「予定日通りなら、修司さんのお盆休みに間に合うんだけど、そう上手くはいかないわよね」

 そう言っていた柚月が下腹部に異変を感じたのは、八月に入ってすぐのこと。サンルームで洗濯物を干し終えてから、猫草が植わっているプランターに霧吹きで水やりしている時だ。
 シクシクと痛み始める下腹部に、困った表情だけど嬉しそうに笑いながら呟く。

「あーあ、病院に電話しなきゃ……」

 そして、お腹の痛みが治まるのを待った後、キッチンで食器を洗い始める。大きなお腹を擦りながら家事を続ける母のことを、ソファーテーブルで夏休みの宿題をしていた佳奈が首を傾げながら見る。産院に連絡すると言っていた気がするけれど、どう見ても普段通りで焦った様子もない。聞き違いかとシャーペンを握り直して、問題集へと視線を戻す。

 と、また柚月がお腹に手を当てて動きを止める気配。そして、リビングの壁に掛かった時計を見上げてから娘へと言ってくる。

「陣痛が始まったから、一時間後に来て貰えるようにタクシーを呼ぶわね。お母さん、今からシャワー浴びてくるから、その間に来たら少し待って貰うように言ってくれる?」
「え、すぐに病院に行かなくていいの?! あ、愛華お姉ちゃんに連絡しなきゃ……!」
「大丈夫よ。まだ10分間隔が始まったばかりだもの、そんなすぐには生まれないから」
「え、で、でも……そんな、のんびりしてていいのっ?!」
「平気平気。二人は電車で後で来てくれたらいいわ。来る時に二階に置いてるスーツケースを持って来てくれる? 小さい方のね、着替えとかが入ってるから」

 母親はいたって平静だ。キッチンを片付け終えると、シャワーを浴びに浴室へと向かっていく。母の落ち着きとは反対に、慌てた佳奈がバイト中の愛華へと自分のスマホで連絡を取る。たまたま休憩中だった愛華が出ると、パニック寸前の妹が理解不明なことを話し出す。

「お、お姉ちゃんっ。お母さんが陣痛始まったって、今お風呂入ってるの!」
「へ? なんで、お風呂に?」
「タクシー来たら、病院に行くって言ってる。私達は後で荷物を持って来てって……」
「う、うん、分かった、すぐ帰るから。――え、でも何で今、お風呂に?」
「分かんない。お母さんは、まだ生まれないって言ってる」
「え、でも、陣痛来たんでしょう?」

 出産経験の無い二人には、母の行動が理解できない。陣痛が始まったら、一気にバタバタするものかと思っていたから、一通りの家事を済ませて悠長に入浴してる場合じゃないのでは、と。

 店長の許可を貰ってバイトを早退した愛華が、急ぎ足で肩で息しながら帰宅した時、自宅の前には一台のタクシーが停車していた。慌てて玄関に飛び込めば、ちょうどこれから病院へと向かうつもりの柚月が、少し大きめのトートバッグだけを手に出ようとしているところだった。

「あ、おかえりなさい。これから病院に行ってくるわね。佳奈にも言ったんだけど、二階から小さい方のスーツケースを持って来て欲しいの」
「た、ただいま……お父さんにはもう?」
「ええ。半休取って急いで帰って来るって言ってたけど、さすがに間に合わないわよねぇ」

 仕方ないわ、と少し寂しそうに笑いつつ、柚月は「じゃあ後で来てね」と娘二人に声を掛けてから、タクシーへと乗り込んでいく。
 当の本人があまりにも落ち着いているから、これから出産が始まるという実感がまるで無い。半ば呆気に取られつつも、愛華達は二階の寝室に用意されていたスーツケースを取りに階段を上がる。

 二人揃って電車に乗って訪れた産院は、パンフレットの写真で見たよりも少し年季の入った建物だった。ただ、数年前に内装をリフォームしたというだけあり、室内は白と淡いピンクで統一されていてとても清潔感がある。USENから流れるオルゴールの優しい曲に、慌てふためいていた気持ちが少し落ち着きを取り戻した。

 受付で案内された個室のドアをノックして、そっと中の様子を伺ってみる。すると、ベッドに横たわった母のお腹に、助産師が聴診器を当てて診察しているところだった。

「あら、早かったわね。荷物はそこのソファーの横にでも置いてくれる?」

 娘達の顔に、柚月は心底嬉しそうに笑い掛けてくる。家を出た時とは違うライトブルーの入院着の母は、ベッド横にいる助産師へ「うちの娘です」と二人のことを紹介していた。

 話している途中で辛そうに顔を歪める時間帯があるが、またしばらくすると平然と会話を続ける。陣痛の波が押し寄せては引いていく、その度に全員が壁の時計を見上げてその間隔を確認していた。

「ね、陣痛が始まったからって、すぐに生まれる訳じゃないのよ」

 病室に入って来た時の娘達の不安そうな顔を思い出したのか、柚月はケラケラと笑っている。自分が出産する時の為に覚えておきなさい、と言われても、愛華も佳奈も自分が子供を産む時のことなんてまだ想像ができない。

「そろそろ、お部屋を移動しましょうか」

 そう言って助産師が車椅子を押して個室へと入って来ると、柚月は「じゃあ、頑張って産んでくるわね」と娘達へ声を掛けた。