「お父さん、これはどういうこと?!」
貴美子の声が家中に響き渡ったのは、空が重い雲に覆われた、どんよりとした朝だった。
午前中に振り込み関係の仕事を済まそうと、銀行書類一式を持って家を出たはずの母が、わなわなと震える手で一枚の小さな紙切れを握りしめ、玄関から声を張り上げながら戻ってくる。
朝食を食べ終え、仕事中に飲むカフェオレでも淹れようとキッチンでお湯を沸かしていた有希は、カウンター越しに父の方を覗き見る。リビングのソファーに座りながら、ぼーっとテレビを見ていた信一は、何も言わずに頭を掻いていた。
バンッという大きな音を立ててリビングの扉を開いて入って来た貴美子は、手に持っていた紙を夫の目の前のテーブルに叩きつける。掌サイズのそれは、有希の場所からは何なのかは全く見えない。
「危ないから運転するなって言われたでしょう?! これ、何? 一人でどこに行ってたの? なんで高速なんか……」
母は車に乗ってすぐ、助手席の足元に落ちていた高速道路の領収書を見つけたらしい。最寄りのインターから2区画分の領収書は、片道のだけしかなかったようだが、日付は二日前になっていた。
近距離中心の貴美子が高速に乗ることはないし、有希は自分専用の乗用車を持っている。だから、それは信一が妻に隠れて車を運転して、どこかに出掛けたという証拠だった。
「あー、何だったかなぁ……」
頭を掻きながら困った顔で目を逸らす夫に、貴美子はまくし立てる。
「O市まで行って、何してたの?! 薬飲んでる内は、運転するなって言われたでしょう?!」
妻の小言には聞こえないふりしつつ、信一はテレビから視線を動かさない。背を丸めたその後ろ姿は、少し寂し気にも見えた。病のせいで、自分が行きたい場所に自由に行けなくなる。それは運転好きだった父には、とても辛いことだったのだろう。
その日の夕方、近くへ散歩に出ただけだと思っていたら、完全に夜になっても父が家に帰って来なかった。
「ねえ、何があったん?!」
母親から連絡を受けた由依が、部屋着にブルゾンを羽織っただけの恰好のまま、慌てて実家へ駆け付けてきた。仕事から帰ったばかりの夫に娘達を押し付けて、夕飯の片付けも適当にして家を出てきたのだという。
「お父さんが、いつまで経っても帰って来ない……」
「なんで?」
「分かんない。車もあるし、歩いてどっか行ったみたい」
二台ある自家用車は駐車場に停まったままだった。父はよく、夕方近くに近所を散歩することがあったので、出掛けても暗くなる前には帰宅するものだと思っていた。なのに、夜22時を過ぎても信一が帰って来なかったのだ。
「携帯は? お父さんの携帯に電話してみた?」
思い出したように、自分のトートバッグからスマホと取り出すと、由依がアドレス帳を開いて父の番号に掛けようとした。が、有希は首を横に振ると、ダイニングテーブルの上を指差す。
「携帯、車の中に置きっぱなしにされてた」
「えーっ、お父さん、どこ行ったんよー」
父への直接の連絡手段は無かった。有希も真っ先に携帯へ電話することを思いついたが、父のガラケーは家の前に停めていた車の後部座席にて無音で震え続けているだけだった。
近所を一回りして探してくると出ていた母が、疲れ切った顔で戻ってくると、由依は貴美子に向かっても「ねぇ、何があったん? お父さん、体調は大丈夫なん?」と詰め寄った。
分からないと首を横に振るしかできない母は、
「立ち寄りそうな家を覗いてみたり、もしかしたら、その辺の溝とかに落ちてないかって、いろいろ回ったんだけど……」
この遅い時間まで父がお邪魔しそうな家は限られている。だから散歩中の事故を疑って、転落してしまいそうな場所を探して回ったらしい。最近の父はまた少しずつ不調を訴えるようになっていたので、もしかしたら、どこかで倒れているのではないか、と。
「今度は私達が探しに行ってくるわ。有希、一緒に行こ」
「うん」
母が探したのより、もう少し範囲を広げる為に、由依の車で駅に向かう道を見て回ることにする。広瀬の家から最寄りの駅までは歩いて三十分は掛かるくらいの距離がある。駅へと向かう途中で父が力尽きて動けなくなっているかもしれない。
真っ暗で外灯も少ない田舎道を、運転は姉に任せた有希は助手席の窓から周辺を見回していた。歩道の途中でしゃがみ込んで動けなくなっている人影はないか、父がふらりと落ちてしまいそうな危険個所はないだろうか、と。
けれど、どこを探しても父の姿は見当たらなかった。田舎の無人駅前には父が立ち寄れるような店など無い。だからこそ、娘達の頭には最悪の状況しか浮かび上がらないでいた。
「あ、交番に人がいるみたい。ちょっと聞いてくるわ」
常にパトロール中で誰かが居ることなど滅多に見ない駅前の交番に、珍しくパトカーが停まっているのが見えた。由依は駐車場に車を停めると、一人で中へと入っていく。
貴美子の声が家中に響き渡ったのは、空が重い雲に覆われた、どんよりとした朝だった。
午前中に振り込み関係の仕事を済まそうと、銀行書類一式を持って家を出たはずの母が、わなわなと震える手で一枚の小さな紙切れを握りしめ、玄関から声を張り上げながら戻ってくる。
朝食を食べ終え、仕事中に飲むカフェオレでも淹れようとキッチンでお湯を沸かしていた有希は、カウンター越しに父の方を覗き見る。リビングのソファーに座りながら、ぼーっとテレビを見ていた信一は、何も言わずに頭を掻いていた。
バンッという大きな音を立ててリビングの扉を開いて入って来た貴美子は、手に持っていた紙を夫の目の前のテーブルに叩きつける。掌サイズのそれは、有希の場所からは何なのかは全く見えない。
「危ないから運転するなって言われたでしょう?! これ、何? 一人でどこに行ってたの? なんで高速なんか……」
母は車に乗ってすぐ、助手席の足元に落ちていた高速道路の領収書を見つけたらしい。最寄りのインターから2区画分の領収書は、片道のだけしかなかったようだが、日付は二日前になっていた。
近距離中心の貴美子が高速に乗ることはないし、有希は自分専用の乗用車を持っている。だから、それは信一が妻に隠れて車を運転して、どこかに出掛けたという証拠だった。
「あー、何だったかなぁ……」
頭を掻きながら困った顔で目を逸らす夫に、貴美子はまくし立てる。
「O市まで行って、何してたの?! 薬飲んでる内は、運転するなって言われたでしょう?!」
妻の小言には聞こえないふりしつつ、信一はテレビから視線を動かさない。背を丸めたその後ろ姿は、少し寂し気にも見えた。病のせいで、自分が行きたい場所に自由に行けなくなる。それは運転好きだった父には、とても辛いことだったのだろう。
その日の夕方、近くへ散歩に出ただけだと思っていたら、完全に夜になっても父が家に帰って来なかった。
「ねえ、何があったん?!」
母親から連絡を受けた由依が、部屋着にブルゾンを羽織っただけの恰好のまま、慌てて実家へ駆け付けてきた。仕事から帰ったばかりの夫に娘達を押し付けて、夕飯の片付けも適当にして家を出てきたのだという。
「お父さんが、いつまで経っても帰って来ない……」
「なんで?」
「分かんない。車もあるし、歩いてどっか行ったみたい」
二台ある自家用車は駐車場に停まったままだった。父はよく、夕方近くに近所を散歩することがあったので、出掛けても暗くなる前には帰宅するものだと思っていた。なのに、夜22時を過ぎても信一が帰って来なかったのだ。
「携帯は? お父さんの携帯に電話してみた?」
思い出したように、自分のトートバッグからスマホと取り出すと、由依がアドレス帳を開いて父の番号に掛けようとした。が、有希は首を横に振ると、ダイニングテーブルの上を指差す。
「携帯、車の中に置きっぱなしにされてた」
「えーっ、お父さん、どこ行ったんよー」
父への直接の連絡手段は無かった。有希も真っ先に携帯へ電話することを思いついたが、父のガラケーは家の前に停めていた車の後部座席にて無音で震え続けているだけだった。
近所を一回りして探してくると出ていた母が、疲れ切った顔で戻ってくると、由依は貴美子に向かっても「ねぇ、何があったん? お父さん、体調は大丈夫なん?」と詰め寄った。
分からないと首を横に振るしかできない母は、
「立ち寄りそうな家を覗いてみたり、もしかしたら、その辺の溝とかに落ちてないかって、いろいろ回ったんだけど……」
この遅い時間まで父がお邪魔しそうな家は限られている。だから散歩中の事故を疑って、転落してしまいそうな場所を探して回ったらしい。最近の父はまた少しずつ不調を訴えるようになっていたので、もしかしたら、どこかで倒れているのではないか、と。
「今度は私達が探しに行ってくるわ。有希、一緒に行こ」
「うん」
母が探したのより、もう少し範囲を広げる為に、由依の車で駅に向かう道を見て回ることにする。広瀬の家から最寄りの駅までは歩いて三十分は掛かるくらいの距離がある。駅へと向かう途中で父が力尽きて動けなくなっているかもしれない。
真っ暗で外灯も少ない田舎道を、運転は姉に任せた有希は助手席の窓から周辺を見回していた。歩道の途中でしゃがみ込んで動けなくなっている人影はないか、父がふらりと落ちてしまいそうな危険個所はないだろうか、と。
けれど、どこを探しても父の姿は見当たらなかった。田舎の無人駅前には父が立ち寄れるような店など無い。だからこそ、娘達の頭には最悪の状況しか浮かび上がらないでいた。
「あ、交番に人がいるみたい。ちょっと聞いてくるわ」
常にパトロール中で誰かが居ることなど滅多に見ない駅前の交番に、珍しくパトカーが停まっているのが見えた。由依は駐車場に車を停めると、一人で中へと入っていく。