二学期の中間テスト明けの日曜日。かなり寝過ぎたのか、起きたら軽く頭痛がしていた。枕の下からスマホを探り出して時間を確認してみると、朝というよりもう昼前だった。せっかくの休日を半分くらい無駄にした気分だ。

 三上梓はベッドの上で半身を起き上げて、腕を天井へ向けながら大きく伸びをする。運動不足のなまり切った身体がじわじわと目覚めていく感覚。腕を下ろしながらゆっくりと深呼吸していると、外の気配がいつもと違うことに気付いた。

 植木バサミが奏でる軽快なリズムと、聞き慣れない大人の声。時折、木の枝が地面に落ちていく音も耳に入ってくる。

 ――あ、植木屋さんが来てるんだ……。

 カーテンをそっと開いて覗き見れば、部屋の外には庭木の横で長い脚立に乗った植木職人の姿。少し開いたままの窓の隙間からは、剪定されたばかりの木や葉のむわっとした青い香りが入り込んでくる。その青臭い匂いに交じって、微かに漂う金木犀の甘い香り。

「ああ、勿体ないなぁ……」

 思わず声が漏れた。金木犀は一番好きな香りだった。今のこの時期しか嗅げない、優しくて甘い香り。外を歩いていても金木犀の気配を感じると、つい立ち止まって木を探してしまうくらいにお気に入りだった。その匂いを嗅ぐだけで、いつもなぜだか嬉しくなる。

 勿論、庭に一本だけある高さ2メートルの木が橙色の小さな花を付け始めると、外に出る度に大きく鼻から息を吸い込んで、その匂いを真横で堪能していた。年に数週間だけの楽しみだ。

 金木犀の香りの芳香剤もあるけれど、そちらは問題外。確かに精巧に再現されているとは思うが、人工的な香りの方には全く惹かれない。橙色の花そのものを乾燥させたポプリでもダメ。何がどう違うのかと聞かれても答えられないけれど、とにかく枝先で咲いている状態の香りが一番落ち着くし、テンションも上がるのだ。

 放っておいても一年でたった数週間しか咲かないのに、いつも金木犀が満開になったタイミングで造園業者は訪れてくる。毎年同じ時期になるのは、得意先を回る順番が変わらないからなのだろう。一年で伸びた分の枝をキレイに剪定して、四方へ広がっていた金木犀の木を長丸く整えていく。そして、その際に枝先に咲いていた小花の大半が、地面に敷かれたブルーシートの上に切り落とされてしまう。

 剪定された後の木にわずかに残った花だけでは、正直言って香りが弱い。梓としては、あのむわっと襲ってくる甘い香りが好きなのに……。

「金木犀が咲き終わってから来て貰えないの? せっかく咲いてたのに、勿体ない……」

 夕方、造園業者が帰って行った後で、庭の様子を確認している母親に訴える。業者が撤去し忘れている木の枝を拾い集めて掃除していた母は、梓の顔を見ながらおかしそうに笑った。

「昔からずっと好きよね、梓は。落ちてる花を拾ってポプリを作ったりとか、よくしてたわよねぇ」
「咲いてるのが一番いいのに、植木屋さんが来たら、全部切ってくし……」

 かと言って、金木犀の剪定だけを断る訳にはいかない。すでに2メートルを超えている木はそれだけで存在感があり、素人の手には負えない。一本だけ手入れしないとなると庭の雰囲気も大きく変えてしまうだろう。

「おじいちゃんがいた頃から、うちはずっとこの時期に来て貰ってるから」

 馴染みの造園業者は毎年「今年は何日に伺います」と向こうから日付を指定してくるらしい。留守にしていても勝手に庭へ入って作業していくから、依頼主側は都合を気にしなくて良い。とても合理的な契約だ。
 三上家にやって来るのはいつも丁度橙色の小花が咲いてからで、大雨でも降れば予定は変わるのかもしれないが、梓の我が儘は聞いて貰えそうにない。

「ああ、でも。お父さんが離れを解体して駐車場にするって言ってるから、この辺りの木も切らないといけないわね。庭木が減るなら、植木屋さんにはもう頼まなくていいのかしら?」
「え……おじいちゃんの家、無くなっちゃうの?!」

 同じ敷地内にはかなり古ぼけた小さな洋館が建っている。先祖が割と裕福な地主だったらしく、戦後には住み込みの使用人が使っていたという、タイル張りの建物。小さいながらも二階建ての4LDKで、両親の結婚を機に祖父は母屋からそちらへ一人で移り住むようになったのだと聞いている。
 一昨年の冬に祖父が亡くなった為、その洋館は今は完全な空き家になっていた。

「リフォームはしてあるし、見た目の割に中はキレイだから誰かに貸そうかって話もあったんだけど、同じ敷地で他人にウロウロされるのも嫌でしょう。だからフェンスで完全に仕切って駐車場にしてしまおうかって」

 離れの洋館とその周辺の木々は、父の計画では解体と伐採の対象になっていた。更地にした後、月極駐車場にするのだという。近所にも新しいマンションやアパートが増えているから、確かに駐車場にしても需要はあるだろう。

「……そう、なんだ」

 あまりの突然のことに、梓はそれ以上の言葉が出ない。咲いたばかりの小花が切り落とされたどころの話じゃない。金木犀の木だけじゃなく、思い出の詰まった場所まで無くなる可能性が出てきたのだ。

 回収した枝や葉をゴミ袋へ一まとめしている母から離れて、梓は祖父が一人で住んでいた洋館へと歩いていく。小さい頃、優しい祖父と一緒に庭先に椅子を並べて、よく日向ぼっこをしていた。両親が共働きだったから、小学校を下校した後は、親が帰ってくるまでの時間の大半を離れで過ごしていた。

 最近ではもう、あまり近寄ることが無くなっていた洋館は、住む人がいなくなったせいか、さらに古ぼけて見える。外壁のタイルの一部が剥がれ落ちているし、入口前の石畳みは砂埃が溜まっている。今すぐ撤去すると言われても強く反対はできそうもない。

 と、そんな建物のすぐ横、エアコンの室外機の上で、少し小柄な三毛猫がこちらに視線を送りながらも後ろ足を上げて毛繕いをしているのに気付いた。