「おかえりなさい。夕ご飯に駅弁を買ってきたから、好きなのを選んでね」

 予想通り、玄関を開けると大人サイズの革靴とパンプスが並んでいて、リビングには部屋着へと着替えを済ませた両親の姿があった。ダイニングテーブルに駅の売店で買って来たらしいビニール袋に入った弁当と、父の九州出張の土産が入った紙袋。弁当は触れてみるとまだ温かく、一緒に総菜のパックもいくつか入っている。

 右手に猫じゃらしを持った柚月が、「ただいま」とリビングに顔を出した愛華に声を掛けてきた。最初少しだけ戸惑った表情に見えたのは、帰って来たのが佳奈だと思ったのだろう。娘の機嫌を損ねてしまったことをまだ気にしているらしい。

「運動会自体はとっくに終わってるから、佳奈ちゃんももう帰ってくるんじゃないかな」
「え、愛華ちゃん、もしかして……」
「友達と見てきましたよ。上手く撮れてるか分かんないけど、後で見てあげて下さいね」

 バッグからビデオカメラを取り出して、テーブルの上に置く。驚き顔の妻の隣で、修司が娘に向かって良くやった、と深く頷いていた。引き出しからテレビと繋ぐケーブル類を出して父に差し出すと、慣れた手つきで接続していく。もう何年も使う機会が無かったが、意外と覚えているものだ。

 動画の上映準備は父に任せて、愛華は二階にある自室へと戻る。荷物を置き、着替えてからスマホを確認すると、真由から律との自撮りツーショット画像が送られて来ていた。ご飯を食べに行くと聞いていたが、テーブルの上に映り込んでいるのはパフェとパンケーキ。どちらもかなりビッグサイズで、大学でもちょっと話題になってるお店のだ。

 お返しに駅弁でも撮って送ろうかと、スマホを持ったまま部屋を出、階段を降りきったところで玄関のドアが開く音が聞こえてきた。廊下から覗くと、体育着を着た佳奈の少し疲れた顔が見えた。

「おかえり、佳奈ちゃん。すごい焼けたねー。今日は割と天気良かったもんね」

 ほぼ丸一日中グラウンドに出ていたせいで、佳奈は顔も首も真っ赤に火照って、完全に日焼けしている。競技中は半袖短パンだったから腕も足も焼けているはずだ。そういう愛華自身も、日焼け止めを塗り忘れていた首後ろが少しヒリヒリしていた。

 玄関での話し声に気付いたのか、柚月が慌てながら廊下へと顔を出す。久しぶりに直接顔を見ることができた娘へ、掛けてあげなければならない言葉は沢山ある。あまりにもあり過ぎて、「おかえり」以外に何も出てこない。母娘の間に、気まずい空気が流れる。

「おかえり。ほら、佳奈ちゃんも一緒に運動会の動画を観よう。愛華の撮影だから、ちゃんと撮れてるかは分からないけど」

 廊下に漂っていた重い空気をぶった切ったのは、片手にテレビのリモコン、反対の手には子猫を抱えて顔を出した父だった。クルミは初対面の修司に警戒しているのか、ジタバタと暴れている。

「撮ってくれてたの?」

 驚き顔で、佳奈が尋ねてくる。愛華がフラッグの演技後に声を掛けた時も手には持ってはいたが、あの時はカメラを構えていなかったから撮影していたことに気付いていなかったみたいだ。笑顔で大きく頷き返すと、佳奈の顔がぱぁっと明るくなる。

「あの場所からだから、他の子に隠れてたりとか多いけどね」

 選手宣誓以外では、動き回る被写体を追いかけるのは簡単じゃなかった。視線を少しズラした瞬間に、佳奈のことを見失いそうになっていた。愛華達がいた観覧スペースからは斜め後ろのアングルばかりで、お世辞にも上手く撮影できたとは言えない。運動会の雰囲気を感じられればくらいの軽い気持ちで見て貰えたらいいな、というのが撮影者の本音だ。

「ほらほら、柚月さんもこっち来て座ろう。二人も一緒に、――そうだ、お弁当食べながら見るのも楽しそうじゃないか?」

 妻の背を半ば強引に押して、修司が部屋の中へと誘導する。愛華も仕方ないな、と父の提案に従ってリビングへと戻る。着替える為にと二階へ上がっていった佳奈も、少しは機嫌が直ってきたのか、すぐに家族の前に顔を見せた。

 ソファーテーブルにお弁当と総菜を並べて、ビデオカメラを繋がれたテレビの前に家族全員が揃う。カメラ用の手の平サイズの小さなリモコンで、修司がソファーに腰かけたまま再生ボタンを押した。

 愛華が撮影してきた動画は、カメラのズーム機能を確認する意味合いも兼ねて、まずは学校のグラウンド内をぐるりと見渡す映像から始まった。担任に先導されて入場してくる児童達の映像も少し入っていたが、次の瞬間には三色の団旗に囲まれた佳奈が、本部テント前で右手を挙げて選手宣誓を行っている。

「すごいね、佳奈ちゃん。堂々としてる」

 修司が感心して言うと、佳奈ははにかみながらお弁当のフライを頬張っていた。愛華も幕の内弁当に入っていた唐揚げを齧りつつ、自分が撮ってきた映像を改めて眺める。思った通り、動画が後半にもなってくると、映像のブレが激しい。カメラの重みで腕がプルプル状態になった時の感覚が蘇ってくる。

「なんか、手ブレが酷かったね……」

 全ての動画を再生し終わった後、愛華が恥ずかしそうに呟いた。多分、あと数分も続けば酔っていたかもしれない。そのくらい素人感丸出しの映像だった。密かに、結構いい感じに撮れてるんじゃないかと自惚れ気味に撮影していたのに……。

 でも、食べ物の匂いに反応して「みーみー」鳴き始めたクルミのケージへ駆け寄っていく佳奈は、すっかり機嫌が直った風に見えた。柚月もそんな娘の様子にホッとした表情をしていた。