容赦ない蝉時雨。
 日傘を差していても、体感温度が変わらない。こんな中歩くなんて、バカな選択をした。
 咲乃は、図書館を離れたことを後悔しながら、足を進める。
 駅の前を通りかかったとき、自販機を見つけて、駅に立ち寄った。
 水を買ってベンチに座ると、水を飲む。
 今年何度目かの、生き返るという感覚。去年よりも暑い夏は、嫌になってしまう。
 でも、去年よりは怜依とたくさん過ごすことができて、満足だ。
 スマホに残された怜依との思い出を見返す咲乃は、笑みを零す。
 カフェ巡り、夏祭り、花火、海。
 怜依は写真が苦手だけど、一緒であれば、写真を撮らせてくれる。だから、怜依の写真には、いつも自分が写っている。
 ぎこちない笑みを浮かべる怜依と、幸せそうに笑う自分。
 なんだか、スマホにしか幸せな時間が存在していないような気がしてきて、咲乃は自分の姿が消えるように、写真を拡大した。
 ずっと、怜依の笑顔だけが見ていたい。独り占めしていたい。
 そう思うのは、さっき、図書館で佑真と会い、怜依が佑真を優先したからだろう。
 同じ学年でなければわからない話があるのは、わかっている。だけど、自分といながら、知らない話をされるのは、面白くなかった。
 だから、用があるなんて嘘をついて、逃げてきた。
 私だけの、怜依ちゃんなのに。
 画面の仲の怜依を見つめながら、そんなことを思った自分を、恐ろしく感じた。

「ねね、君、ヒマ?」

 すると、見知らぬ男が二人、咲乃に声をかけた。
 咲乃は戸惑いの表情を浮かべて、二人を見る。

「これからカラオケ行くんだけどさ、一緒にどう?」

 彼らは少し年上に見える。前に立たれてしまい、逃げ場がない。
 こんなことになるなら、休憩しなければよかった。いや、逃げてこなければよかった。

「俺たちの奢りだし、遠慮しなくていいよ」
「ほら」

 男たちは咲乃の困惑など気にする様子を見せず、強引に手を伸ばした。
 咄嗟に手を引っ込めるけど、一人が咲乃の手首を掴む。抵抗してみても、男の力に敵うはずもなく、咲乃は無理矢理立たされる。

「あの、私、行かない……」

 咲乃が言っても、彼らは聞く耳を持たない。
 嫌だ、怖い、助けて。
 そう思っているのに、声が上手く出ない。
 進まないように足を踏ん張るも、引っ張られてしまっては、嫌でも足が前に出てしまう。
 助けて、怜依ちゃん。

「……なんだよ」

 そのとき、男が足を止めた。
 咲乃ではない、誰かに声をかけたらしい。
 誰がそこにいるのか、確かめようにも、彼らの背中が大きいせいで見えない。

「その子、嫌がってるように見えるけど」

 新たな男の声に、咲乃はますます怯えてしまう。
 今日は怜依といたのに、厄日だ。ほんの少し前の、癒しの時間に戻してほしい。

「お前には関係ないだろ」
「ヒーロー気取りかよ」

 男たちは、鼻で笑う。
 咲乃は少しだけ移動して、声をかけてきた人物を確認する。
 男越しに、目が合った。
 その綺麗な銀髪は、見たことがある。
 どこで見たんだっけ。

「……咲乃?」

 名前を呼ばれて、肩が跳ねる。
 やっぱり、この人と会ったことがあるんだ。
 でも、どこで? 私は、どこで銀髪のイケメンさんと出会ったの?
 その答えは気になったけど、それを知るよりも、彼らから逃げるほうが先だ。
 男の力が緩んでいる隙に、咲乃は彼の元に逃げる。彼の背中に隠れて、男たちと距離をとる。
 すると、男たちの舌打ちが聞こえた。

「なんだよ、男連れかよ」
「つまんねえの」

 案外あっさりと、男たちは去っていった。
 恐怖から解放されたことで、咲乃は大きく息を吐き出す。

「今日は一人? 和多瀬は?」

 彼は振り向いて言った。
 どうして、怜依の名前を知ってるのだろうと思うと同時に、咲乃は思い出した。
 この人が、怜依のクラスにいたことを。
 名前は確か、女の子たちがたくさん呼んでいた。

「……新城、隼人先輩」
「意外だな、俺の名前知ってたの?」

 前に、怜依が新城の周りで騒ぐ女子たちを睨んで、文句を言っていたから。
 なんて、本人に言えるはずもなく。
 咲乃は小さく頷いた。

「それで、いい子の咲乃ちゃんはこんなところでなにをしてたの?」

 いい子。
 いつもなら笑って流しているその言葉が、流せなかった。
 どうして、笑顔が作れない?
 はやく、ちゃんと応えないと変に思われる。
 怜依と同じクラスのこの人に気付かれたら、全部怜依にバレてしまう。
 そうやって焦るほど、上手く取り繕えなくなっていった。

「どした、大丈夫?」

 咲乃よりも背が高い新城は、心配そうに覗き込んでくる。綺麗な銀髪が揺れ動き、新城と目が合った。
 こんな優しい眼差しを、怜依以外から向けられたのは、いつぶりだろう。
 そのせいか、大丈夫じゃないと認めてしまい、視界が滲んだ。

「ちょ、え?」

 新城が戸惑いの声を出したことで、咲乃は自分が泣いていることに気付いた。
 止めようと思えば思うほど、涙が溢れ出る。

「……ごめんね」

 新城は小さな声で呟くと、咲乃の手を引いた。
 さっきと同様に手を引っ張られているのに、不思議と嫌な感じはしない。
 新城に連れてこられたのは、駅の目の前にある、オブジェの傍に設置されたベンチ。
 人目につくけれど、滅多に人が座らないような場所だ。
 咲乃が泣いた理由が気になるはずなのに、新城は黙って隣にいる。

「……聞かないんですか」
「ん? 話したいなら、聞くよ」

 新城の声は優しかった。
 どうして怜依は、新城のことを嫌っていたのだろう。
 怜依のことがわからなくなるほどに、その優しさは暖かかった。

「どうして、そんなに優しいんですか?」
「……笑わない?」

 少し恥ずかしそうにする新城を見て、咲乃は頷いた。

「俺、姉がいてさ。弱ってる女の子に優しくできない男はクソだって教え込まれたんだよね」

 学校ではたくさんの女子に囲まれ、騒がれているイケメンの裏側。
 それはあまりにも可愛らしくて、咲乃は思わず笑ってしまった。

「笑わないでって言ったのに」

 不服そうにする新城に、ますます笑ってしまう。
 だけど、次に気付いたときには、新城は柔らかく微笑んでいた。
 女子にもてはやされるだけあって、その破壊力は計り知れない。咲乃は、思わず目を逸らす。

「今の、誰にもヒミツね。特に和多瀬。アイツに知られたら、殺されそうだし」

 新城は立ち上がりながら言った。
 一人になることに対して不安を抱くが、新城を引き留めていいのか、迷った。
 迷惑かもしれない。そもそも、引き留めてどうする?
 でも、この人は話を聞いてくれるって。
 咲乃が迷っていると、新城が振り向いた。
 目が合ったことで、考えていることがすべて新城に伝わってしまったような気がした。
 そして、新城の優しさに甘えたくなってしまった。
 改めて新城を見ると、新城は「ん?」と柔らかい表情を浮かべる。

「……先輩は、いい子って褒め言葉だと思いますか?」
「まあ……普通はそうでしょ。違うの?」

 咲乃の質問に答えながら、また座った。
 やっぱりこの人は、ちゃんと話を聞いてくれる。
 それに安心して、咲乃は続きを話していく。

「昔は、嬉しかったんです。怜依ちゃんにいい子だねって言われるのが。それが自信にもなっていました。でも……」

 思い出すのは、小学六年生のときのこと。
 怜依が卒業した学校でも、上手くやっていけると思っていた。
 だけど、実際は違った。
 織寧がシャーペンをこっそり持ってきたときのこと。

『シャーペンは持ってきちゃダメなんだよ』

 正義感の塊のような存在になっていた咲乃は、当然のごとく指摘した。
 その途端、織寧の表情が歪んだ。

『……咲乃ちゃんって、いい子だよね』

 怜依にたくさん言われた言葉と同じもの。
 そのはずなのに、織寧の表情は咲乃を拒絶していたことで、それが褒め言葉として言われたのではないのだと感じた。
 自分は間違っていないのに、間違っているようにされてしまう空気感。
 あれは、今でも忘れられない。

「……いい子でいることが、常にいいこととは限らない」

 今なら、自分が楽しい空気に水を差したんだとわかる。
 たしかに、咲乃は正しかった。だけど、伝え方が正しかったとは思えない。
 だから、あのときの自分は間違っていたんだと、今でも思う。

「じゃあ、いい子って言われるのは嫌なんだ?」
「……怜依ちゃんに言われるのは、嫌じゃないです。怜依ちゃんは、褒め言葉として使ってくれるから」

 そう語る咲乃は、浮かない顔をしている。
 言葉と表情が、まるで合っていない。

「でも、いつ、手のひら返しをされるのか、わからなくて。私は、それが怖いんです」

 かつて、仲良くしていた織寧に、拒絶の眼を向けられたように。
 怜依も、咲乃を拒絶するかもしれない。
 いつか、その日が来るかもしれない。
 何度、怜依に好きだと言われても、その不安が拭えなかった。

「和多瀬が君を嫌うなんて、ありえないと思うけど」

 他人の言葉なんて、信用できない。
 だけど、勝手に頼って、否定するなんてできなくて、咲乃は曖昧な相槌を打つ。

「……怜依ちゃんは、いつも、なんでも笑って許してくれるんです。だから私、試すようなことばっかりしちゃって」

 どこまでだったら、許してくれる? これは? こんなことしたら、嫌いになる?
 そうやって、怜依に嫌われるラインを探している。
 そんな自分が、ずっと嫌いだ。

「私が怜依ちゃんに嫌われたのは、いっぱい、怜依ちゃんに迷惑をかけたからなんだって、理由がほしくて」

 それでも、怜依はまだ、咲乃を嫌っていない。
 ときどき佑真を優先することもあるけど、なによりも自分を優先してくれる。
 そのことに優越感を覚えている自分もまた、嫌いだった。

「随分……自分のことが嫌いなんだね」
「……嫌いですよ。怜依ちゃんが好きだって言ってくれる白雪咲乃を演じるようになったときから。自分のことなんて、大嫌い」

 咲乃の強い瞳で、遠くを見つめる。
 新城はその横顔から目が離せない。