横山家の玄関から真っ直ぐに伸びた廊下の一番突きあたり、襖で仕切られた向こうには六畳と五畳とが続く和室二間。六畳の方は日当たりも良いので客間として使われていたこともあり、木目調の長テーブルだけが置かれた床の間付きの空間。そして、その隣の和室には半畳ほど幅のある仏壇がひっそりと置かれていた。
若いままもう歳を取らなくなった母の遺影の隣へ、水を替えたばかりの花瓶を置き直すと、愛華はそっと両手を合わせて目を閉じる。刻一刻と、愛華は母の年齢へと着実に近付いている。いつか必ず、母の歳を追い越す時が来るのだろう。ずっと父親似だと思っていたのに、最近では鏡の中に母の面影がちらりと見えることがあるのが不思議だった。
こうやって花瓶の水を入れ替えたり、仏間の窓を開けて換気しながら亡き母を偲ぶことは、当たり前のように本来は日課として行うべきなんだろう。でも実際問題、そんな熟年の老夫婦のような余裕なんてない。気が付いた時には、仏花の水が枯れてドライフラワーみたいになってしまっていたことも……。愛華も修司もそこまでマメな性格じゃないから、そんなことは珍しくも何ともない。
母が怒って夜中に枕元で恨み節を言うような人でなくて本当に助かった。
玄関の方から佳奈の「いってきます」という声が聞こえてくる。相変わらずの正確な登校時間。もうあの時のように寝過ごすこともなく、この家での妹の生活が安定していることに安堵する。
結局、佳奈が実の父親と会うことにどう思っているかは、聞けずじまいだった。そこはもう愛華の立場では踏み入ってはいけない部分で、佳奈自身が話したいと思わない限りそっとしておくしかないのだ。
リビングへ戻りクルミのケージの中を確認してから、愛華も椅子の上に置きっぱなしにしていたトートバッグを肩に掛けた。今日は午後の講義が休講だから帰りにスーパーに買い出しに行くつもりで、財布の中身を確認する。
娘二人を置いて関西へ転勤してしまった両親からは、毎月月末に愛華名義の口座に生活費が振り込まれる。二人の生活には十分な金額を送って貰っていたし、愛華自身もバイト代がある。猫一匹が増えたくらいでは、金銭的な苦労は何もしていない。
「あら、愛華ちゃん」
「おはようございます」
玄関を出てすぐ、三件隣の川瀬さん家のおばさんに出会った。愛華より三歳年下だった睦美の母親だ。横山家の斜め向かいにある集積場へゴミ出しに行った帰りなのか、手ぶらでラフな普段着姿だ。久しぶりに顔を合わせた川瀬のおばさんは、ノーメイクだったから加齢によるシミや弛みが目立ち、声を聞くまでは一瞬誰だか分からなかった。でも、世間一般の母親世代というのはこれが普通なんだと思う。柚月が極端に若々し過ぎるんだ。
「愛華ちゃんも大変よねぇ、今はお父さんと離れて暮らしてるんでしょう? 大阪だったっけ? たまには帰って来てるの?」
「はい。月に一度は戻って来てます」
愛華のことを道路の隅に呼び寄せてから、少し声を潜めて話し続ける。電車の時間も迫っているから少し困り顔になった愛華のことはまるで気にもしていない。
「おばさん聞いたんだけど、新しいお母さんは子供を置いてお父さんに付いて行っちゃったんでしょ? で、愛華ちゃんが面倒見てるって、それ本当なの?」
「付いて行ったっていうか、お母さんも京都へ転勤になったんで……」
再婚してすぐに引っ越してしまったせいで、近所の人達は柚月のことをまだあまりよく知らない。「あら、お勤めされてるの?」と川瀬のおばさんは目をランランと輝かせて興味を示していた。早くに妻を亡くした父が何の前触れもなく子連れ再婚したものだから、おばさん達の井戸端会議へ格好のネタを与えているのだろう。
「まだ小学生なんでしょう? 一緒に連れていかないなんて、無責任よねぇ。子供よりも再婚相手を優先するなんて……」
すぐに否定しようと口を開きかけた愛華に、おばさんは同情的な表情を浮かべながら首を横に振ってみせる。
「何かあったら、すぐ言って。おばちゃんだって、相談に乗るくらいはできるから。まだまだ手がかかる子を押し付けて行くなんて、ありえないわよ」
「あ、いえ、違っ――」
「ご近所さん皆言ってるわ、継母が育児放棄して、愛華ちゃんが体のいい子守に使われてて可哀そうだ、って」
「あの、別にそういうのじゃ――」
「いいのよ。おばちゃんは愛華ちゃんの味方だから、困った時はいつでも言って――あらヤダ、洗濯の途中だったの忘れてたっ。長々とごめんなさいねぇ。今から大学? 気をつけてね」
言い返す間も与えないマシンガントーク。一方的に言うだけ言ってから、あっさりと手を振って帰って行くご近所さんの後ろ姿を、愛華は唖然としながら見送った。
出勤する柚月の姿を見掛けたことのあるご近所さんが、「何だか派手な方ね」と噂しているのを聞いたことはあった。柚月は仕事柄フルメイクが当然だ。でも、すっぴんでもマスクさえしていれば駅前のスーパーでも平気という田舎のおば様達からすれば、完全仕事モードの継母はかなり目立ってしまうみたいだった。
見た目で誤解されている上に、まだ小学生の娘を残して両親だけで引っ越してしまったことで、柚月は近所中の噂の的になっているようだった。子供よりも夫を取った意地悪な後妻という悪評は、必死で佳奈も一緒に連れて行こうとしていた柚月からすれば迷惑極まりない。
若いままもう歳を取らなくなった母の遺影の隣へ、水を替えたばかりの花瓶を置き直すと、愛華はそっと両手を合わせて目を閉じる。刻一刻と、愛華は母の年齢へと着実に近付いている。いつか必ず、母の歳を追い越す時が来るのだろう。ずっと父親似だと思っていたのに、最近では鏡の中に母の面影がちらりと見えることがあるのが不思議だった。
こうやって花瓶の水を入れ替えたり、仏間の窓を開けて換気しながら亡き母を偲ぶことは、当たり前のように本来は日課として行うべきなんだろう。でも実際問題、そんな熟年の老夫婦のような余裕なんてない。気が付いた時には、仏花の水が枯れてドライフラワーみたいになってしまっていたことも……。愛華も修司もそこまでマメな性格じゃないから、そんなことは珍しくも何ともない。
母が怒って夜中に枕元で恨み節を言うような人でなくて本当に助かった。
玄関の方から佳奈の「いってきます」という声が聞こえてくる。相変わらずの正確な登校時間。もうあの時のように寝過ごすこともなく、この家での妹の生活が安定していることに安堵する。
結局、佳奈が実の父親と会うことにどう思っているかは、聞けずじまいだった。そこはもう愛華の立場では踏み入ってはいけない部分で、佳奈自身が話したいと思わない限りそっとしておくしかないのだ。
リビングへ戻りクルミのケージの中を確認してから、愛華も椅子の上に置きっぱなしにしていたトートバッグを肩に掛けた。今日は午後の講義が休講だから帰りにスーパーに買い出しに行くつもりで、財布の中身を確認する。
娘二人を置いて関西へ転勤してしまった両親からは、毎月月末に愛華名義の口座に生活費が振り込まれる。二人の生活には十分な金額を送って貰っていたし、愛華自身もバイト代がある。猫一匹が増えたくらいでは、金銭的な苦労は何もしていない。
「あら、愛華ちゃん」
「おはようございます」
玄関を出てすぐ、三件隣の川瀬さん家のおばさんに出会った。愛華より三歳年下だった睦美の母親だ。横山家の斜め向かいにある集積場へゴミ出しに行った帰りなのか、手ぶらでラフな普段着姿だ。久しぶりに顔を合わせた川瀬のおばさんは、ノーメイクだったから加齢によるシミや弛みが目立ち、声を聞くまでは一瞬誰だか分からなかった。でも、世間一般の母親世代というのはこれが普通なんだと思う。柚月が極端に若々し過ぎるんだ。
「愛華ちゃんも大変よねぇ、今はお父さんと離れて暮らしてるんでしょう? 大阪だったっけ? たまには帰って来てるの?」
「はい。月に一度は戻って来てます」
愛華のことを道路の隅に呼び寄せてから、少し声を潜めて話し続ける。電車の時間も迫っているから少し困り顔になった愛華のことはまるで気にもしていない。
「おばさん聞いたんだけど、新しいお母さんは子供を置いてお父さんに付いて行っちゃったんでしょ? で、愛華ちゃんが面倒見てるって、それ本当なの?」
「付いて行ったっていうか、お母さんも京都へ転勤になったんで……」
再婚してすぐに引っ越してしまったせいで、近所の人達は柚月のことをまだあまりよく知らない。「あら、お勤めされてるの?」と川瀬のおばさんは目をランランと輝かせて興味を示していた。早くに妻を亡くした父が何の前触れもなく子連れ再婚したものだから、おばさん達の井戸端会議へ格好のネタを与えているのだろう。
「まだ小学生なんでしょう? 一緒に連れていかないなんて、無責任よねぇ。子供よりも再婚相手を優先するなんて……」
すぐに否定しようと口を開きかけた愛華に、おばさんは同情的な表情を浮かべながら首を横に振ってみせる。
「何かあったら、すぐ言って。おばちゃんだって、相談に乗るくらいはできるから。まだまだ手がかかる子を押し付けて行くなんて、ありえないわよ」
「あ、いえ、違っ――」
「ご近所さん皆言ってるわ、継母が育児放棄して、愛華ちゃんが体のいい子守に使われてて可哀そうだ、って」
「あの、別にそういうのじゃ――」
「いいのよ。おばちゃんは愛華ちゃんの味方だから、困った時はいつでも言って――あらヤダ、洗濯の途中だったの忘れてたっ。長々とごめんなさいねぇ。今から大学? 気をつけてね」
言い返す間も与えないマシンガントーク。一方的に言うだけ言ってから、あっさりと手を振って帰って行くご近所さんの後ろ姿を、愛華は唖然としながら見送った。
出勤する柚月の姿を見掛けたことのあるご近所さんが、「何だか派手な方ね」と噂しているのを聞いたことはあった。柚月は仕事柄フルメイクが当然だ。でも、すっぴんでもマスクさえしていれば駅前のスーパーでも平気という田舎のおば様達からすれば、完全仕事モードの継母はかなり目立ってしまうみたいだった。
見た目で誤解されている上に、まだ小学生の娘を残して両親だけで引っ越してしまったことで、柚月は近所中の噂の的になっているようだった。子供よりも夫を取った意地悪な後妻という悪評は、必死で佳奈も一緒に連れて行こうとしていた柚月からすれば迷惑極まりない。