駅の改札を抜けると、ふぅっと大きな溜め息が自然と漏れる。やっと帰って来れたという安堵と、一気に押し寄せてくる疲労感。改札ですれ違った人のほとんどは、これから出社や登校なのだろうか。さっきぶつかりそうになったOLさんは欠伸を噛み殺した微妙な顔をしていた。

 駅の建物を出た途端、あまりに太陽が眩しくて、長谷川美沙は思わず目を細めた。夜勤明けの朝日はただ浴びているだけで、体力も気力もごっそりと奪い去って行く。

 ――今回の連勤はマジでキツかったぁ……。ってか、主任って子供理由の欠勤に甘過ぎじゃない? おかげで私ら独身に全部しわ寄せ来るんだけど。

「長谷川さんだって、その内に良いご縁があるかもしれないじゃない。今の内に恩は売っておいて損はないと思うのよね」

 言われた時は「まあ、そうですね」と素直にうなずいてしまったが、後から考えるとあれはただの嫌味だとしか思えない。彼氏居ない歴が既に片手では数え切れなくなっているアラサーに、この先に何のご縁があるというのだろうか。

 勿論、結婚後も働き続けることができる職場環境は大事だ。産休育休後に復帰しやすければ慢性的な看護師不足の緩和に繋がるだろう。でも、その犠牲になるのは誰だ? 一部の独身が都合良くフォローに回されているという現実。

「ごめんねー。代わりに、美紗さんが都合悪い時は遠慮せず言ってね」

 休憩室用のお菓子の差し入れを持ってきたとこれ見よがしにアピールしながら、大半の既婚者が同じようなことを言ってくる。けれど実際にシフトの交代を打診してみても、

「あー、その日は子供のお迎えを旦那に頼めないんだよねぇ……」
「お婆ちゃんに子供預かって貰うには、ちょっと急過ぎるかなぁ」

 世の中の旦那達はどんだけ非協力的で、祖父母はそんなにスケジュールが詰まった生活をしているんだろうか。うちの実家の母なんて月1で地域の集まりがある以外、特に決まった予定なんてなさそうに思えるのだが……。

 とにかく子供や実家を盾にされて、こちらが無理難題を吹っ掛けた悪者みたいになってしまう。別に意地悪で言った訳じゃなく、相手の「遠慮せず言って」という社交辞令を間に受けてしまった結果がこれだ。正直、納得がいかない。

 ――大体さ、佐藤さんとこの旦那さん、一人で子供の看病も出来ないの?

 以前に会社員だと聞いた覚えのある先輩の夫は、自分の子供が熱を出しても何もしないのだろうか。それとも、看護師だから妻が看病するべきだと? なら、家族に医療従事者が一人も居ない家庭はどうしてると思っているんだろうか。

 考えれば考えるほど、イライラが募っていく。顔も見たことがない子供の為に潰れた休日。予定より夜勤だらけになった過酷な勤務表。この荒んだ心を癒してくれるのがコンビニスイーツしかないという侘しさ。

 ――ううん、クリームたっぷりミルクプリンがあれば、全て許せる。

 自宅マンションの向かいにある店の自動ドアを抜けて、迷わずに冷蔵庫へと進んでいく。棚にぎっしりと並んだデザート類の中から、お気に入りのプリンへと手を伸ばし、カゴの中へ2個入れる。分厚く真っ白なクリームが乗ったプリン。それがカゴの中に並んだ姿は、もうそれだけで気分はほっこりしてくる。見た目が可愛くて美味しいのだから、プリンは最強だ。

 この時間帯はちょうど朝の納品が終わった後らしく、どの棚も商品が選び放題。院内にあるコンビニのミニ店舗はいつ行っても棚がスカスカで、休憩を取るのが遅くなれば弁当類はほとんど残っていなかったりするから、ここの品揃えが天国に思えてくる。

 ペットボトルの紅茶と一緒にプリンをエコバッグに詰め込んで、少しだけ軽くなった足取りで店の前の道を横断する。
 5階建ての白壁のマンションの2階にある自宅。ここには看護専門学校を出て今の病院に勤務後ずっと住んでいるから、来年で10年になる。そろそろ引っ越しを考えないといけない時期かもしれないが、この街にもそれなりに愛着があるし、何よりも新居探しは面倒だ。

 1階にテナントとして入っているデザイン事務所の専用駐車場には、高そうな外車が2台並んで停まっている。その内の1台は事務所の社長らしき男性が運転しているのを目撃したことがあるから、もう1台の白色のベンツは顧客の物だろうか。

 別に車への興味はこれっぽちも無かったが、そのベンツのあまりのピカピカ具合に二度見している時、車体の横を歩いて来る三毛猫の存在に気付いた。
 長く白い尻尾をピンと伸ばして、トトトと軽い足取りでこちらへと向かってくる猫は、美紗からの視線に物怖じした様子はない。それどころか、駐車場の前で立ち止まっている美紗の足下にするりと擦り寄ってきてから、顔を見上げながら鳴いてみせる。

「ナァー」

 初めて見た猫だ。赤い首輪をしているということは、どこかの飼い猫なのだろう。白の多い三色の毛はよく手入れされているのか、艶やかでフワフワだ。一瞬だけ足に触れた毛の柔らかな肌心地は、コンビニで買ってきたばかりのクリームたっぷりミルクプリン並みの癒し力。

「……猫かぁ、いいなー」

 猫に触れたのは何年振りだろう。実家で昔飼っていた八割れ猫のことを懐かしく思い出してしまった。