「佳奈ちゃん、今日も塾あるんじゃないのぉ?」

 二階の東向きの角部屋の前で、愛華は朝から途方に暮れていた。ダイニングテーブルの上には昼食用のお弁当が用意されているから、今日も春期講習があるはずなのだが……。

 部屋の中からは人が動く物音がしているので、佳奈はとっくに起きているとは思う。けれど、いつもなら起きて出掛けている時間が迫っても、一向に部屋から出てこようともしない。鍵が掛けられていてドアノブはぴくりとも動かないし、愛華の声に返事もしてくれない。親達はとっくに出勤していて、家にいるのは娘二人だけ。姉として放っておくわけにもいかず、ドアの前からずっと声を掛けているのだ。

 ――ボイコットってことか。気持ちは分からないでもないんだよね……。

 転校するなら中学受験対策なんて必要なくなってしまう。じゃあ、何の為に塾へ行けというのか。
 佳奈くらいの年齢の子は大人が言うことの矛盾にとても敏感だ。愛華だって、ついこないだ反抗期を脱却したばかりだから、そっち側の気持ちは十分過ぎるほどよく分かる。それまでは完璧な存在だと思っていた親の理不尽さや身勝手さに、強い嫌悪感を抱いてしまうのだ。

「お母さんに塾はお休みするって連絡しておくから、とりあえず起きて朝ご飯食べなよ。お腹はすいてるよねー?」

 昨日の夕ご飯も半分しか食べてなかったし、絶対に今お腹はペコペコなはずだし、成長期真っ只中で朝ご飯を抜くなんてとんでもない。とりあえず親が居ない今は休戦して、下に降りておいでよと誘いかける。

 先に一階に戻ってから、愛華は普段と同じようにグラスにヨーグルトドリンクを注ぎ入れ、バターロールの入った袋と一緒にダイニングテーブルの上に置いた。そして、佳奈の席の向かいに腰かけてから、スマホで柚月へとメッセージを送る。

『佳奈ちゃん、今日の塾は行きたくないみたいです』

 仕事中だからどうだろうと思っていたが、継母からの返信は数分で届いた。

『愛華ちゃんにまで迷惑を掛けちゃって、ごめんなさいね。塾へは欠席連絡しておきます』

 昨夜の「お母さんは勝手なことばかり言って、いつも私のことを振り回すんだから」という佳奈の台詞は、柚月には相当堪えていたみたいだった。愛華自身も同じ子供の立場だから、全くその通りで否定する余地なんて無いだろうなと客観的に見ていて思った。ただ、愛華と佳奈との違いは親から養育される必要のある年齢かどうかで、その差は思っている以上に大きい。

 リビングと廊下を遮っている扉がそーっと開かれるのに気付き、愛華は出来るだけいつも通りを装って声を掛ける。

「佳奈ちゃん、おはよう」
「……おはよう」
「朝ご飯、パンだけでいい? 足りなければ、おにぎりでも作ろうか? 具は梅干ししか無いけど」

 フルフルと首を横に振ってからテーブルの自分の定位置に座ると、佳奈はバターロールの袋に手を伸ばす。やっぱりお腹が空いていたらしく、いつもは2個でお終いにする佳奈が3個目もぺろりと食べきって、まだ微妙に物足りないのか袋の中を覗き込んでいる。

「そうだ、昨日バイト先でシュークリーム買ってきたんだった。佳奈ちゃん、食べる? 値引き品だったから、賞味期限は昨日で切れてるんだけど」

 カスタードとホイップのWクリーム入りの定番シュー。バイト終わりにたまたま買って帰ってきたのを思い出した。妹が頷いたのを確認すると、冷蔵庫から手のひらサイズのパッケージを取り出す。赤色の値引きシールが貼ってあるが、賞味期限はまだ半日しか過ぎてないから大丈夫。そのビッグサイズに佳奈は少し驚いていたようだったが、袋から出して大きな口でかぶりつき始める。

 いきなり出来た歳の離れた妹の、その食べっぷりの良さを愛華は小さく微笑みながら見ていた。佳奈が何が好きで何が苦手なのかはまだ知らなかったけれど、甘い物は結構好きなんだろうなということだけは今分かった。

 横からはみ出るクリームに苦戦しながらもビッグシューを食べ終わった佳奈は、お腹が満たされたからなのか落ち着いたように見えた。少し上目遣いがちに愛華を見上げて聞いてくる。

「今日の塾は、休んでもいいの……?」
「お母さんが、欠席連絡しておくって」
「……良かった」

 ボイコットが功を奏したことに安心したのか、ふぅっと鼻から長い息を吐いている。別に柚月は教育ママというタイプでもなさそうだから、塾をずる休みするくらいは何ともない気もするのだが……佳奈本人が真面目過ぎるのかもしれない。

「佳奈ちゃんが、転校したくない気持ちも分かるんだよねぇ」

 物心ついた頃からずっとこの家で、愛華は転校どころか引っ越しすら経験したことがない。途中で入ってきた転入生達を思い浮かべて、慣れるまでかなり大変で居心地が悪いことだけは容易に想像できる。姉の言葉に、佳奈は黙って頷いていた。

「6年生だと、完全にグループ出来上がっちゃってるもんね。あと、関西なら言葉も違うし……私でも自信ないかな」

 思わず本音が漏れて、しまったと佳奈の方を見る。目に涙を溜めつつも堪えていた妹は、完全に俯いてしまった。
 こういった場合は前向きな言葉を掛けてあげるべきだったと反省しながら、佳奈の目の前のグラスにヨーグルトを注ぎ足した。

「愛華お姉ちゃんは? お父さんと一緒に先に大阪へ行くの?」
「私は行かないよ。家から通える大学だから、一人でここに残ってる」
「え、行かないの?!」

 愛華も自分と同じ扱いだと思っていたらしく、佳奈は目を丸くして驚いた様子だった。「なんで?!」と問いただされて、「大学生で一人暮らしは珍しいことじゃないよ」と教えると愕然としていた。

「なんで小学生は親と一緒じゃないとダメなの……?」
「小学生はまだ未成年だからね。大人と一緒にいなきゃいけないの」
「……ずるい」

 そう言われてもねぇ、と愛華は困惑しながら眉を寄せた。