夜にお風呂を出た後、自分の部屋へ入ろうとドアノブに手を掛けかけた時、どこかの部屋から話し声が漏れてきた。廊下を挟んで向かい合う部屋は佳奈の使っている洋室だ。そして声の主は母親の柚月。

 「新しい教室はどうなの?」「同じ学校の子も何人かいるから大丈夫」と、普段の電話とは何ら変わらないやり取り。離れて暮らしていようが、血の繋がった親子なんてきっとどこもそんなものだ。現に愛華と修司だって、久しぶりに顔を合わせても改めて話すことなんて何も無かった。「元気そうだな」「まあね」で終わった。取り繕うことなんて何もない。

 しいて言えば、「この猫、お父さんにだけずっと威嚇してくるんだけど……」としょんぼりされたくらいだろうか。なぜかクルミは修司にだけは、シャーシャー言うのを止めようとしない。

 ひと月ぶりに家族が揃った日曜の朝。さすがに前日の疲れが出たのか、佳奈は昼前まで起きて来なかった。愛華がバイトに出ようとしていた時にようやく朝ご飯を食べに降りてきて、日焼けで赤くなった顔に母親からスプレータイプの化粧水を振り撒かれていた。

「あれだけ言ったのに、寝る前に保湿しなかったでしょ?! 日焼けは肌が火傷してるってことなのよ。ちゃんとケアしないと、いくら若くてもシミになっちゃうんだからっ」
「だって、昨日は眠かったんだもん……」
「しばらくはしつこいくらい保湿しなきゃダメよ!」

 説得力のある本職の言葉に、横で聞いていた愛華も思わず首の後ろを手で隠す。日焼け止めを塗り損ねていた箇所は、くっきりとカットソーの襟ぐりの跡が残ってしまっていた。

 午前中の賑やかさとは反対に、夕方、愛華がコンビニでのバイトから帰って来た時には、家の中はしんと静まり返っていた。親達はもう大阪へと戻ってしまったみたいで、玄関には佳奈の通学用の黒スニーカーしか並んでいない。最近ではすっかり見慣れてしまった光景だ。

 リビングに続くドアの隙間から廊下へと明かりが漏れていたから、佳奈が猫と一緒にいるのは分かった。クルミが来て以来、塾や学校の宿題も下に持ってきて、佳奈は寝る時とお風呂以外の時間はずっと猫と過ごすようになっていた。本を読む時もリビングのソファーで、もうほどんど部屋に籠ることがない。猫の力は偉大だ。

「ただいまー」

 言いながらリビングに入ってみるが、妹と猫が遊んでいると思っていた室内はとても静かだった。ソファーテーブルの上に広げられた問題集とノートはそのままに、佳奈はテーブルへ潜り込むようにカーペットの上で丸くなって眠っている。それに子猫も寄り添って一緒に寝ていたのか、今は佳奈の顔の横で身体を丸めながら耳だけをピクピク動かしていた。微かに寝息を立てながら眠っている妹に、愛華はソファーの背凭れに掛けてあったブランケットをそっと被せる。

 照明の点いていない薄暗いキッチンの方を見ると、ダイニングテーブルには柚月が作っていったのだろう、ラップをした夕ご飯が並べられている。佳奈の分もまだ手付かずだから、愛華が帰ってくるまで食べるのを待っていてくれたのかもしれない。

 冷蔵庫から麦茶を取り出し、グラスに注いでいると、起きたばかりの子猫が愛華の足下にすり寄ってくる。最近のクルミはこうやって人に甘える仕草もするようになったので、ますます佳奈の溺愛が深くなっていた。

「……あ、おかえりなさい」

 キッチンからの物音で起こしてしまったらしく、佳奈が目を両手で擦りながらカーペットから起き上がっていた。

「ただいま。ご飯、温め直すね。お母さん達はいつ頃に?」
「んー……6時の新幹線に乗るって」
「結構、早かったんだ。全然ゆっくりできないね」
「また来月に何回か帰ってくるみたい」
「そうなんだ」
「塾の三者懇談があるから」

 「あー」と納得して頷く。さすがに進路指導もある三者懇談には愛華も代役できない。学校の方は新学期早々にあったから転勤前に済んでいるが、塾の方はそれを踏まえて夏期講習のコースを決めるのだという。内部進学が保証されているようなものだが、一応形だけは佳奈も中学受験を控えた受験生で、どの程度まで対策するかの相談をしなきゃいけない。

 温め直した夕飯を食卓に並べ、二人揃って「いただきます」と手を合わせる。また姉妹だけの生活に戻ったのを、当たり前のように受け入れている。ダイニングの隅では与えられたばかりのキャットフードを、子猫が「あむあむ」と唸りながら食べていた。

 翌日、運動会の振替休日で家にいた佳奈は、普段は先に起きて洗濯機を回していることの多い姉が、「寝坊したー!」とバタバタと朝食抜きに出掛けて行くのを、唖然として見送っていた。
 運動会の疲れで昨日は佳奈自身も朝に起きられなかったし、夕方も気付いた時にはリビングの床の上で眠ってしまっていた。半日だけだったと言っても、わざわざ運動会を見に来てくれてた愛華が疲れていない訳がない。

「佳奈ちゃん、ごめん。洗濯物、頼んでいい?」

 可燃ごみの入ったゴミ袋を片手に出ていった姉の後ろ姿に、玄関前で黙って頷き返す。しばらく後にピーッピーッという洗濯機の音が聞こえてくると、佳奈は足元に纏わりついていた子猫をケージに戻してから洗面所へと向かった。