シャワーを浴びてから部屋着に着替えると、美紗はコンビニで買って来たプリンとスプーンをローテーブルの上に用意して、壁際のテレビの電源を入れる。六畳の洋室に三畳の狭いダイニングが付いた1DKは、引っ越して来た時に親が用意してくれた家具家電のままだ。さすがにカーテンは一度買い替えたし、食器類は少し増えたとは思う。約10年間、部屋に人を招き入れるということをロクにしなかったから、インテリアに凝るという考えは一切浮かばなかった。
飾り気のない部屋だけれど、それでも実家の次に長く住んでいる部屋だ。過酷な連勤がようやく終わった解放感に浸りながら、プリンの蓋を開ける。ミルクプリンの上にこんもりと山盛りに乗った生クリームをスプーンで掬い、まずはそれだけを口に入れる。甘過ぎずさっぱりとした味だからこそ、この量を最後まで美味しくいただけるというもの。
「……ふぅ、癒されるぅ」
テレビに映し出された朝のワイドショーでは、若い女の子が最新のファッションとやらを紹介している。可愛いと連呼しながらクルクルと回って見せているが、それのどこが最新なのか首を傾げる。同じようなデザインの洋服を美紗自身も高校時代に着ていた覚えがある。ということはつまり、あの頃からすでにファッションの歴史は一巡してしまったということか。
――私の青春時代は、すでにひと昔前の扱いか……。
三十を過ぎたばかりで、気持ちはまだ二十代後半と変わらない気でいたけれど、世間の目はそう見てはくれないようだ。世知辛い。
甘い物の癒しと自宅の安心感に、遠慮なく襲ってくる睡魔。早くベッドに寝転びたいという衝動を、ぐっと堪える。さっき回したばかりの洗濯機はまだ二度目の排水中だ。槽の中で洗濯物が偏っているのか、ガタガタと不穏な音が洗面所から聞こえてくる。
連勤が続いていたせいで極限まで溜まった洗い物は今やっておかないと間違いなく後で困る。多分、今晩着替える下着はもう無かったはずだ。
プリンが入っていた容器と木製スプーンをゴミ箱へ放り入れ、冷蔵庫の中から500mlのペットボトルを取り出す。コンビニで一緒に買って来たストレートティーだ。キャップを開けて、立ったままゴクゴクと半分近くまで一気に飲み干す。甘さ控えめのスイーツだったとは言え、紅茶のおかげで幾分かは口の中がさっぱりと落ち着いた気がする。
ふぅっと大きく息を吐き、天井に向けて腕を伸ばす。洗面所から聞こえていたのが脱水中の音へ変わって、しばらく後にはピーピーピーという洗濯完了の合図。テレビを消そうとリモコンに手を伸ばしかけ、美紗はそのまま液晶画面に目が釘付けになった。
『大好きな君の、美味しい顔が見たいから』
満足そうな表情で毛繕いする青灰色の猫。ロシアンブルーという、何だかしゅっとした凛々しい顔の猫種。エメラルドグリーンの瞳を細めて、前脚で顔を洗っている。特に口周りを丁寧に毛繕いする様子は、ご飯を食べた後だから。「ごちそうさま」というテロップが表示され、猫の写真付き缶詰がクローズアップされる。猫缶のCMだ。
さっき、マンション下の駐車場で出会った三毛猫が頭をよぎる。足に擦り寄られた時のふんわりとした毛の感触を不意に思い出した。ぬいぐるみとは全く違う、猫の毛の肌触り。子供の頃、いつも寄り添うように一緒に寝ていた八割れ猫のものと少し似ていた気がする。その子は、美紗にとって大切な家族で、友達だった。
看護師の母と、レントゲン技師の父は、今の美紗と同じように夜勤で帰って来ない日もあった。二人が同時に夜勤になることは無かったが、日中に家で一人きりになることは多かった。でも、あの子がいつも傍にいてくれたから寂しいと感じることは少なかった。
「……ムーちゃん」
7年前に死んでしまったムーは白黒の和猫だった。そして、あと2か月で20歳になるはずだった。猫は二十年生きると尻尾が二つに分かれて猫又って妖怪になるんだよ、という話を聞いて、ほんのちょっと、否、本気で楽しみにしていたのに……。
いつでも実家に行けば会えると思っていただけに、ムーの死を知らせる母からの電話はあまりにショックで、最初は聞き間違えたのかと思った。
「最近、ご飯もほとんど食べなくなってたから、病院へ点滴に通っていたのよ」
弱り切ったムーの姿は、全く想像できなかった。美紗にとってムーはツンデレ女王様で、甘えん坊なくせに弱みを見せたがらない気の強い猫だった。だから、最後はずっと寝たきりだったという話は、とても信じられなかったし、信じたくなかった。
でも猫だって歳を取ることくらい理解している。身体の機能が低下して、徐々に弱っていく人は職場で何人も見送ってきた。
だけど、楽しい思い出が多過ぎて、想像力が追い付かないのだ。そのくらい、ムーは美紗の思い出の大部分を占めている。
見知らぬ三毛猫との出会いが、忙しさで忘れかけていた家族のことを思い出させてくれたようだった。思い出せば思い出すほど、懐かしさと寂しさがこみ上げてくる。ペットロスなんて言葉はよく聞くが、あれってこんなに何年も後になって出てくるものなんだろうか。
ムーが死んでから、もう7年も経ってしまっているのに……。
飾り気のない部屋だけれど、それでも実家の次に長く住んでいる部屋だ。過酷な連勤がようやく終わった解放感に浸りながら、プリンの蓋を開ける。ミルクプリンの上にこんもりと山盛りに乗った生クリームをスプーンで掬い、まずはそれだけを口に入れる。甘過ぎずさっぱりとした味だからこそ、この量を最後まで美味しくいただけるというもの。
「……ふぅ、癒されるぅ」
テレビに映し出された朝のワイドショーでは、若い女の子が最新のファッションとやらを紹介している。可愛いと連呼しながらクルクルと回って見せているが、それのどこが最新なのか首を傾げる。同じようなデザインの洋服を美紗自身も高校時代に着ていた覚えがある。ということはつまり、あの頃からすでにファッションの歴史は一巡してしまったということか。
――私の青春時代は、すでにひと昔前の扱いか……。
三十を過ぎたばかりで、気持ちはまだ二十代後半と変わらない気でいたけれど、世間の目はそう見てはくれないようだ。世知辛い。
甘い物の癒しと自宅の安心感に、遠慮なく襲ってくる睡魔。早くベッドに寝転びたいという衝動を、ぐっと堪える。さっき回したばかりの洗濯機はまだ二度目の排水中だ。槽の中で洗濯物が偏っているのか、ガタガタと不穏な音が洗面所から聞こえてくる。
連勤が続いていたせいで極限まで溜まった洗い物は今やっておかないと間違いなく後で困る。多分、今晩着替える下着はもう無かったはずだ。
プリンが入っていた容器と木製スプーンをゴミ箱へ放り入れ、冷蔵庫の中から500mlのペットボトルを取り出す。コンビニで一緒に買って来たストレートティーだ。キャップを開けて、立ったままゴクゴクと半分近くまで一気に飲み干す。甘さ控えめのスイーツだったとは言え、紅茶のおかげで幾分かは口の中がさっぱりと落ち着いた気がする。
ふぅっと大きく息を吐き、天井に向けて腕を伸ばす。洗面所から聞こえていたのが脱水中の音へ変わって、しばらく後にはピーピーピーという洗濯完了の合図。テレビを消そうとリモコンに手を伸ばしかけ、美紗はそのまま液晶画面に目が釘付けになった。
『大好きな君の、美味しい顔が見たいから』
満足そうな表情で毛繕いする青灰色の猫。ロシアンブルーという、何だかしゅっとした凛々しい顔の猫種。エメラルドグリーンの瞳を細めて、前脚で顔を洗っている。特に口周りを丁寧に毛繕いする様子は、ご飯を食べた後だから。「ごちそうさま」というテロップが表示され、猫の写真付き缶詰がクローズアップされる。猫缶のCMだ。
さっき、マンション下の駐車場で出会った三毛猫が頭をよぎる。足に擦り寄られた時のふんわりとした毛の感触を不意に思い出した。ぬいぐるみとは全く違う、猫の毛の肌触り。子供の頃、いつも寄り添うように一緒に寝ていた八割れ猫のものと少し似ていた気がする。その子は、美紗にとって大切な家族で、友達だった。
看護師の母と、レントゲン技師の父は、今の美紗と同じように夜勤で帰って来ない日もあった。二人が同時に夜勤になることは無かったが、日中に家で一人きりになることは多かった。でも、あの子がいつも傍にいてくれたから寂しいと感じることは少なかった。
「……ムーちゃん」
7年前に死んでしまったムーは白黒の和猫だった。そして、あと2か月で20歳になるはずだった。猫は二十年生きると尻尾が二つに分かれて猫又って妖怪になるんだよ、という話を聞いて、ほんのちょっと、否、本気で楽しみにしていたのに……。
いつでも実家に行けば会えると思っていただけに、ムーの死を知らせる母からの電話はあまりにショックで、最初は聞き間違えたのかと思った。
「最近、ご飯もほとんど食べなくなってたから、病院へ点滴に通っていたのよ」
弱り切ったムーの姿は、全く想像できなかった。美紗にとってムーはツンデレ女王様で、甘えん坊なくせに弱みを見せたがらない気の強い猫だった。だから、最後はずっと寝たきりだったという話は、とても信じられなかったし、信じたくなかった。
でも猫だって歳を取ることくらい理解している。身体の機能が低下して、徐々に弱っていく人は職場で何人も見送ってきた。
だけど、楽しい思い出が多過ぎて、想像力が追い付かないのだ。そのくらい、ムーは美紗の思い出の大部分を占めている。
見知らぬ三毛猫との出会いが、忙しさで忘れかけていた家族のことを思い出させてくれたようだった。思い出せば思い出すほど、懐かしさと寂しさがこみ上げてくる。ペットロスなんて言葉はよく聞くが、あれってこんなに何年も後になって出てくるものなんだろうか。
ムーが死んでから、もう7年も経ってしまっているのに……。