お風呂上りに髪をタオルドライしながらリビングを横切りかけ、愛華は父に呼び止められた。今さっき帰って来たばかりらしく、ソファーの横には通勤鞄が転がったまま。スーツ姿の父は眉を下げた困り顔で、ソファーに座る新妻と話し込んでいた。
「愛華、ちょっといいかな? 相談事があるんだ」
「あ、うん……」
二人の間に漂う、どんよりとした空気に、あまり良い話ではないことだけは分かった。柚月は座ったまま両手で頭を抱えているし、父は何度も溜め息をついている。着替えを後回しにするくらい、只事じゃないのだろう。
ソファーではなくカーペットの上に鎮座して、愛華はソファーに座る両親のことを覚悟しながら見上げた。
「あのさ。お父さん、早ければ来月から関西支社へ移動になりそうなんだ」
「え、転勤ってこと? 関西支社ってことは大阪かぁ」
「ああ。長くても2年だけだし、柚月さんも仕事がある。お父さん一人で行こうかと思ってるんだけど……」
新婚ほやほやでの単身赴任。柚月が頭を抱えて唸っている理由を理解する。もう大学生になる愛華自身は一人暮らしだって平気だから、「あー、そうなんだ」で済ませる話だが、籍を入れて同居したばかりの新妻には溜まったものじゃない。かと言って、夫の転勤に付いていく為にこれまで積み上げてきた彼女のキャリアを放り出せる訳もない。
「断れ……そうもないんだね」
ふるふると首を横に振る父の様子から、新婚を理由に辞退できる状況ではないらしい。
「てか、お父さん、一人で生活できるの? 家事全くじゃない」
「……それは、お父さんも大人だから何とかするよ。――ちょっと大きいトラブルがあってね。出張レベルでは対処できないんだよ。まあ、休暇ごとに帰ってくるようにはするけど」
「ゆ……お母さんは、それで納得してくれたの?」
「柚月さん」と再婚前の呼び名が口に出かけ、慌てて言い直した。「そう簡単に仕事は辞められないわ」と唸り続ける母に、「ですよねぇ」と頷き返す。そして、何気なくボソッと呟いた。
「……こういう時って、同じ会社なら夫婦揃って転勤になるんだよね」
「うちにも大阪に支社があれば、いくらでも移動願いが通る可能性はあるんだけど。どこもトレーナーの数が足りてないはずだから――」
そう言い掛けて、柚月がハッと顔を上げる。
「大阪じゃないけど、京都ならあるわ! 明日、上司に相談してみようかしら」
「そうか。会社が用意してくれる部屋からも、京都なら通勤圏だと思うよ」
「もうっ、なんでこんなことに気が付かなかったのかしら……」
とりあえず明日は朝一で会社に話をしてみるわと、柚月はさっきまでとは打って変わった明るい笑顔を見せる。さすがに再婚早々での別居話はショックが大きかったみたいだ。解決への糸口が見え、普段と変わらない朗らかな表情に戻る。
とりあえず柚月の会社の返答次第だと、その日の話し合いはそこまでで終わった。まだ小学生の佳奈には全てが確定してからでいいと、三人の意見が一致したからだ。
柚月が会社から京都支社への転勤願いが受理されたのは、その数日後のこと。新婚という家庭の状況を考慮してもらえたのか、時期は修司の移動と同じ来月から。女性幹部の多いジェンダーレスな会社はその辺りの対応が手厚い。ただし引き継ぎなどもあるので半月ほどズレるのは仕方がない。それくらいなら家事のできない彼でも何とか一人で生活できるはずだ。
ただ問題は……。
「転校なんて、絶対にイヤ! 6年生は修学旅行もあるんだよ、知らない子達と一緒に行けって言うの?!」
「でも、佳奈を置いてくなんて出来ないでしょう? 修学旅行までに新しいお友達だってできるかもしれないじゃない」
「そんなの、どこの学校でもとっくにグループ出来てるに決まってるし」
「でもほら、向こうに行ってるのは2年だけだから。あっという間に戻ってこれるのよ」
「2年後って、戻って来てもみんなとは別の中学になるんでしょ?! ……もうっ、お母さんは勝手なことばかり言って、いつも私のことを振り回すんだからっ」
夕食時に母親から折り入って話があると切り出され、まだお茶碗に半分ご飯が残っている状態で席を立ってしまった佳奈。娘の剣幕にオロオロと狼狽えている柚月に、全部自分が持って帰ってきた転勤話のせいだと修司まで落ち込み始める。おとなしい子がキレると、周囲はどう扱って良いか分からなくなる。
その三人の様子を愛華は他人事のように眺めていた。普段は物静かな妹が怒る気持ちもよく理解できる。でも、まだ保護者の下で生活しないといけない小学生なのだから、母親と一緒に行かなければならないのも事実。佳奈には端から選択肢なんて用意されてはいない。親の決断に従うしかないのだ。
かと言って、再婚したばかりの両親がいきなり別居するのもどうかと思う。難しいところだ。
二階のドアがバンと大きな音を立てて閉められたのが天井を伝って聞こえてくる。まだ幼い妹は親の都合でついこないだ引っ越しを強いられたばかり。それだって結構な負担だったはずだから、怒るのも当然。特に佳奈は受験をして今の小学校に通っている。同じ系列の中学へ進学するには6年生の年明けに試験を受ける必要があり、一度転校して2年後に帰ってきたところで佳奈には今の同級生達と同じ学校へ通える資格は無く、知らない子だらけの私立か公立中への転入しか選択肢がない。
――せめて、佳奈ちゃんがまだ低学年の内だったら良かったのに……。
拘りも少なく環境適応能力の高い小さな頃なら、ここまで頑なに拒否されることもなかっただろう。微妙な年頃の佳奈にはかなり辛いはずだ。
そのことが分かっているからこそ、三人は示し合わせたようにほぼ同時に大きな溜め息を吐いた。
「愛華、ちょっといいかな? 相談事があるんだ」
「あ、うん……」
二人の間に漂う、どんよりとした空気に、あまり良い話ではないことだけは分かった。柚月は座ったまま両手で頭を抱えているし、父は何度も溜め息をついている。着替えを後回しにするくらい、只事じゃないのだろう。
ソファーではなくカーペットの上に鎮座して、愛華はソファーに座る両親のことを覚悟しながら見上げた。
「あのさ。お父さん、早ければ来月から関西支社へ移動になりそうなんだ」
「え、転勤ってこと? 関西支社ってことは大阪かぁ」
「ああ。長くても2年だけだし、柚月さんも仕事がある。お父さん一人で行こうかと思ってるんだけど……」
新婚ほやほやでの単身赴任。柚月が頭を抱えて唸っている理由を理解する。もう大学生になる愛華自身は一人暮らしだって平気だから、「あー、そうなんだ」で済ませる話だが、籍を入れて同居したばかりの新妻には溜まったものじゃない。かと言って、夫の転勤に付いていく為にこれまで積み上げてきた彼女のキャリアを放り出せる訳もない。
「断れ……そうもないんだね」
ふるふると首を横に振る父の様子から、新婚を理由に辞退できる状況ではないらしい。
「てか、お父さん、一人で生活できるの? 家事全くじゃない」
「……それは、お父さんも大人だから何とかするよ。――ちょっと大きいトラブルがあってね。出張レベルでは対処できないんだよ。まあ、休暇ごとに帰ってくるようにはするけど」
「ゆ……お母さんは、それで納得してくれたの?」
「柚月さん」と再婚前の呼び名が口に出かけ、慌てて言い直した。「そう簡単に仕事は辞められないわ」と唸り続ける母に、「ですよねぇ」と頷き返す。そして、何気なくボソッと呟いた。
「……こういう時って、同じ会社なら夫婦揃って転勤になるんだよね」
「うちにも大阪に支社があれば、いくらでも移動願いが通る可能性はあるんだけど。どこもトレーナーの数が足りてないはずだから――」
そう言い掛けて、柚月がハッと顔を上げる。
「大阪じゃないけど、京都ならあるわ! 明日、上司に相談してみようかしら」
「そうか。会社が用意してくれる部屋からも、京都なら通勤圏だと思うよ」
「もうっ、なんでこんなことに気が付かなかったのかしら……」
とりあえず明日は朝一で会社に話をしてみるわと、柚月はさっきまでとは打って変わった明るい笑顔を見せる。さすがに再婚早々での別居話はショックが大きかったみたいだ。解決への糸口が見え、普段と変わらない朗らかな表情に戻る。
とりあえず柚月の会社の返答次第だと、その日の話し合いはそこまでで終わった。まだ小学生の佳奈には全てが確定してからでいいと、三人の意見が一致したからだ。
柚月が会社から京都支社への転勤願いが受理されたのは、その数日後のこと。新婚という家庭の状況を考慮してもらえたのか、時期は修司の移動と同じ来月から。女性幹部の多いジェンダーレスな会社はその辺りの対応が手厚い。ただし引き継ぎなどもあるので半月ほどズレるのは仕方がない。それくらいなら家事のできない彼でも何とか一人で生活できるはずだ。
ただ問題は……。
「転校なんて、絶対にイヤ! 6年生は修学旅行もあるんだよ、知らない子達と一緒に行けって言うの?!」
「でも、佳奈を置いてくなんて出来ないでしょう? 修学旅行までに新しいお友達だってできるかもしれないじゃない」
「そんなの、どこの学校でもとっくにグループ出来てるに決まってるし」
「でもほら、向こうに行ってるのは2年だけだから。あっという間に戻ってこれるのよ」
「2年後って、戻って来てもみんなとは別の中学になるんでしょ?! ……もうっ、お母さんは勝手なことばかり言って、いつも私のことを振り回すんだからっ」
夕食時に母親から折り入って話があると切り出され、まだお茶碗に半分ご飯が残っている状態で席を立ってしまった佳奈。娘の剣幕にオロオロと狼狽えている柚月に、全部自分が持って帰ってきた転勤話のせいだと修司まで落ち込み始める。おとなしい子がキレると、周囲はどう扱って良いか分からなくなる。
その三人の様子を愛華は他人事のように眺めていた。普段は物静かな妹が怒る気持ちもよく理解できる。でも、まだ保護者の下で生活しないといけない小学生なのだから、母親と一緒に行かなければならないのも事実。佳奈には端から選択肢なんて用意されてはいない。親の決断に従うしかないのだ。
かと言って、再婚したばかりの両親がいきなり別居するのもどうかと思う。難しいところだ。
二階のドアがバンと大きな音を立てて閉められたのが天井を伝って聞こえてくる。まだ幼い妹は親の都合でついこないだ引っ越しを強いられたばかり。それだって結構な負担だったはずだから、怒るのも当然。特に佳奈は受験をして今の小学校に通っている。同じ系列の中学へ進学するには6年生の年明けに試験を受ける必要があり、一度転校して2年後に帰ってきたところで佳奈には今の同級生達と同じ学校へ通える資格は無く、知らない子だらけの私立か公立中への転入しか選択肢がない。
――せめて、佳奈ちゃんがまだ低学年の内だったら良かったのに……。
拘りも少なく環境適応能力の高い小さな頃なら、ここまで頑なに拒否されることもなかっただろう。微妙な年頃の佳奈にはかなり辛いはずだ。
そのことが分かっているからこそ、三人は示し合わせたようにほぼ同時に大きな溜め息を吐いた。