じわじわと溜まっていく鬱憤と肉体的疲労感。中腰での作業も多いし、自分よりも体格の良い患者の身体を支えたりと、アラサーでなくとも腰へモロにくる。手を腰に当てながら身体を左右に回せば、背中からゴリゴリという嫌な音が鳴った。

 ――はぁ……癒されたい。

 美紗にも分かっているのだ。自分の生活には癒しが足りない。発散できるような特別な趣味がある訳でもなく、せっかくの休みも溜まった家事をこなしている内に終わってしまう。そして、友達はみんな結婚して家庭を持ってて、気晴らしに会うなんてことも一切ない。ストレスは溜まっていく一方だ。一日くらいの休みでは解消なんてできる訳がない。

 それに加えて、今は昔飼っていた猫の死を引きずってしまっている。楽しかったことを思い出しては、もうムーはこの世には居ないんだと落ち込んでしまう。愛らしい鳴き声も、柔らかな毛並みも、今でも鮮明に頭の中で再現できる。でも、もう二度と直に聞くことも触れることもできないのだ。

 7年も前のことなのに、全く受け入れることが出来ないペットの死。これはきっと、死んでしまったムーを自分の目で実際に見ていないからなのだろう。親から電話で報告されただけだから、実家に行けばまた会えるのだと錯覚してしまう。人伝てに聞く死は受け入れるのに時間を要する。もう居ないということがちゃんと実感できていない。だから、昨日までの美紗は全く落ち込みもせずに、お気楽に過ごせていた。
 仕事柄、死というものに直面し過ぎていたせいで、感覚が麻痺していたのかもしれない。

 でも、あの三毛猫に出会ってから、再びムーのことを思い出した。「ああ、ムーの毛に顔を埋めたい」と思ったと同時に、それはもう無理なんだと改めて認識した。猫と死に別れたことをようやく理解したのだ。本当に、今更だけれど。
 そして、初めて虚しさと寂しさに襲われる。7年も遅れて感じる、ペットロス。

「……ムーちゃん」

 思わず声を漏らしてしまい、美紗は慌てて回りを見回す。廊下ですれ違った見舞客が怪訝そうにこちらを振り返っていたが、澄ました顔を作ってやり過ごした。
 心にぽっかりと空いてしまった穴を治療してもらうには、診療内科にでも行くべきか……。

 点滴の交換にと病室の戸を軽くノックして、ワゴンを押しながら中へと入る。朝は掛布団を被ったままだった女子高生は、枕を背凭れにしつつベッドの上で膝を立てて座っていた。相変わらず耳にはイヤフォンを付け、スマホを横持ちして動画に見入っている。

「波多野さん、点滴の交換させてもらいますね」

 美紗が声をかけると、ちらりと視線を送ってくるが、それも一瞬だけ。すぐにスマホの液晶に戻り、口元を小さく綻ばせている。一体、いつも何を見ているんだろうか。どうせ人気の配信者や、好きなタレントの出てくる動画とかか。一回り以上も歳が離れた子のことはよく分からない。ジェネレーションギャップというやつだ。

 慣れた手付きで新しい輸液バッグをセットし終えてから、美紗はふっと顔を上げた。すると、斜めからの角度だったが、患者が真剣に見続けているスマホの液晶画面が目に入った。

「……猫?」

 犬のようにリードを付けて散歩する猫の様子が、飼い主目線で撮影された動画だ。得意げにピンと尻尾を伸ばして歩く猫は、先を歩くミニチュアダックスを追いかけているみたいだった。

「うん、猫なんだけど自分のことを犬だと思ってて笑えるの」
「へー」

 美紗の問いかけに、波多野がイヤフォンを片耳だけ外してから教えてくれる。見た目は今時のギャルだけれど、素直な良い子なのだ。
 動画の猫は、子猫の頃から犬と一緒に育ってきたから、犬のように散歩が好きなんだという。他にも猫らしくない仕草をするらしく、猫動画の中でも一番のお気に入りだという。散歩の様子以外にも、たくさんの動画が公開されているらしい。

「うちはペット禁止のマンションだから、飼いたくても飼えないんだけど……」

 動画を見るくらい好きなら、家にも猫がいるのかと聞いてみると、波多野は明るい茶色の髪をふるふると横に振る。
 考えてもみると、青春真っ盛りの高校生に入院生活は退屈でしかないだろう。動画を見るのが唯一の退屈しのぎというのは、本当にお気の毒だ。

 お勧めの配信者名を教えてもらった後、「目が悪くなるから、ほどほどにね」と声を掛けて病室を出る。院内でのスマホ使用は禁止なのだから、本来はもっと強く注意すべきなんだろうが……。

 またもや昼休憩が遅くなったせいで、今日も院内のコンビニの棚はスカスカだった。かろうじてパンは少しだけ残っているけれど、お弁当やオニギリ類は全滅に近い。残っているのは納豆巻と、バカみたいに値段の高い高級志向のオニギリのみ。
 サンドイッチとメロンパンにペットボトルのカフェオレを購入して、美紗は病院の中庭にあるベンチに腰掛けた。日向ぼっこ中の入院患者が一人いるだけで、とても静かな空間。植木に囲まれた緑豊かなこの場所には、ランチタイムにはたくさんの人が集まってくる。

 メロンパンを一口かじってから、美紗は鞄から自分のスマホを取り出す。そして、動画アプリを立ち上げてから、教えて貰ったばかりのアカウント名を入力してみた。