動物病院で購入してきた子猫用ミルクを、猫は皿にダイブする勢いで飲んでいた。顔だけじゃなく前足までミルクまみれで、可愛いけれど思わず眉をしかめてしまう光景。いくら見ていても飽きないと、佳奈は帰ってからずっと、子猫の傍から一瞬も離れようとしない。
「……ミルク」
猫の食事風景を横で見守っていた佳奈が、ぽつりと呟く。必死で飲んでいる割に、なかなか減らない皿の中身。離乳したばかりでまだ上手く飲めないのか、周囲にこぼしている量の方が多い。フローリングへびちゃびちゃに飛び散ったミルクを雑巾で拭き取りながら、思いついたと顔を上げた。
「この子の名前、クルミにする」
初めはミルクと思ったけれど、白黒猫だからそれもどうかと考え直し、ミルクを反対から読んで『クルミ』。胡桃の殻がぱかっと半分に割れたように左右対称の八割れ具合もその名にピッタリだ。
クルミと名付けられた子猫は、ミルク浸けになっていた前足を佳奈から優しく拭き直されて暴れていた。小さいながら鋭かった爪も、病院で切って貰ったばかりで今は攻撃力をほとんど失っている。
「クルミかぁ、いいね。――さ、私達もご飯にしよ」
思ってた以上に動物病院に時間が掛かったおかげで、塾のある日よりも遅い夕食になってしまった。出掛ける前に下拵えは済ませておいたから、温め直して卵でとじるだけの親子丼。豆腐とワカメのお味噌汁をお椀に注ぎ入れて妹へ渡すと、愛華も自分の分を運んで席につく。
こうして血の繋がらない姉妹二人での夕食も何週目になっただろうか。愛華が作った物に対して、佳奈はいつも何も言わない。ただ、食べている様子を見ていれば、それが佳奈の好きな物かそうじゃないかの違いはよく分かる。好きな物だと本当に美味しい顔をして食べてくれていたから。でも、今日の夕食だけはちょっと分からない。食事中も妹の意識は、完全にクルミの方に向いているようだった。
段ボール箱をよじ登ろうと、爪を立てているカサカサという音。その音が聞こえる度に、佳奈はリビングの方を振り返っていた。子猫の様子がよっぽど気になるらしい。
「トイレも入るくらいのケージを用意しないとだね。重そうだし、ネットで探した方がいいかなぁ?」
「誰もいない時は、ケージに閉じ込めておくの?」
「まだ小さいうちはね。外に出しておいた方が危ないし、一人で降りられないようなところに登って、落ちて怪我しちゃうかもしれない」
自力では箱から脱出できない今はペットシーツを敷いた段ボール箱でも十分だけれど、それもいつまでもつかは分からない。クルミ自身も獣医からもヤンチャの烙印を押されたくらいのお転婆だし、今すぐにでも出る気満々なのだから。
「あ、そうだ。来週の運動会はお弁当要るよね? オニギリとサンドイッチ、どっちがいい?」
かなり前に学校から持って帰ってきていた運動会の案内プリントのことを思い出し、愛華が確認する。塾の模試の時は要らないと言っていたが、さすがに学校行事ではコンビニで買った昼食を持たせる訳にはいかない。
運動会は低学年と高学年での時間入れ替え制だが、六年生で体育委員の佳奈は午前の部でも仕事があるらしい。だから弁当必須なはずだ。
少し考える素振りを見せた佳奈だったが、遠慮がちに「オニギリ」と答える。弁当箱は塾に持って行ってたのでいいかも聞くと、黙って頷き返した。
「二人とも、来週は帰って来れるみたいで良かったね」
「始発の新幹線を予約したって言ってた」
午前中の佳奈の委員としての仕事ぶりを見るのは無理だけど、午後からの運動会本番には間に合うよう帰って来れるらしい。最高学年である六年生は学校行事の大トリだ。運動会では応援団や団体演技、リレーなど、特に見せ場も多い。場合によっては先に行って場所取りしてあげた方がいいのかと、愛華もその日のバイトは入れていない。
「お父さんも楽しみにしてたよ。子供の運動会なんて何年ぶりだろうって」
「大学には運動会は無いの?」
「うーん……大学によってはあるかもしれないけど、うちは無いなぁ。運動部の大会とかならしょっちゅうあるけど」
もしあったとしても、保護者が応援に来るかどうかは微妙だ。中学生あたりから親が見に来る家は減っていき、高校の体育祭には保護者用の観覧スペースすら用意されてなかった。だからこそ、小学六年生の運動会は親にとっても重要なイベントでもある。
夕食時に二人がそんな話をしていたのはフラグの一種だったんだろうか、佳奈が体育委員として運動会準備に追われ始めた週明け。塾の無い日を狙って掛かってくる母親からの電話で、佳奈が一気に不機嫌になる。
「ごめんね、佳奈。どんなにスケジュールを調整しても、どうしても昼過ぎの新幹線にしか乗れそうもないのよ」
「……」
「修司さんも金曜から出張で九州に行くことになっててね、でも向こうから直接行けば何となるかもとは言ってくれてるんだけど――」
家族として一緒に住んでいた期間も短く、まだ馴染んでもいない父親が一人で来ても、佳奈だって困るだけだろう。無言のまま唇を嚙みしめている娘の顔が映し出されたスマホ画面に向かい、柚月が申し訳なさそうに話しかける。
「どんなに遅くなっても、土曜には必ず帰るから。運動会のお話を佳奈から聞けるのを楽しみにしてるわね。ごめんね」
「……」
「お母さんだって、とても楽しみにしてたのよ。佳奈、体育委員長だったでしょ? 大会の宣誓とかもするんでしょ?」
――え、委員長?!
横で二人のやり取りを聞いていた愛華は、目をぱちくりさせて妹の方を振り返る。体育委員なのは聞いていたが、委員長だということまでは知らなかったのだ。だとしたら、午前午後ともにある開会式での宣誓を親に見てもらえないのは可哀そう過ぎないだろうか。
ビデオ通話の荒い映像では柚月には気付けないかもしれないが、佳奈の目に溜まった涙は愛華にははっきりと見えた。
――佳奈ちゃん……。
「……ミルク」
猫の食事風景を横で見守っていた佳奈が、ぽつりと呟く。必死で飲んでいる割に、なかなか減らない皿の中身。離乳したばかりでまだ上手く飲めないのか、周囲にこぼしている量の方が多い。フローリングへびちゃびちゃに飛び散ったミルクを雑巾で拭き取りながら、思いついたと顔を上げた。
「この子の名前、クルミにする」
初めはミルクと思ったけれど、白黒猫だからそれもどうかと考え直し、ミルクを反対から読んで『クルミ』。胡桃の殻がぱかっと半分に割れたように左右対称の八割れ具合もその名にピッタリだ。
クルミと名付けられた子猫は、ミルク浸けになっていた前足を佳奈から優しく拭き直されて暴れていた。小さいながら鋭かった爪も、病院で切って貰ったばかりで今は攻撃力をほとんど失っている。
「クルミかぁ、いいね。――さ、私達もご飯にしよ」
思ってた以上に動物病院に時間が掛かったおかげで、塾のある日よりも遅い夕食になってしまった。出掛ける前に下拵えは済ませておいたから、温め直して卵でとじるだけの親子丼。豆腐とワカメのお味噌汁をお椀に注ぎ入れて妹へ渡すと、愛華も自分の分を運んで席につく。
こうして血の繋がらない姉妹二人での夕食も何週目になっただろうか。愛華が作った物に対して、佳奈はいつも何も言わない。ただ、食べている様子を見ていれば、それが佳奈の好きな物かそうじゃないかの違いはよく分かる。好きな物だと本当に美味しい顔をして食べてくれていたから。でも、今日の夕食だけはちょっと分からない。食事中も妹の意識は、完全にクルミの方に向いているようだった。
段ボール箱をよじ登ろうと、爪を立てているカサカサという音。その音が聞こえる度に、佳奈はリビングの方を振り返っていた。子猫の様子がよっぽど気になるらしい。
「トイレも入るくらいのケージを用意しないとだね。重そうだし、ネットで探した方がいいかなぁ?」
「誰もいない時は、ケージに閉じ込めておくの?」
「まだ小さいうちはね。外に出しておいた方が危ないし、一人で降りられないようなところに登って、落ちて怪我しちゃうかもしれない」
自力では箱から脱出できない今はペットシーツを敷いた段ボール箱でも十分だけれど、それもいつまでもつかは分からない。クルミ自身も獣医からもヤンチャの烙印を押されたくらいのお転婆だし、今すぐにでも出る気満々なのだから。
「あ、そうだ。来週の運動会はお弁当要るよね? オニギリとサンドイッチ、どっちがいい?」
かなり前に学校から持って帰ってきていた運動会の案内プリントのことを思い出し、愛華が確認する。塾の模試の時は要らないと言っていたが、さすがに学校行事ではコンビニで買った昼食を持たせる訳にはいかない。
運動会は低学年と高学年での時間入れ替え制だが、六年生で体育委員の佳奈は午前の部でも仕事があるらしい。だから弁当必須なはずだ。
少し考える素振りを見せた佳奈だったが、遠慮がちに「オニギリ」と答える。弁当箱は塾に持って行ってたのでいいかも聞くと、黙って頷き返した。
「二人とも、来週は帰って来れるみたいで良かったね」
「始発の新幹線を予約したって言ってた」
午前中の佳奈の委員としての仕事ぶりを見るのは無理だけど、午後からの運動会本番には間に合うよう帰って来れるらしい。最高学年である六年生は学校行事の大トリだ。運動会では応援団や団体演技、リレーなど、特に見せ場も多い。場合によっては先に行って場所取りしてあげた方がいいのかと、愛華もその日のバイトは入れていない。
「お父さんも楽しみにしてたよ。子供の運動会なんて何年ぶりだろうって」
「大学には運動会は無いの?」
「うーん……大学によってはあるかもしれないけど、うちは無いなぁ。運動部の大会とかならしょっちゅうあるけど」
もしあったとしても、保護者が応援に来るかどうかは微妙だ。中学生あたりから親が見に来る家は減っていき、高校の体育祭には保護者用の観覧スペースすら用意されてなかった。だからこそ、小学六年生の運動会は親にとっても重要なイベントでもある。
夕食時に二人がそんな話をしていたのはフラグの一種だったんだろうか、佳奈が体育委員として運動会準備に追われ始めた週明け。塾の無い日を狙って掛かってくる母親からの電話で、佳奈が一気に不機嫌になる。
「ごめんね、佳奈。どんなにスケジュールを調整しても、どうしても昼過ぎの新幹線にしか乗れそうもないのよ」
「……」
「修司さんも金曜から出張で九州に行くことになっててね、でも向こうから直接行けば何となるかもとは言ってくれてるんだけど――」
家族として一緒に住んでいた期間も短く、まだ馴染んでもいない父親が一人で来ても、佳奈だって困るだけだろう。無言のまま唇を嚙みしめている娘の顔が映し出されたスマホ画面に向かい、柚月が申し訳なさそうに話しかける。
「どんなに遅くなっても、土曜には必ず帰るから。運動会のお話を佳奈から聞けるのを楽しみにしてるわね。ごめんね」
「……」
「お母さんだって、とても楽しみにしてたのよ。佳奈、体育委員長だったでしょ? 大会の宣誓とかもするんでしょ?」
――え、委員長?!
横で二人のやり取りを聞いていた愛華は、目をぱちくりさせて妹の方を振り返る。体育委員なのは聞いていたが、委員長だということまでは知らなかったのだ。だとしたら、午前午後ともにある開会式での宣誓を親に見てもらえないのは可哀そう過ぎないだろうか。
ビデオ通話の荒い映像では柚月には気付けないかもしれないが、佳奈の目に溜まった涙は愛華にははっきりと見えた。
――佳奈ちゃん……。