ピッチの鼻の腫瘍が再発する気配もなく、有希のお腹の方も大きなトラブルもなく順調だった。唯一、妊娠後期に入った頃から血液検査で貧血を指摘されて、鉄剤を服用しなきゃいけなくなったくらいだ。

 臨月に入り、予定日を2週間後に控えた辺りから、「心配だから、お母さんのところにいて」という雅人の心配性が発動し、半ば追い出されるように実家へ戻らされた。世の中の働く妊婦さんが聞いたら、甘ったれんなとブチ切れされても文句は言えない。

「あら、有希ちゃん。予定日はいつだった?」
「こんにちは。昨日がそうだったんだけど、まだ生まれそうもないかも」

 予定日を過ぎても陣痛が来る気配もなく、少しでも動きなさいと母から急かされて散歩していた有希は、ご近所さんから声を掛けられた。ちょっとコンビニまでと歩いていただけだけど、大きなお腹の有希の姿は田舎ではとても目立つ。

「あら、でも結構下がってきてるじゃない」

 お腹の位置も随分と下りて来ているからもうすぐよと言い切った後、裏のおばさんは「生まれたら見せてねー」と笑顔で手を振って玄関を入っていった。
 おばさんの予言通り、有希が陣痛らしきお腹の痛みで目が覚めたのは深夜1時を過ぎた頃だった。枕の下に置いていたスマホの時計で確認してみると、痛みは10分間隔で起きていた。前もって産院からは初産の場合は5分間隔になったら連絡するように言われていたので、まだ母を起こす必要はなさそうだ。

 その時の痛みが小さかったおかげで有希はそのまま寝直すことにした。陣痛が始まっても意外と寝れるし動けるという話は友達や姉から聞いていたが、まさにその通りだった。陣痛が来てからシャワーを浴び直した話や、運転して自分で産院に行った話を聞いた時はビックリしたが、実際に有希も普通に二度寝できるくらい余裕があった。

 朝6時を過ぎた頃、さすがに5分間隔になってくると痛みでもう寝ていられなくなり、産院へ電話をしてから母の寝室をノックする。

「陣痛きたから、病院に連れて行って」
「えっ、うん、用意するわ。病院には?」
「電話した。すぐ来て下さいって」

 慌てて飛び起きた母とは反対に、有希は着替えを終えて荷物も玄関まで運び終えていた。お腹は5分間隔で痛むが、痛みがない時間帯は普通に動ける。例えて言うなら、極度の下痢の痛みがきっちり正確に5分の波でくる感じ。激痛を耐え抜いた後、必ず5分は平和が訪れる。3分あればヒーローが怪獣を倒せるくらいだ、5分もあるならある程度のことはできる。

「もしもし。今、入院したから」
「分かった。少し会社に顔を出してから行くわ」

 産院の個室で指定のガウンに着替えた後、有希は時間を確認してから雅人に電話を掛けた。入院したからと言ってすぐに生まれる訳もないので、連絡するのをギリギリまで待っていた。昨夜は終電で帰宅したみたいなので、あまり早く起こしても可哀そうだ。

 妻が産気づいたのに仕事に行くという夫に有希は耳を疑ったが、母や助産師に話しても「意外と間に合うんじゃない?」とお気楽だった。陣痛が来てる割に進みが悪いらしく子宮口の開きもゆっくりだと言われ、昼過ぎに雅人が病室にようやく顔を出した時もまだ有希は下腹の痛みと戦っていた。

「きっとパパが来るのを待ってたのよ」

 有希の子宮口に指を突っ込みながら、助産師が笑顔を浮かべる。本当に雅人の到着を待っていたかのように、それまでダラダラと続いていた陣痛の波が大きく変わった。車椅子に乗せられて分娩室に連れて行かれる有希に、雅人はオロオロとしながら後を追う。

 病室で一人残された貴美子は自分が有希を出産した日のことを思い返していた。雨が降る中、痛むお腹を抱えて一人でバスに乗って病院へ行き、夫が着く前に生まれた次女。当時は生まれるまで性別が分からなかったから、二人目も女の子だったと知ってガックリと肩を落としていた信一は、実家に報告の電話しながら「また女やったわ……」と残念そうな声を出していた。
 だから、夫が由依よりも有希のことを露骨に贔屓する度、生まれた時はあんなに残念がってた癖にと心の中で笑っていた。

 その有希も今、母親になろうとしている。あの子の子供なら、間違いなく溺愛しただろう夫はもうこの世にはいない。しかも、生まれてくるのは信一が熱望していた男の子なのだから、どんなに喜んだか分からない。孫まで贔屓するのかと怒る由依の顔までもが想像できてしまう。

「ふふふ。有希の子と会えなくて残念だったわね、お父さん……」

 思わず声に出してしまった。そして、笑いながらも視界が涙で溢れそうになっていることに気付き、慌てて手で拭う。
 新しい命と出会うのにしんみりしてる場合じゃないわと、目を閉じて心を落ち着ける。

「生まれましたよ。元気な男の子さんです」

 有希にあてがわれた個室のソファーに腰掛けて、少しウトウトしかけていた貴美子にピンクのナース服を着た看護師が声を掛けた。ドアをノックする音には気付かなかったので、そのまま本気で眠ってしまっていたのかもしれない。
 案内された分娩室のベッドでは、出血過多で貧血気味だという青い顔をした有希の横に、生まれたばかりの孫が横たわっていた。

「あらぁ」

 小さな生まれたての孫は、どこからどう見ても有希にそっくりだった。いきなり発せられた祖母の感嘆の声に驚いたのか、とても大きな声で泣き始めたが、母親が耳元で何かを囁くとすぐに泣き止んだ。お腹の中でも聞き慣れた声を聞こうと一生懸命に耳を澄ませているようにも見える。