母が亡くなり、祖母が手伝いに来てくるまでの間、まだ幼かった愛華はこの家で父と二人きりになった。毎日仕事で遅くなる父を、一人で待つ時間はとても長くて、とても心細かった。小さな愛華にはこの家は大きすぎる。あの時ほど一人っ子じゃなかったら良かったのにと思ったことはない。兄弟がいれば、こんなに寂しくはないのにと。
だから、コンビニで買って来た弁当をレンジで温め直している父に向かって聞いた。
「どうして家には、子供が私しかいないの?」
いきなりそんなことを言い出すとは思ってなかった父は、最初は驚いた顔をしていた。でも、父の表情はすぐに寂しそうなものへと変わる。
「お母さんの身体が弱かったからね、結婚する前から子供は一人だけにしようって決めてたんだよ」
子供を産み育てるのは命懸けだ。心臓の弱かった母には妊娠も出産も身体への負担が大きい。それでも子供は欲しいと願った妻に、なら一人だけにしてくれと父が約束させたのだという。
――じゃあ、お兄ちゃんかお姉ちゃんが先に生まれていたら、私は生まれてなかったんだ……。
この家に生まれて来ることができた子供は一人だけ。たまたま先に宿した命が途中で消えてしまったから、代わりに今の自分がいる。それは奇跡でもあり、とても残酷な現実。兄弟が持つべき権利を自分が奪ってしまったのかもという罪悪感。
優しくて完璧だった空想上の兄か姉が、それ以降はとても意地悪な存在に変わっていった。ダメな妹のことを小馬鹿にし、愛華じゃなければ良かったのにと囁いてくる。愛華が辛い時ほど現れて、自分ならちゃんと上手くやれたのにと呪いの言葉を吐いていく。
最近ではすっかり忘れかけていた存在のことが頭を横切ったのは、真っ暗で人の気配のない家に帰ってきたからだろうか。完全に誰も居ない家は久しぶりだ。タイマーで点灯する玄関ポーチの灯りだけが、バイトで遅くなった愛華のことを迎えてくれる。
数か月前までは当たり前のことで、何とも思っていなかったのに今日はやけに寂しさを覚える。
「みー」
玄関を入ると、暗がりの中をクルミが駆け寄ってくる。この家にいた唯一の存在に愛華は少しホッとする。そうだ、一人じゃなかったんだと。
小さな丸い頭を撫でてやると、子猫は甘えるように愛華の脚に擦り寄ってきた。
「ただいま、くーちゃん」
声を掛けながら一緒にリビングへ向かい、壁際のスイッチを押す。ぱっと明るくなった室内は、普段よりもガランとしていて何だか物寂しい。猫の為に点けっ放しにしていたエアコンの稼働音だけが耳に届く。この家はこんなに広かったっけと首を傾げる。
誰も居ない状態にはとっくに慣れていたし、本来ならこれが当たり前になるはずだった。まだ小学生の妹が親と離れて自分と二人だけで暮らす状況なんて、考えてもみなかった。
子猫のご飯を用意した後、自分の夕食を作る為に冷蔵庫の扉を開けてみるが、中の食材を見ても献立がちっとも思いつかない。残り食材でパパっと料理するのは割と得意な方だったはずが、柚月が買い置いてくれた食材がぎっしり詰まった庫内を眺めていても、これと言って作りたいものが浮かばない。
「……ふぅ」
疲れている時に一人分だけを料理するというのは、思った以上にやる気を必要とする。自分しか食べる人がいないと思うと、作る意欲が湧かないというか……。一人暮らしで毎日自炊している人は、ものすごく料理が好きな人か、ただ時間を持て余しているのか、或るいは最強の意思の持ち主なのではとさえ思えてくる。
お手軽に食べれる納豆やレトルトの味噌汁と、作り置きの総菜をタッパーごとテーブルに並べて、愛華は「いただきます」とは声を出さず、ただ静かに手を合わせた。夕食を一人で食べるのは何か月ぶりだろう。
部屋の隅でカリカリを食べながらクルミが漏らす「あむあむ」という声が、一人じゃないよと慰めてくれているようだった。
正直、両親がほぼ同時に転勤することが決まった時、期間限定とはいえ一人暮らしができると思ったら嬉しかった。ついこないだまで他人だった柚月達へ気を使うことも無くなるし、自分以外の好みを気にせず好きな物を好きな時に作って食べればいいかと思うと、気楽でしかない。
だから、佳奈が付いていかないと言い出した時に、面倒だなと思ったのは本当だ。いつも部屋に閉じこもっていて何も喋らない妹と二人暮らしなんて、どう考えても詰まらないし、まともに成立しないと思っていた。近所の人達が噂しているように、体よく子守りを押し付けられた損な役回りだと思った。
意地悪な兄姉が言うように、愛華にとって佳奈は血も繋がらない、よその子だったから。気心の知れない他人との生活なんて、まっぴらごめんだと思っていた。最初から分かりやすく人見知りしていた佳奈とは違い、愛華は距離を詰めているフリをしながらも妹に対して壁を作っていた。姉妹というものがまるで分っていなかったから。
でも少しずつ少しずつだけれど、一緒に暮らしていく中で佳奈という子の一部が分かってくると、妹という存在を受け入れ、寄り添おうとしている自分がいた。幼さの残る佳奈のことを可愛いと思える余裕も出始めていた。まだ不完全だと思うが、一人っ子だった愛華がお姉ちゃんになりつつあった。この中途半端な姉のことを、妹が認めてくれる日が来るのかは分からない。
ただ今言えるのは、一人きりは詰まらないということだけだ。
だから、コンビニで買って来た弁当をレンジで温め直している父に向かって聞いた。
「どうして家には、子供が私しかいないの?」
いきなりそんなことを言い出すとは思ってなかった父は、最初は驚いた顔をしていた。でも、父の表情はすぐに寂しそうなものへと変わる。
「お母さんの身体が弱かったからね、結婚する前から子供は一人だけにしようって決めてたんだよ」
子供を産み育てるのは命懸けだ。心臓の弱かった母には妊娠も出産も身体への負担が大きい。それでも子供は欲しいと願った妻に、なら一人だけにしてくれと父が約束させたのだという。
――じゃあ、お兄ちゃんかお姉ちゃんが先に生まれていたら、私は生まれてなかったんだ……。
この家に生まれて来ることができた子供は一人だけ。たまたま先に宿した命が途中で消えてしまったから、代わりに今の自分がいる。それは奇跡でもあり、とても残酷な現実。兄弟が持つべき権利を自分が奪ってしまったのかもという罪悪感。
優しくて完璧だった空想上の兄か姉が、それ以降はとても意地悪な存在に変わっていった。ダメな妹のことを小馬鹿にし、愛華じゃなければ良かったのにと囁いてくる。愛華が辛い時ほど現れて、自分ならちゃんと上手くやれたのにと呪いの言葉を吐いていく。
最近ではすっかり忘れかけていた存在のことが頭を横切ったのは、真っ暗で人の気配のない家に帰ってきたからだろうか。完全に誰も居ない家は久しぶりだ。タイマーで点灯する玄関ポーチの灯りだけが、バイトで遅くなった愛華のことを迎えてくれる。
数か月前までは当たり前のことで、何とも思っていなかったのに今日はやけに寂しさを覚える。
「みー」
玄関を入ると、暗がりの中をクルミが駆け寄ってくる。この家にいた唯一の存在に愛華は少しホッとする。そうだ、一人じゃなかったんだと。
小さな丸い頭を撫でてやると、子猫は甘えるように愛華の脚に擦り寄ってきた。
「ただいま、くーちゃん」
声を掛けながら一緒にリビングへ向かい、壁際のスイッチを押す。ぱっと明るくなった室内は、普段よりもガランとしていて何だか物寂しい。猫の為に点けっ放しにしていたエアコンの稼働音だけが耳に届く。この家はこんなに広かったっけと首を傾げる。
誰も居ない状態にはとっくに慣れていたし、本来ならこれが当たり前になるはずだった。まだ小学生の妹が親と離れて自分と二人だけで暮らす状況なんて、考えてもみなかった。
子猫のご飯を用意した後、自分の夕食を作る為に冷蔵庫の扉を開けてみるが、中の食材を見ても献立がちっとも思いつかない。残り食材でパパっと料理するのは割と得意な方だったはずが、柚月が買い置いてくれた食材がぎっしり詰まった庫内を眺めていても、これと言って作りたいものが浮かばない。
「……ふぅ」
疲れている時に一人分だけを料理するというのは、思った以上にやる気を必要とする。自分しか食べる人がいないと思うと、作る意欲が湧かないというか……。一人暮らしで毎日自炊している人は、ものすごく料理が好きな人か、ただ時間を持て余しているのか、或るいは最強の意思の持ち主なのではとさえ思えてくる。
お手軽に食べれる納豆やレトルトの味噌汁と、作り置きの総菜をタッパーごとテーブルに並べて、愛華は「いただきます」とは声を出さず、ただ静かに手を合わせた。夕食を一人で食べるのは何か月ぶりだろう。
部屋の隅でカリカリを食べながらクルミが漏らす「あむあむ」という声が、一人じゃないよと慰めてくれているようだった。
正直、両親がほぼ同時に転勤することが決まった時、期間限定とはいえ一人暮らしができると思ったら嬉しかった。ついこないだまで他人だった柚月達へ気を使うことも無くなるし、自分以外の好みを気にせず好きな物を好きな時に作って食べればいいかと思うと、気楽でしかない。
だから、佳奈が付いていかないと言い出した時に、面倒だなと思ったのは本当だ。いつも部屋に閉じこもっていて何も喋らない妹と二人暮らしなんて、どう考えても詰まらないし、まともに成立しないと思っていた。近所の人達が噂しているように、体よく子守りを押し付けられた損な役回りだと思った。
意地悪な兄姉が言うように、愛華にとって佳奈は血も繋がらない、よその子だったから。気心の知れない他人との生活なんて、まっぴらごめんだと思っていた。最初から分かりやすく人見知りしていた佳奈とは違い、愛華は距離を詰めているフリをしながらも妹に対して壁を作っていた。姉妹というものがまるで分っていなかったから。
でも少しずつ少しずつだけれど、一緒に暮らしていく中で佳奈という子の一部が分かってくると、妹という存在を受け入れ、寄り添おうとしている自分がいた。幼さの残る佳奈のことを可愛いと思える余裕も出始めていた。まだ不完全だと思うが、一人っ子だった愛華がお姉ちゃんになりつつあった。この中途半端な姉のことを、妹が認めてくれる日が来るのかは分からない。
ただ今言えるのは、一人きりは詰まらないということだけだ。