先輩は契約書は諦めて、ムスッとした顔でキッチンの方に行ってしまった。その後を追って、俺もキッチンに面したカウンターの椅子に座る。契約書は大事に制服の内ポケットに入れた。あとで額縁に入れて部屋に飾ろうと思う。
「先輩、作り方とか口に出しながら作ってもらって良いですか?」
紺色のシンプルなエプロンと着けて、星柄の買い物バッグから食材を取り出していく先輩に向かって俺は言った。
「はあ? なんでだよ?」
「先輩が来なくなったときに、もしかしたら一人で料理することになるかもしれないので。まあ、俺、不器用なんで出来るか分からないですけど」
まあ、そんなことにはなってほしくないんだけど、という思いで、はぁ……と俺が溜息を吐くと、先輩は一瞬悩んだように顰めっ面で口をきゅっと結んだ。
「先輩?」
「まず、材料を用意する。今日は鶏肉の生姜焼きを一人で作って食おうとしてたから、これも使っていく。それにプラスして豚肉も買えたから豚肉の生姜焼きも作る。俺は自分がつまらんものは作らない。野菜もちゃんと食わす。最初に米を炊く」
面倒臭そうな顔をしながらも先輩は説明を始めた。説明はそんなに上手じゃないが、その手は生米をザルに入れて洗い、気が付いたときにはすでに炊飯器にセットしていた。手際が凄く良い。
「それで次……」
次いで先輩が取り出したのは緑の……
ブロッコリーだった。
「ブロッコリーを一口大より少し小さく切っていく。そんで塩入れたお湯で茹でる。レンジでチンしても良いんだけど、それだと芯が残る可能性があるから、俺は茹でる」
小さな木みたいな立派なブロッコリーを先輩は言った通りにカットして、沸かしたお湯で茹でた。途中で堅さをチェックして、それをザルに開けて、今度はボウルに移していく。
「ここにゴマ油とゴマと塩昆布入れて混ぜる。それだけ。多分、七味とか、辛いの入れても上手いと思う」
「へぇ、めっちゃ良い匂いしますね!」
「でも、これはあとで使う。肉焼く」
出来上がったものを取り敢えず、横に置いて、先輩は鶏肉と豚肉を取り出した。
「焼く前に無駄な肉の油をペーパーで取るといい。そうするとカリッとなる。あと、玉葱を切る。細く、太くなり過ぎないように」
そう言いながら先輩は玉葱を切り、フライパンに油を入れて、それを炒め始めた。
「あんまり炒めると玉葱焦げるから。でも、炒めなさ過ぎるとジャキジャキになる。良い感じに炒まったら、こっち側で鶏肉、こっち側で豚肉を焼いていく。じっくり焼く」
フライパンの中は玉ねぎ、鶏肉、豚肉の三フィールドに別れている。先輩の手元をじっと見つめているとパチパチと油が跳ねる音が聞こえてきた。
「で、ここに家庭科室で作ったタレをぶっかける」
「え、いや、内容は?」
「めんどうくせぇな、おろししょうが、しょうゆ、酒、みりん、砂糖。本当はそのままぶっかけるんだけど、俺は薄まるの嫌だから、さっき少し煮詰めておいたの」
――なるほど、美味しい生姜焼きには、少しのめんどうくせぇな、が必要なのか。
感心していると、どうやら早くも生姜焼きが完成したようだった。学校の廊下に漂っていたあの良い香りがした。甘い香りの中に香ばしさがあるような、そんな香り。
「さ、食え」
生姜焼きを二枚の四角い皿に盛り付けて、茶碗にご飯を盛った先輩が俺の前にそれを置いた。俺は思わず目を丸くして固まってしまった。だって……
「待ってください、先輩。ブロッコリーで米が見えないんですけど……」
ご飯の上一面が雪景色ならぬブロッコリー景色だったからだ。
「まず、野菜を食え。お前、多分、今まで野菜あんまり食ってこなかっただろ? ブロッコリーにはビタミンとかすごい含まれてて、よく筋トレしてるやつが食いまくってるって知らないか?」
カウンターの向こう側から先輩が得意げに言う。もしかして……
「先輩、マッチョが好きなんですか? ……筋トレしようかな……俺……」
先輩がマッチョが好きと言うのならば、腹筋ローラー買って鍛えよう。
「そういうことじゃない! とにかく黙って食え!」
俺の手元を勢い良く指差して、先輩は言った。
「いただきます!」
たしかに冷めたら申し訳ない。先輩と同じ熱量でいただきますの挨拶をして、俺はブロッコリーご飯を口に運んだ。
「え、うっま! ブロッコリーって、こんな美味いんですね!」
「意外だろ? 白米に合うなんて」
うんうんと満足そうに頷いて先輩は珍しく嬉しそうな顔をしていた。
――先輩、こんな顔も出来るんだ……。
「米のおかわりもらって良いですか?」
「そう言うと思ってこっち側にまだ居たんだよ。次は自分で盛れよ?」
「はい!」
先輩はやれやれといった様子で、それでも俺の茶碗に米を盛ってくれた。
「ほらよ」
「ありがとうございます」
茶碗を受け取り、次のターゲットに視線を移す。一回目はブロッコリーで米を消費して、二回目はこのカリカリに焼けた生姜焼きで……。
「うっま!! え、こんな美味い肉、初めて食ったんですけど!」
――カリカリでジューシーな肉なんて反則だ! 味付けも少し濃いめで美味い!
「大袈裟過ぎだろ、こんなん誰だって作れるって」
先輩は「馬鹿じゃねぇの」と言いたそうな顔で俺の隣の椅子に腰を下ろした。そんな先輩の方をくるっと見て、俺は彼の両手を取った。
「いや、そんなことないです! 美味いです! めちゃくちゃ美味いです! 俺の鼻に狂いはなかったです! 先輩、け……っこう、器用なんですね!」
――あぶない、勢いで結婚してくださいって言いそうになった。
「……っ、不器用なお前に言われたくねぇわ」
困惑した様子で先輩は俺の両手をそっと振り解いた。そして「俺も食うから」と冷静に言われ、それもそうだな、と生姜焼きに戻る俺。
暫く黙々と夕飯を食べて、先輩は自分が食べ終わると俺の皿と一緒に洗い物をし始めた。
「先輩の妹さんと弟さんたち、いくつなんですか?」
「妹が三人、弟が二人居て、みんな小学生だ」
カウンター越しに尋ねてみると、案外簡単に答えてくれた。もう皿洗いは終えていて、何やらまた料理をしている。目玉焼きとハムを一緒に焼いているようだ。
「いいですね、家族がたくさん居るって。寂しくなくて。俺の親なんて――」
「お前さ、親に愛されてないとか思ってないか?」
「え?」
急に言われて、俺は先輩の手元から彼の顔に視線を移した。やけに真っ直ぐな瞳が俺を見ていた。
「お前、愛されてないわけじゃないと思うよ。だって、毎朝テーブルに金が置いてあるってことは、金持ちなのにホテルとかに泊まらずに、睡眠時間削ってでも、わざわざ毎晩家に帰ってきてくれてるってことだろ?」
「あ……」
たしかにそうだ、と思った。俺はずっと勘違いをしていた。先輩に言われて初めて……。
「じゃあ、俺帰るわ。明日の朝ご飯、作って冷蔵庫に入れておいたから、レンチンして食え」
「あ、先輩!」
忘れていたことを思い出して、帰り支度を終えた先輩を呼び止める。
「今日のお金」
俺は自分の財布から、さっき買い物したときに出たお釣りのお札と小銭を先輩に差し出した。
「そのままかよ。なんか封筒とか……」
「そのままだと、なんか悪いことしてるみたいですよね」
受け取らずに文句を言う先輩にへへっと笑い掛けると彼は「馬鹿か、なんか袋に入れろよな」と、さらに文句を言ってきた。呆れたように言う顔も嫌いじゃない。
「今、結婚式用のしかないんで、次、用意しておきます」
俺がそう言うと金色の飾りの付いたご祝儀袋を想像したのだろう、先輩はすごく嫌そうな顔をして、俺の手から渋々お金を受け取った。そして、お金を自分の財布に仕舞って、玄関の方に歩いていく。
「先輩、送っていきますよ」
「なんで男が男を送るんだよ? 来んな」
立ったまま靴を履く先輩の背中に声を掛けると、鋭い目つきで振り返られた。そんなに嫌なのだろうか? まあ、今日は初めて会った日だし、素直に諦めよう。先輩は可愛いから誰かに襲われないか少し心配だけど。
「じゃあ、今日はやめておきます。お気を付けて。ありがとうございました」
「今後も、だ。じゃあな」
顰めっ面をしながらも雰囲気だけは颯爽と先輩は去っていった。
――先輩、自分が可愛いって自覚ないのかな……? というか、やっぱり先輩良いな。顔も好きだけど、内面も最高過ぎるだろ。俺のこと、好きになってくれないかな……。取り敢えず、腹筋ローラー買おう。
玄関の扉の前に立ったまま、スマホで腹筋ローラーをポチる俺であった――。