幸恵が勝手に付けた「ミーコ」という名前で呼んでも、当たり前のように返事する三毛猫は、初対面の和彦を前にしても平然としていた。彼の横をするりと通り過ぎると、台所を抜けてリビングへと入り、座椅子を陣取って毛繕いを始めている。

「……へ?」

 夫が猫を見て素っ頓狂な声を漏らしたのを聞いて、幸恵は夫に他所の猫がよく遊びに来るのを言って無かったのに気付いた。別に秘密にしていた訳じゃなく、ただ夫婦の間で会話が無かったから言う機会がなかっただけだ。

「たまに遊びに来てくれる子なの。勝手にミーコって呼んでるけど、どこの子かは分からないわ」
「……いつから?」
「ええっと、半年は経ってるかしら。人懐っこい子よ」

 別にご飯をあげている訳じゃないし、来てもすぐ帰っていくわと嬉しそうに話す妻の顔を、和彦は目を丸くして見ていた。慣れた手付きで猫を抱き上げ、穏やかに微笑んでいる妻。長く連れ添っていても、互いに知らないことは多い。

「猫、好きだったのか?」

 少し神経質なところもある、綺麗好きな幸恵。てっきり、犬や猫といった動物は好きではないのだと思い込んでいた。これまで一緒に住んでいて、何かを飼うという話は出てきたことは一度もなかった。
 猫が首を伸ばして頬へ擦り寄ってくるのを、幸せそうに微笑んでいるのが信じられない。

「猫派か犬派かって聞かれたら、猫派だと思うわ。――あなたは?」
「子供の頃に十年ちょっと、猫を飼ってた」
「え、そうなの?!」

 実家が引っ越しを繰り返したこともあり、写真ももう残っていない。茶トラのオス猫だったと話す夫の顔を、幸恵は珍しいものでも見るかのように眺めていた。

 ――全然、知らなかったわ。

 ミーコが家の中に上がり込んでいたら、怒りはしないだろうが追い払おうとするかと思っていた。なのに今、和彦は幸恵の横に来て三毛猫の顔に手を伸ばそうとしている。

 差し出された和彦の指を、猫は鼻を近付けて匂いを嗅いでいた。ピンク色の鼻先をしばらくヒクヒクさせた後、その指に自分の顎を擦り寄せていく。二人の人間に好き勝手に撫で回されながら、三毛猫はゴロゴロと喉を鳴らしていた。

 散歩途中の休憩所とでも思われているのか、ミーコはいつもあっさりと帰っていく。急に雨でも降らない限り、長居無用と立ち去ってしまう。
 猫が出て行った勝手口を名残惜しそうに見つめている夫の姿に、幸恵は思わず噴き出しそうになった。初めて見る夫の表情と、久しぶりの会話。鬱蒼としていた気分がミーコのおかげで消えた気がした。

「そんなに好きなら、保護猫でも見に行ってみる?」
「え、いいのか?」

 職場であるスーパーの入口に張り出されていた、保護猫の譲渡会のポスターを思い出す。確か、次の土日に市民会館で開催されると書いてあったはずだ。妻からの提案に、和彦はぱっと顔を明るくする。

 二人で出掛けるなんて、いつぶりだろう。


「ねえ、本当に猫飼ったのー?」

 嫁に行った娘が久しぶりに帰省して、まず放った台詞がそれだった。

「今、お父さんに遊んで貰ってるわ」
「えー、お父さんと? 全く想像できないんだけど……」

 訝しがる長女に、幸恵は「それがそうでもないのよ」と含みを持たせて笑う。寡黙の一言でしか表しきれなかった夫だったが、意外な一面を持ち合わせていたのだ。

「おー、ユッケは狩りの天才だな。カルビは今日もいい毛並みしてるなー、さすがベッピンさん」

 バタバタと賑やかに走り回る足音と、和彦の明るい笑い声。リビングから聞こえ漏れてくる音に、美久は目をぱちくりさせている。久しぶりに帰ってきた実家の雰囲気が、自分が知っているものとはまるで違うのだ。

「え、何?」

 恐る恐るリビングの襖の隙間から中を覗いてみると、猫じゃらしを片手で振り回しながら、膝には真っ白の猫を乗せている父の姿があった。満面の笑みを浮かべて白黒の八割れの子猫をじゃらしで遊ばせつつ、反対の手では膝の上で丸くなっている白色の大人猫を毛並みに沿って撫でている。

 部屋の片隅には見覚えのないキャットタワーなどの猫グッズが置かれていて、一言で言えば「完全な下僕部屋」と化している。木目調の家具で統一されていたはずのリビングが、カラフルな空間へと様変わりしていた。

「止めないと、すぐにいろんな物を買ってきちゃうのよ。キャットフードも次から次に違う種類を買ってくるし……」
「いろいろ試して、一番気に入ったやつに決めてやらないと。ユッケとカルビ、それぞれに好みがあるだろ」

 呆れたように笑っている幸恵へ、少し拗ねたように和彦が反論している。こんな光景は美久は初めて見たかもしれない。

「大体、何? ユッケとかカルビって? それが猫の名前?」
「お父さんが付けたのよ、意外と可愛いでしょ?」

 可愛いというよりは美味しそうな名前だ。どういうつもりで焼き肉屋のメニューみたいなネーミングにしたのか……。

「ほら、最後に家族揃って食べに行ったのが焼き肉屋さんだったでしょ。お父さん、それが大事な思い出だからって」

 じゃあもし、あの日にお寿司屋さんに行っていたら、この子達の名前はマグロとかサーモンとかになっていたのだろうか。

「よーし、ユッケ、次はこっちならどうだ!」

 別のじゃらしに持ち替えた和彦が、子猫を相手に声を張り上げている。その嬉々とした表情はまるで子供だ。その無邪気な笑顔に、釣られてこちらまで笑いがこみ上げてくる。

「……お父さんって、あんな人だったっけ?」
「私も知らなくてビックリしてるのよ、笑っちゃうわよね」

 二匹の猫達を引き取ってからは、三毛猫のミーコが遊びに来ることは無くなった。それは少し寂しかったが、代わりに今はユッケとカルビがいてくれる。猫のおかげで夫との会話が増えたし、今は家の中がいつでもとても賑やかだ。

 和彦のことを面白みのない人だなんて、誰がそんなことを思っていたのか。猫が絡めば、彼は最高に面白い夫だ。
 リビングには三人の笑い声と、猫が駆け回る足音が賑やかに響いていた。