「そんな……」

 新城はその続きを言わない。
 そんな、なんだろう。
 言葉を失ったのだろうか。それとも、そんなことで、と呆れているのだろうか。
 きっと、呆れている。自分でも、こんな話をされれば、似たような反応になるだろうから。
 そんなこと。咲乃が気にしていることは、他人からしてみれば、些細なこと。
 たった一度、悪いように言われただけ。友達に嫌われるのが怖いのは、私が弱いだけ。
 そんなこと、わかってる。
 わかっているけど、どうしようもない。
 誰もが気にしないようなことが、ずっと心に刺さったままで。織寧もきっと、あのときのやり取りを覚えていない。だから、あの翌日、なにもなかったかのように笑顔で挨拶をしてきた。
 それも、咲乃にとっては恐ろしかった。こうして笑っているけれど、いつまた、織寧にあの眼を向けられるのか。それに怯える日々を過ごしていた。
 嫌なら、苦しいなら、離れればいい。
 そう思ったけど、織寧との関係を切ったとして、怜依に尋ねられたとき、上手く説明できる自信がなかった。
 だから、どう接するのが正しいのかわからないのに、未だに織寧から離れることができない。
 織寧から“咲乃ちゃん”と呼ばれなくなったことに気付きながらも、ただ近くにいる。
 居心地は悪い。でも、怜依に怪しまれないようにするために、踏み込めない相手と友達のフリをする。
 これもきっと、新城には理解されないだろう。
 言ったところで、もう一度軽い言葉で片付けられてしまう。わかったフリをして、諭される。
 これなら、言わなきゃよかった。
 咲乃は新城の言葉に甘えたことを、後悔した。

「……大したことないのに、相談しちゃってごめんなさい。このことは、忘れてください」

 もう、この場から逃げてしまいたかった。
 だけど、新城の眼は逃がしてくれそうにない。心配しているのか、哀れんでいるのかわからないけれど、すべてを見透かすような瞳を向けられ、居心地が悪い。

「俺が忘れたら、どうなるの」
「どうって、別に……SNSの鍵アカで壁打ちみたいに本音を言うだけです」

 新城の顔は、同情しているように見えた。
 私を、可哀想だと思っている?
 だとしたら、ますます忘れてほしい。決して、哀れんでほしいわけではない。

「和多瀬に嫌われないように気を張って、また、今日みたいに限界まで我慢するの?」
「それは……」

 言い返せなかった。
 でも、わかったように言われて、ムカついた。

「俺に吐き出せば?」
「え……?」

 そんなこと辞めなよ、ムダだよって言われるのだと思っていたから、間抜けな声が出た。
 咲乃が困惑しているのに、新城はスマホを取り出して、操作している。

「一人で抱えるから、爆発するんだよ。だったら、誰かと共有すればいい」

 新城が言っていることが正しいとして。
 なぜ、新城がその役を申し出たのか。
 咲乃はそれがわからなかった。

「といっても、急に他人に言うのは難しいだろうから、まずはそのアカを教えて?」

 新城の柔らかい声に、自然と従っている自分がいた。
 教えても大丈夫だと判断したのはきっと、この人は否定してこないだろうという、漠然とした信頼感があったからだろう。

「……どうして、先輩はここまでしてくれるんですか?」

 新城からのフォローリクエストを許可しながら、尋ねる。

「んー……君が、姉と重なったから、かな」

 スマホから顔を上げると、新城は咲乃を見ていた。だけど、目が合っているように感じない。新城が、咲乃を通して誰かを見ているような気がした。
 新城を紳士な男に育てたであろう、新城の姉。
 話を聞いたとき、強い女性をイメージした。
 そんな彼女が、弱さの塊である自分と重なるなんて、ありえない。

「……姉は、恋人に依存気味だったらしくてさ。彼氏と別れてから、心を壊しちゃったんだよね」

 新城は話しにくそうにしながらも、教えてくれた。それだけ、咲乃の顔に気になって仕方ないと書いてあったからだ。
 咲乃は話させてしまったことに対して申し訳なく思いつつ、自分もその結末を迎える予感がして、恐ろしく思った。
 どんな言葉を返せばいい?
 悩んでいる間に、沈黙が流れる。

「まあ、そんなわけで、また誰かが自分を見失ってしまうのは見たくないなって思ったんだ。俺のエゴに付き合わせて、ごめんね?」

 咲乃は首を横に振ることしかできない。

「……あ」

 まだ言葉に迷っていたら、新城がなにかを思い出したような声を漏らした。
 その表情は、悪いことを考えているように見える。

「俺が急に君と関わるようになったら、和多瀬、怒るかな」

 心配ではなく、イタズラな顔。
 新城が楽しそうにするから、重く捉えているのがバカバカしく思えてくる。

「絶対、怒ると思います。だって、怜依ちゃんは先輩のこと」

 嫌いだから。
 それを正直に言っていいわけがないと、直前になって気付いた。
 でも、笑っているところを見るに、新城はそれに気付いているのだと思った。

「いっそのこと、付き合ってるフリしてみる?」
「え……」
「試してみようよ。和多瀬がどんな反応をするのか」

 そんなの、試さなくてもわかる。絶対嫌がるに決まっている。嫌がって、今度こそ嫌われて、離れていく。
 それがわかっていて、新城の提案に乗ることなんてできない。

「あとはまあ、和多瀬から卒業する練習」

 それを言うとき、新城は少しだけ真剣な眼をした。
 どうやら、全部おふざけで言っていたわけではないらしい。
 怜依から卒業。そんなの、永遠にできなくていい。
 だけど、このまま偽り続けていたら、そのうち限界が来て、新城が言う通り、壊れてしまうかもしれない。
 それも、怖かった。

「……でも私、先輩のこと好きなフリなんてできませんよ」
「そんなの簡単だよ。俺を和多瀬だと思えばいい。和多瀬に甘えるみたいに、俺に甘えてみ?」

 本当に、いいのかな。だって、怜依ちゃんに甘えるみたいにって、私、迷惑かけるかもしれない。そしたら、新城先輩だって嫌になって、離れていくでしょう?
 咲乃が不安に飲み込まれそうになっていると、新城はそっと咲乃の手を握った。新城の大きな手は、咲乃の手を包み込み、その温もりに安心した。

「大丈夫。俺は、君が要らないって言うまで、絶対に離れないよ」

 新城の言葉は強かった。
 それをまるごと信じてしまうほど、純粋ではない。だけど、信じたいと思った。

「……お願い、します」
「うん。よろしくね、白雪」

 新城は優しく微笑んだ。
 最初に“咲乃ちゃん”と呼んでいたはずなのに、今は苗字。
 これが、新城なりの距離の取り方だろうか。必要以上に近寄らない、という。
 これが新城の罠でも、選んだのは私なんだと思う覚悟ができていただけに、肩透かしを食らった気分だ。
 もしかすると、新城は怜依が言うほど、遊んでいないのかもしれない。
 新城に包まれた自分の手を見つめながら、そんなことを思った。