最近は見なくなったと思っていた、白い夢。その真っ白な空間で愛華は彷徨い歩いていた。どこからか聞こえてくる、聞き慣れた声。その声はまた、いつものように無情に言い放つ。

「愛華とあの子は他人だよ。だって、何の繋がりも無いあの子は、本当の妹じゃないからね」

 愛華よりも先に母のお腹に命を宿した、兄か姉。生まれてくることは無かったけれど、愛華にとっては正真正銘の血の繋がりのある兄弟。初期の胎児の状態から育つことは無かったくせに、外の世界を知らないくせに、いつまでも愛華の心の奥に住み着いて離れない存在。

 それは血の繋がりを傘に、いつでも愛華のことを支配しようとしてくる。言い返そうとしても、いつもこの場では愛華が声を出すことは叶わない。

 でも、と愛華は必死で首を横に振った。言葉は封じ込めても、動作は止められないらしい。自由に動かせる身体で、必死に反論する。

 その反応が、あれにはとても気に食わなかったみたいだ。これまでは言われるままだった愛華が、初めて反抗の態度を見せたのだから。
 白かったはずの空間が、一気に真っ赤へと変わっていく。血を連想させるような、赤く攻撃的な世界。その赤はどんどん濃くなり、やがて真っ黒に変わり、最後には完全な暗闇が広がっていった。

 ソファーでのうたた寝から目が覚めて、愛華はハッと起き上がる。首筋から背中にかけてが、嫌な汗でじっとりと湿っている。
 すぐ傍にはクルミが丸くなっていて、目は閉じているみたいだが耳だけをピクピクと動かしていた。

 夕食後、佳奈が先にお風呂に入っている間にソファーに横になったまでは覚えている。洗面所の方からドライヤーの音が聞こえてきているので、妹の入浴時間を考えてもまだ半時間も経っていないみたいだった。

 今日は佳奈の塾の無い平日。だから、大阪にいる両親からビデオ通話のある日だ。佳奈と同じで時間に正確な柚月からの電話は毎回決まって20時半に掛かってくる。それに合わせて急いでお風呂に入った佳奈のことを待つ、ほんの短時間に油断して居眠りしてしまった。

 時間通りに掛かってきたビデオ通話を、愛華は佳奈の横で眺めていた。普段と同じ柚月の細かい確認から始まり、来月に控えた卒業式には二人揃って有休を取れたという報告。
 そして、柚月がおもむろに確認してきた。

「愛華ちゃんも、聞いてくれてる?」
「――はい。佳奈ちゃんの横にいます」

 二人のやり取りを静かに聞いていた愛華にも、急に声を掛けてくる。不意打ちに近くて、返事が少し遅れてしまった。改まってどうしたんだろうと、佳奈の持つスマホの画面に顔を寄せて、愛華もカメラに映り込んでみせる。

「ほら、こっちも修司さんも一緒に入って」
「ああ、うん」

 互いのカメラに二人ずつ入り、画面には家族全員の顔があった。

「あのね、そちらの二人に伝えたいことがあるの」

 ちょっと照れたように笑っている母親のあまり見慣れない表情に、佳奈が首を傾げる。愛華も父のニヤケ顔はあまり見たことがなく、目をぱちくりさせながら画面を眺めていた。

「まだこれからどうなるかは分からないんだけどね。今年の夏、二人に妹か弟が生まれる予定です」
「「え?!」」

 愛華と佳奈の驚きの声がハモった。

「もう性別は分かる周期には入ってるんだけどね、どうしても見せてくれないのよ……恥ずかしがり屋さんなのかしら」

 エコー画像らしき白黒の感熱紙をカメラに向けてくるが、愛華達には何をどう見て判別すればいいのかさっぱり分からない。ここが頭でね、と丁寧に説明してくれている両親の様子を、二人は唖然と見ているだけだった。

「だからね、卒業式と入学式には絶対に戻るつもりでいるんだけど、それ以外は少し難しくなりそうなのよ。私は、もうすぐ安定期に入るから平気だって言ってるんだけど……」
「ダメだって。無理して何かあったらどうするんだ。必要な時は俺が帰るから――」

 修司の心配症が発動しているらしく、柚月が困った顔をしている。悪阻がほとんど無かったみたいで、気付くのが遅れて最近になって妊娠が発覚したようだ。生理周期のズレは早くも更年期が来たのかと勘違いしちゃってたわ、とケラケラと笑っている。
 反対に、修司は柚月の言動にいちいちオロオロしている。妻の妊娠なんて19年ぶりのことで、父が狼狽えるのも無理はない。

「えっと……私、お姉ちゃんになるの?」
「みたいだね」

 ようやく頭の中が整理できたらしい佳奈が、隣にいる愛華へと確認してくる。画面の向こうでは新婚夫婦が二人の世界に浸りだしていた。あっちよりは姉に聞いた方が早いと判断したのだろう。

「産休に入ればそっちに帰るつもりだし、育休中には修司さんも元の職場に戻ってこれるはずだから。あと数か月は二人に今の生活を続けてもらうことになっちゃうんだけど……」
「こっちの病院で出産ってこと?」
「ええ。愛華ちゃんにはさらに迷惑を掛けて申し訳ないんだけど……佳奈ももう中学生なんだし、ある程度はできるようになってもらわないと」

 すでに柚月の両親は他界しているから里帰りできる実家も、手伝ってくれる親族もいない。家事のできない夫といるよりは、娘二人の家に帰る方が産前産後には優しいと判断したのだという。

「うん、分かった」

 力強く頷き返した妹のことを、愛華は微笑ましく見守っていた。

 柚月のお腹に命を宿した子は、紛れもなく愛華とも佳奈とも血の繋がった兄弟。それは確実に姉妹のことを家族と認める存在で、戸籍上だけという脆かった関係をしっかりと繋ぎとめてくれる。