美紗のスマホの中で、猫は真ん丸な瞳でカメラを見上げている。名前を呼ばれると「みゃーん」と可憐に鳴いて返事してから、カメラを構える飼い主の足下に擦り寄っていた。

 この動画を紹介してくれた患者は、猫らしくない猫だと言っていたけれど、どの仕草にも美紗は見覚えがある。猫らしくないと言われる動きだって、やっぱりそれは猫のもの。犬っぽいからと言って、犬しかしない訳じゃない。実際に猫を飼ったことがあれば「あー、うちの猫もやってたわ」と頷きたくなる。

 知らず知らずの内、画面の中のよその猫の姿に、ムーを重ねていた。猫という生き物はどうしてこんなに、人間の琴線を全力で揺らしにくるんだろう。クスクスと小さく笑みを漏らしながらも、美紗の頬には涙が伝った。飼い猫が死んでから、初めて流した弔いの涙。ようやく、ムーがこの世にいないことを実感できてきた。

 ――こんなに、むーちゃんのこと思い出したのって、何年ぶりかな……?

 人生の半分以上を一緒に過ごした家族だったのに、これまではしんみりと偲ぶことすらしていなかった。それは勿論、仕事が忙しかったのもあるし、身近にムーのことを思い出させるような存在が無かったから。それに、命の終わりをどこか他人事のように感じていたせいでもある。

「……猫、飼いたいな」

 人よりも命の短いペットを飼えば、また死に別れる日が必ず訪れてくる。それでも、あのフワフワの毛並みと愛らしい仕草と存在。それが傍にいてくれたら、毎日をもっと頑張れそうな気がする。

 動画アプリを閉じた後、美紗はブラウザを立ち上げてお店情報を検索する。確か、駅前のホームセンターの中にペットショップが入っていたはずだ。

「え、先輩、猫飼うんですか?」
「飼いたいなーって思ってるだけ。一応、今のマンションはペット可だしね」

 ナースステーションで日報を記入していると、二つ後輩の湯川杏里が壁面に設置された棚の備品を確認しながら話し掛けてくる。今日は新規の入退院が一件も無かったから比較的平和な一日だ。強いて言えば、リハビリから戻って来たお爺ちゃんが廊下で何かを喚いていたくらいだろうか。それは特に珍しいことじゃない。

「何猫にするとかって、もう決めてたり?」
「ううん、別に」

 ムーも近所の家から貰って来た雑種だったし、特に種類に拘りはない。顔を見て「この子だ」と思うような子がいたらいいなー、くらいの気持ちだ。
 美紗の答えに、杏里がニヤニヤと笑い掛けてくる。

「何? どうせあれでしょ、今から猫を飼うなんて、結婚はもう諦めたも同然とでも言いたい訳?」
「ち、違いますよー」
「じゃあ、何が言いたいのよ」

 猫を飼いたいと思ってから、美紗もいろいろと調べたりしてみた。前もって、最近の猫飼い事情とかはしっかり頭に入れておくつもりで。そしたら、ムーの時には無かったグッズが山盛りで、まだ猫を迎えてもいないのに通販サイトで散財する寸前だった。
 と同時に、独身がペットを飼い出すと婚期を逃すとかという有難くない記事もわんさか出てきて、ちょっとムッとした。世間は勝手なことばかり言って、すぐに独身を追い詰めようとする。別に独身で寂しいからって猫を探してるつもりは毛頭ない。

 急に怒り出した先輩看護師へ、そんなこと思ってもいないですよー、とやや焦り顔で、杏里が首を振って否定してくる。

「別に血統とか気にしないんだったら、うちの近所の動物病院にチラシ貼ってたんでどうかなぁって思っただけですよ」
「チラシって?」
「そこの病院の常連さんの家で子猫が生まれたらしくて、貰い手を探してるみたいです。一通りの検査は終わって、ワクチンも済んでるって」

 そしてまた、杏里はちょっと顔をニヤケさせる。なんだか怪しい。
 動物を飼ってもいない人間が動物病院に行く用事なんてある訳がない。ということはつまり――。

「……そこの獣医さんと、何かあるの? 湯川さん、ペット飼ってないよね?」

 動物じゃなければ、人間しかない。美紗の指摘に、杏里は得意気に頷き返してくる。

「高校の同級生なんです。先輩が猫貰いに行く時、私も付いて行ってもいいですよねー? 動物病院で面会ってことで、連絡しときますよ」

 ほぼほぼ決定みたいな口ぶりに、呆れて腹も立たない。引き取るかどうかは分からないけれど、一度見せて貰いに行く約束を強引に取り付けられてしまった。杏里からすれば、獣医の彼に会う口実が作れてラッキーくらいの感覚なのだろう。ちゃっかりした性格の後輩の行動力に、思わず感心してしまう。

 杏里の同級生だという獣医は背は高くて真面目そうな雰囲気のセンター分け君だった。高校のミニ同窓会のような飲み会で再会したらしく、今は付き合う前の様子見という段階らしい。なんてまどろっこしい関係だ。

「一人で留守番させてしまうことも多いんで、できるだけおとなしい子がいいんですが……」

 帰宅後に家の中が大惨事というのは勘弁だ。出来るだけ静かに待っていてくれる子なら、理想的。ムーもあまり飛び跳ねたりするような猫じゃなかったし。

 飼い主だというお婆ちゃんが抱えてきた、犬用らしき少し大きめのキャリーの中をそっと覗いてみる。みーみーとか細い声で鳴き続けている子猫達は、全部で3匹。薄い色の茶トラの子が2匹と、白に少しだけ茶色のブチのある子が1匹。他にも2匹生まれたが、そちらは既に貰い手が決まっているらしい。

「なら、女の子の方がいいかしら。この子は兄弟猫の中でも一番おっとりさんだからいいかもねぇ」

 お婆ちゃんはその中の茶トラの子猫を両手で大事そうに掴んで、美紗の前に差し出してくれる。まだ毛が生え揃っていないのかポワポワの綿毛のような毛並みの子猫は、こげ茶色の丸い瞳で美紗の顔を不思議そうに見上げている。

 その純真無垢な瞳に、美紗はコクコクと首を縦に振り続ける。親猫が長毛種だと聞いて、大きくなったらブラッシングが大変そうだなと密かに尻込みしていたことなんて、一瞬で頭から抜け落ちてしまった。
 多分、一目惚れっていうのは、こういうことなんだろう。一瞬でその子猫に心を奪われてしまった。

 小煩い患者家族にチクチクと文句を言われようが、家に帰ればこの子が待っていてくれると思ったら、笑顔で頑張れそうな気がする。猫の癒し効果は絶大だ。
 美紗は差し出された子猫を優しく両手で受け取ると、その小さな丸い頭に自分の頬をそっと触れさせる。ふんわりと柔らかな猫毛からは、ミルクとお日様の香りがした。

「この子にします」