「じゃあ、お母さん、行ってくるね」
「ええ、気を付けて」

 家の前に停められていた車に乗り込んだ一人娘を、亜紀は手を振って見送る。娘越しに、娘の婚約者が運転席から頭を下げたのが見え、こちらも会釈を返して声を掛ける。

「幸彦さん、千佳をよろしくね」

 走り去っていく車がウインカーを出して角を曲がって行くのを、小さな建売住宅の前に立って一人で見守っていた。車体が完全に見えなくなったのを確認した後、ふぅっと安堵の溜め息が自然と漏れ出た。

「やっと、ね……」

 今日は娘の千佳が学生の頃からお付き合いしていたという彼氏と、めでたく入籍する日。二人はこれから市役所へ婚姻届を出しに行き、そのまま新居となるマンションで家族としての新しい生活が始まるのだ。
 一昨日の夜に婚姻届けの保証人欄に署名し、昨夕は娘と二人きりの最後の晩餐。三年前に亡くなった夫は、リビングの隅に置いている小さな仏壇に飾られた写真の中で呑気に笑っていた。

 挙式はしない、婚約指輪も結納も要らない。結婚指輪を買って入籍するだけの素っ気ない結婚だが、それは二人で決めたことらしい。初めてそれを聞いた時、我が家が片親だから遠慮しているのかと心配したが、特にそういう訳でもないようだった。

「別にウエディングドレスとか結婚式とか、昔からそういうのに憧れはないんだよね。もっと他のことにお金は使いたいもん」

 派手婚と言われる地域から嫁いできた亜紀には理解できなかったが、娘達が揃って納得して、相手のご家族も賛成しているのなら、別にそれ以上は言うつもりもない。
 正直、せめて写真くらいは残しておけばいいのに、とは思ったけれど……。

 既に引っ越し荷物も運ばれ終えて、完全に自分一人きりになった自宅リビングで、亜紀は固定電話の受話器へと手を伸ばす。電話機横の卓上カレンダーには今日の日付に大きな赤丸が記されていた。

 この家に住む人間は、もう自分しかいない。

「もしもし。これから伺ってもいい? ええ。もう大丈夫になったから――」

 電話を切ると、コートを羽織り直してから再び玄関へと向かう。下駄箱の上に置いていた鍵と、真新しいキャリーを手にすると、知らずに心が躍っていた。
 向かう先は三件隣にあるご近所のお宅。お互いの子供達が小さな頃からの付き合いで、夫が亡くなった後も変わらず家族ぐるみで仲良くしてもらっていた。

 玄関チャイムは鳴らさず、勝手知ったるとばかりに靴を脱いで家の中を上がっていく。

「いらっしゃい。思ったより早くに出てったのね?」
「そうなのよ。彼氏の仕事の都合で、今日しかダメだっていうのよ」
「ふふふ、今の子も一応は大安とかを気にするのねぇ」
「本当に、意味が分かってるのかも怪しいけど、一応は暦を確認したらしいわ」

 こっちよと手招きされた後を付いていくと、リビング隣の和室の片隅で、柔らかそうなクッションに埋もれるようにその子は眠っていた。まぁ! と感嘆の声が出掛けたのをぐっと堪え、静かに腕を伸ばして抱き上げる。

「お腹いっぱいになったばかりだから、よく眠ってたわね。あ、これ、玩具とか入ってるから、一緒に持って帰って」
「あら、ありがとう。助かるわ」

 話し声で起きた子は、腕の中から不思議そうな顔で亜紀のことを見上げている。小さな丸い顔をした三毛猫の頭を、亜紀は優しく撫でてみる。柔らかな猫毛の触り心地に、顔がにやけるのが止まらない。
 受け取った紙袋をちらりと覗き見ると、猫じゃらしなんかの玩具だけでなく、子猫用のミルクやカリカリも入れてあった。今はいろんな種類があるのねと感心する。

 今日この日が来るのを、どれだけ待ちわびたことだろうか。

 猫アレルギーのある夫と結婚した時に、今後一生猫を飼うことはないと覚悟していた。猫と夫とを天秤に掛けた結果、亜紀は夫の方を選んだ。彼女の猫好き度合いを知っている友人達からは、かなり驚かれて止める者もいたくらいだ。
 そして、夫に体質が似てしまった一人娘も猫アレルギーを持っていた。だから、こんな日がくることなんて、以前は考えたこともなかった。

「私が出て行った後は一人で寂しいでしょう? 猫でも飼ったらいいんじゃない? お母さん、本当は猫飼いたかったんでしょう? スマホの写真フォルダ、猫だらけなの知ってるんだから」
「でも……猫がいたら、千佳が遊びに来れなくなるじゃない」
「そんなのどうだっていいよ。お母さんとは外で会えばいいんだし。別に家に思い入れはないわ」

 母親がずっと我慢しているのを娘は気付いていたらしい。そして、ご近所の友人宅で生まれたという子猫の画像をスマホの画面に表示し、「この三毛の子はまだ貰い手が決まってないんだって」と亜紀に見せてきたのだ。
 三毛猫と聞いて、真っ先にあの児童公園で会う猫のことを思い出した。でも、画像に写っていた子猫は黒毛が多く、尻尾は短めの鍵尻尾だった。

 持って来たキャリーの扉を開いて、そっと中へ入れてみるが、子猫は特に嫌がる様子はない。中の匂いを嗅ぎながら、自ら奥へと入っていく。

「あら、お利口さんね。これからよろしくね」
「みー」

 今日からは、この子との新しい生活が始まるのだ。亜紀は目尻を下げ、頬を緩めた。