない。
 そんな中で、学校に行かなかったら。

「……学校に行かなかったら、怜依ちゃんが心配すると思うので、海はやめておきます」
「そっか」

 新城が背中を向ける間際、少し残念そうに見えたのは、気のせいだろうか。
 風船が萎んでいくように、新城の気持ちも小さくなってしまったような。

『咲乃ちゃんって、いい子だよね』

 あの日の織寧の声が、蘇る。
 すると、織寧の眼と新城の横顔が、重なった。
 私、また失敗した? 相手のことを考えず、“いい子”の選択をしてしまったの?

「先輩、あの……」

 新城の背中にかけた声は、震えていた。
 その表情も、トラウマが過ぎったこともあり、怯えている。
 振り向いた新城と、目が合う。

「そんな顔しないでよ」

 新城の声色を聞いて、怒っていないことはわかった。
 だけど、不安が消えてくれない。

「でも、私……」

 また、誰かの楽しい気持ちを壊してしまった。
 自分の発言がきっかけで空気が凍ってしまう恐ろしさを、知っているのに。
 私はまた、正しいだけの選択をした。
 自分の学習能力の低さに嫌気がさす。

「嫌なことがあっても逃げない。その選択ができたことを、誇るべきだと俺は思うけど。たとえその理由が、和多瀬だとしてもね」

 新城は柔らかく微笑んだ。
 まるで、今のままでいいと言ってもらえたような気分。
 本当に、私は私のままでいいの?
 不穏な空気にならなかったことも、こうして咲乃自身を全部肯定されたことも、嬉しすぎて、言葉にならない。

「でも、本当にいいの? アイツ、また学校でいろいろ言ってくるかもよ?」

 咲乃は佑真の表情、言葉を思い出す。
 たくさん溜め込んで、投げられた思い。
 あれをもう一度ぶつけられるのは、正直怖い。
 だけど、咲乃には大丈夫だと確信できる理由があった。

「……たぶん、大丈夫です。相田先輩も、私と同じだから」

 咲乃と同じで、怜依に嫌われたくないから。
 それだけの理由で、きっと佑真は学校では接触してこない。
 咲乃はそう確信していた。

「……そう。でも、もしなにかあったら、すぐに頼ってね。守るから」

 新城が真剣な眼差しで言うから、それが中途半端な優しさではないのだと感じた。
 私たちは、ニセモノなのに。

「ありがとうございます」

 新城には頼りすぎないようにしよう。
 そう思いながら、咲乃は笑顔を返した。

   ◆

 あの日をきっかけに、佑真から睨まれることが増えた。
 人がいない場所ですれ違えば、まだ別れないの?なんて言ってきて。
 新城には甘えないで解決しようと思っていたけど、徐々に小さなストレスが蓄積されていった。

『別れろって言われた』
『それが正解なんだろうけど、まだ、それは選べない』
『まだ、私は強くなれてない』

 いつものように、SNSに吐き出して、気持ちを整える。
 私のままでいいと言ってくれる先輩と、まだ離れたくない。
 気付けば、そんなふうに思うようになっていた。

「白雪、大丈夫?」

 佑真と会った朝以来、新城は毎日迎えに来てくれるようになった。
 それは、SNSの投稿についてだとすぐにわかった。

「大丈夫ですよ」

 強がりでもなんでもなかった。
 だけど、新城は信じてくれていないのか、心配そうな顔をやめない。

「本当に、大丈夫なんです。私には先輩が、味方がいるんだって思ったら、本当に」
「……そっか」

 新城は納得のいかない様子のまま、そうこぼした。
 どれだけ新城の存在に救われているのか、ちゃんと伝わっていないんだろうな。
 そう思うと、もどかしくて仕方なかった。
 そして校門に近くなると、そこに佑真がいることに気付いた。
 その姿を見ると、新城はすぐに敵意を向ける。それなのに、佑真は怯まない。

「先輩、少し話してきますね」

 新城が引き留めようと手を伸ばす前に、咲乃は新城から離れた。
 そして佑真の後ろをついて行くと、外の非常階段に着いた。
 二人の間に流れる沈黙は重たすぎて、咲乃には話の切り出し方がわからない。

「そろそろ、答えは出た?」

 風が葉を揺らす音が耳に届く。もう、秋がやって来るのだろうか。まだ暑いのに。
 なんて、余計なことを思いながら、佑真の質問の答えを考える。

「僕は、怜依ちゃんにずっと笑っていてほしいんだ。そのためには、咲乃ちゃんがそばにいないとダメなんだよ。わかってるでしょ?」

 そんなの、わかんないよ。
 わからないけど、咲乃の中で答えは決まっている。
 咲乃は、怜依も新城も諦めたくなかった。

「……何度言われたって、私の意思は変わらない」

 咲乃は佑真を睨む。
 予想外の反応だったからか、佑真が動揺したのが見える。

「私は、私の好きな人と過ごしたい。その願いを、先輩に邪魔される筋合いはないから」

 咲乃はそう言い切って、階段を降りていく。
 すると、佑真に左手を掴まれた。
 そんな答え、認めない。
 佑真の瞳はそう言っているようだった。
 穏やかな佑真はもういない。
 咲乃は佑真を恐ろしく思った。

「離して!」

 そして佑真の手を勢いよく振りほどくと、咲乃はバランスを崩した。

「あ……!」

 落ちる。
 咲乃も佑真もそう感じた。
 お互いに手を伸ばすけれど、空を掴んだだけ。
 佑真の絶望したような顔を見ながら、咲乃は思った。

 これは、私が怜依ちゃんを傷つけてきた罰だ。
 ごめんね、怜依ちゃん。

 そして咲乃は意識を失った。