少しだけ開かれた窓から、ふんわりと穏やかな優しい風が吹きこんでくる。新緑の香りを含んだ風によって昼寝から起こされたのか、三毛猫は一度だけ伸びをした後、出窓から飛び下りた。長い時間を日当たりの良い窓際で過ごしていたせいで、三色の毛はほかほかと温かい。
トトトと軽快な足取りで階段を下っていくと、慣れた手付きでリビングの窓に前脚をかける。鍵が掛かっていないガラス窓は、音も無くゆっくりと開く。丸い頭一つ分の隙間が作れたら十分で、そこからするりと顔を出す。通り抜ける際に少しばかりお腹がつっかえた感じもするが、問題なし。腹肉でさらに押し広げつつ家の外へと出ていく。
「あら、これからお散歩にいくの?」
「ナァー」
生垣を抜けて隣家の庭に顔を出した途端、庭先で草むしりをしていたお隣さんに出くわして声をかけられた。それに対しては愛想よく返事を返す。ぴんと伸ばされた白色の長い尻尾と小さなお尻を見送りながら、老女はふふふと笑みを漏らした。
「よそのお家で迷惑かけたらダメよー」
散歩コースになっているのだろう、毎日のように庭を通過していく三毛猫とは完全に顔馴染みだった。人懐っこい子だけれど、誰にでも撫でさせてくれるわけではない。夫の在宅時には見かけないところを見ると、彼のことは多少なりとも警戒しているのかもしれない。
飼い猫を外に出すのはあまり良くないのは知っているが、特に悪さされたことも無いので苦情を言うつもりはなかった。よく言われるような糞害も今のところは一度も無い。聞いたところ、家にある猫用トイレでないとダメな子らしい。猫は猫なりにこだわりでもあるのだろうか。
猫の軽やかな足取りを羨ましく思いながら、草むしりで曲げ続けていた腰を大きく伸ばす。
「イタタッ……ミケちゃんは今日もご機嫌でいいわねぇ」
生垣を潜り、ブロック塀の上を伝い歩き、猫は通い慣れたルートをのんびりと歩いていた。突き出た木の枝に頬毛を擦り寄らせたり、立ち止まって空を眺めたりと、興味が引かれれば寄り道もする。鎖に繋がれて騒がしく吠えたててくる犬には見向きもせず、自分のペースを貫き通す。
ふと髭先で雨の気配を感じたのか、三毛猫は足早に最初の目的地に向かって走り始めた。木造の一軒家に辿り着くと、ぐるりと裏手に回ってからドアの前で一鳴きする。
「ナァー」
「あら、ミーコ、いらっしゃい」
パタパタとスリッパの足音が聞こえたかと思うと、すぐにドアの向こうからスウェットにエプロンを身に付けた中年の女性が顔を出した。その足元にするりと擦り寄りながら、三毛猫は家の中へと躊躇いなく入っていく。まるで自分の家であるかのように。
「ミーコ、こないだ三丁目にいたけど、いつもあんな遠いところまで行ってるの?」
ドアを後ろ手で閉めながら、加納幸恵は居間の方へ向かう猫に問いかける。「ナァー」という返事の意味はさっぱり分からない。朝から点けっぱなしになっているテレビからは、情報番組が熱い議論を繰り広げていた。毎日似たような話題で、ネタが尽きないのが不思議だ。
「……熟年離婚、ねぇ」
マスコミに引っ張りだこな弁護士が離婚後の財産分与について、シビアに説明している。預貯金の分割だけでなく、今後に支払われる年金の取り分など、細かい話に聞いているこっちまで頭が痛くなってくる。けれど、全く他人事という訳でもなくて、猫を膝に乗せて撫でながらも耳だけはテレビの音声を拾い続けていた。
一回り年上の夫と出会ってから、もう三十年近くが経つ。二人いる子供達もそれぞれに家庭をもつようになり、完全に夫婦だけの生活になったのは昨年のこと。日中に一人きりなのは変わらないけれど、夜に夫が帰って来た後もただ黙ってテレビと向かいあっているだけの生活だった。
無口で物静かな夫のことを、年上で落ち着いている人だと良い方に解釈できていたのはいつまでだろうか。何を考えているのかも分からないし、一緒にいても息が詰まりそうになる。
ああ、昨日もまた誰とも会話しない一日だったなぁと、溜め息を吐きながらゴミ出しに外へ出た時、丁度家の前を通り過ぎていく三毛猫を見つけた。
「あら、猫さん、こんにちわ」
思わず声を掛けてしまい、周囲に他に誰もいないことを慌てて確認した。猫に話し掛ける変なおばさんだと、笑い者になったら堪らない。幸いなことに、同じ時間にゴミ出しに出てくるご近所さんは見当たらなかった。
「ナァー」
声を掛けられた猫は足を止めてから幸恵の顔を見上げると、足元に擦り寄ってきた。フワフワの毛が素足に触れて、少しくすぐったい。そして、人懐っこくて毛並みの良い三毛猫は、ゴミを出して家に戻ろうとする幸恵の後を当たり前のように付いてきた。
しばらくは庭先で猫を構ってやりながら、顔を合わせた近所の人に「この猫、どこの子か知ってる?」と聞いてみる。でも、知ってる人は誰もいなかった。
――この辺りの子じゃないのかしら?
その日だけ、たまたま通りがかっただけ。そう思っていた猫は、それから頻繁に幸恵の家に顔を出すようになった。幸恵がいつもいる居間から近い裏口のドアの前で鳴いては、図々しくも家の中まで上がり込んでいくのだ。
勝手にミーコと名付けて呼ぶようになった猫は、一人で過ごすことの多い幸恵にとって良い話し相手になってくれていた。絶妙なタイミングで鳴いて返事してくれるから、話し掛け甲斐があった。
けれど、その生活ももうすぐ終わってしまう。明日付けで、夫の和彦は定年退職をする。つまり、これからは朝から晩まで夫が家にいるのだ。
――ハァ、息が詰まりそうだわ……。
トトトと軽快な足取りで階段を下っていくと、慣れた手付きでリビングの窓に前脚をかける。鍵が掛かっていないガラス窓は、音も無くゆっくりと開く。丸い頭一つ分の隙間が作れたら十分で、そこからするりと顔を出す。通り抜ける際に少しばかりお腹がつっかえた感じもするが、問題なし。腹肉でさらに押し広げつつ家の外へと出ていく。
「あら、これからお散歩にいくの?」
「ナァー」
生垣を抜けて隣家の庭に顔を出した途端、庭先で草むしりをしていたお隣さんに出くわして声をかけられた。それに対しては愛想よく返事を返す。ぴんと伸ばされた白色の長い尻尾と小さなお尻を見送りながら、老女はふふふと笑みを漏らした。
「よそのお家で迷惑かけたらダメよー」
散歩コースになっているのだろう、毎日のように庭を通過していく三毛猫とは完全に顔馴染みだった。人懐っこい子だけれど、誰にでも撫でさせてくれるわけではない。夫の在宅時には見かけないところを見ると、彼のことは多少なりとも警戒しているのかもしれない。
飼い猫を外に出すのはあまり良くないのは知っているが、特に悪さされたことも無いので苦情を言うつもりはなかった。よく言われるような糞害も今のところは一度も無い。聞いたところ、家にある猫用トイレでないとダメな子らしい。猫は猫なりにこだわりでもあるのだろうか。
猫の軽やかな足取りを羨ましく思いながら、草むしりで曲げ続けていた腰を大きく伸ばす。
「イタタッ……ミケちゃんは今日もご機嫌でいいわねぇ」
生垣を潜り、ブロック塀の上を伝い歩き、猫は通い慣れたルートをのんびりと歩いていた。突き出た木の枝に頬毛を擦り寄らせたり、立ち止まって空を眺めたりと、興味が引かれれば寄り道もする。鎖に繋がれて騒がしく吠えたててくる犬には見向きもせず、自分のペースを貫き通す。
ふと髭先で雨の気配を感じたのか、三毛猫は足早に最初の目的地に向かって走り始めた。木造の一軒家に辿り着くと、ぐるりと裏手に回ってからドアの前で一鳴きする。
「ナァー」
「あら、ミーコ、いらっしゃい」
パタパタとスリッパの足音が聞こえたかと思うと、すぐにドアの向こうからスウェットにエプロンを身に付けた中年の女性が顔を出した。その足元にするりと擦り寄りながら、三毛猫は家の中へと躊躇いなく入っていく。まるで自分の家であるかのように。
「ミーコ、こないだ三丁目にいたけど、いつもあんな遠いところまで行ってるの?」
ドアを後ろ手で閉めながら、加納幸恵は居間の方へ向かう猫に問いかける。「ナァー」という返事の意味はさっぱり分からない。朝から点けっぱなしになっているテレビからは、情報番組が熱い議論を繰り広げていた。毎日似たような話題で、ネタが尽きないのが不思議だ。
「……熟年離婚、ねぇ」
マスコミに引っ張りだこな弁護士が離婚後の財産分与について、シビアに説明している。預貯金の分割だけでなく、今後に支払われる年金の取り分など、細かい話に聞いているこっちまで頭が痛くなってくる。けれど、全く他人事という訳でもなくて、猫を膝に乗せて撫でながらも耳だけはテレビの音声を拾い続けていた。
一回り年上の夫と出会ってから、もう三十年近くが経つ。二人いる子供達もそれぞれに家庭をもつようになり、完全に夫婦だけの生活になったのは昨年のこと。日中に一人きりなのは変わらないけれど、夜に夫が帰って来た後もただ黙ってテレビと向かいあっているだけの生活だった。
無口で物静かな夫のことを、年上で落ち着いている人だと良い方に解釈できていたのはいつまでだろうか。何を考えているのかも分からないし、一緒にいても息が詰まりそうになる。
ああ、昨日もまた誰とも会話しない一日だったなぁと、溜め息を吐きながらゴミ出しに外へ出た時、丁度家の前を通り過ぎていく三毛猫を見つけた。
「あら、猫さん、こんにちわ」
思わず声を掛けてしまい、周囲に他に誰もいないことを慌てて確認した。猫に話し掛ける変なおばさんだと、笑い者になったら堪らない。幸いなことに、同じ時間にゴミ出しに出てくるご近所さんは見当たらなかった。
「ナァー」
声を掛けられた猫は足を止めてから幸恵の顔を見上げると、足元に擦り寄ってきた。フワフワの毛が素足に触れて、少しくすぐったい。そして、人懐っこくて毛並みの良い三毛猫は、ゴミを出して家に戻ろうとする幸恵の後を当たり前のように付いてきた。
しばらくは庭先で猫を構ってやりながら、顔を合わせた近所の人に「この猫、どこの子か知ってる?」と聞いてみる。でも、知ってる人は誰もいなかった。
――この辺りの子じゃないのかしら?
その日だけ、たまたま通りがかっただけ。そう思っていた猫は、それから頻繁に幸恵の家に顔を出すようになった。幸恵がいつもいる居間から近い裏口のドアの前で鳴いては、図々しくも家の中まで上がり込んでいくのだ。
勝手にミーコと名付けて呼ぶようになった猫は、一人で過ごすことの多い幸恵にとって良い話し相手になってくれていた。絶妙なタイミングで鳴いて返事してくれるから、話し掛け甲斐があった。
けれど、その生活ももうすぐ終わってしまう。明日付けで、夫の和彦は定年退職をする。つまり、これからは朝から晩まで夫が家にいるのだ。
――ハァ、息が詰まりそうだわ……。