広瀬信一が亡くなった後、長年連れ添って来たはずの妻にも知らされていなかったことが、思いがけないタイミングで露見されることがあった。ボロが出るという言葉そのままに、彼が秘密にしていたことがボロボロと少しずつ剥がれ落ちるように出て来たのだ。
「有希、ちょっと見て、これ」
前日に遅くまで新案件の提案書を作成していた有希は、少し遅めの朝食をとるつもりで一階に降りた。そして、ダイニングテーブルで険しい顔をして一枚の封書に向き合っていた母に、おはようの挨拶も無しに掴まってしまった。
「え、何?」
「どうしよう……提中さんのとこの奨学金の督促状が届いたのよ」
「提中さんのが何で、うちに?」
「保証人になってくれって、息子さんが大学に入る時に頼まれたのは知ってたけど、断ったはずなのに結局は私に黙って保証人になってあげてたみたい……」
はぁっと呆れを含んだ溜め息をつくと、貴美子は向かいに腰掛けた有希にA4サイズの一枚の紙を見せる。母から受け取った書類にざっと目を通すと、有希は目をぱちくりさせた。
「え、これって最初から返済する気なくない? 最初の三回分しか払ってない……うちに督促状が来たって、提中さんのとこに言えば?」
父が知人から頼まれて保証人になってしまった奨学金は、15年前に400万近くを借りたらしいが、督促状の記載を見る限りたった三回の支払い歴しか残っていなかった。完全な借り逃げ状態でも長い間放置され、今までこちらに連絡が来たことが一度もなかったのが信じられないくらいだ。15年が経過して、その支払い義務が本人から保証人である信一へと移ったというのが今回の通知だった。
勿論、文系私立大で借りることができる最大額を借りた挙句、それを端から返済する気がなかったのが丸分かりで腹立たしい。
「親が返す気ないなら、借りた本人に返させられないの? 息子さんって、私より年上じゃなかった? 働いてたら、本人が払えるでしょう?」
「あの子はもう家出てるらしいし、あそこは親もバラバラだから……」
父が元気だった頃、何度となく見かけたことがある提中。小柄でニコニコと愛想の良い笑顔が印象的なおじさんだった記憶がある。料理人で飲食店を営んでいたと聞いたことがあるが、一度もそのお店に行ったことは無い。あまり繫盛しなかったらしく、開店してすぐに店は奥さんに任せて、自分は信一の会社から日雇いの仕事を回して貰って生活しているというのは聞いたことがあった。
そう言われてみれば、有希が提中を最後に見かけたのは中学生の時まで遡るかもしれない。父の葬儀の時にも姿は見た覚えがない。
「提中さんに連絡できないの?」
「かなり前に若い女の子と家を出たって聞いたきりね。東北に行ったとか聞いた気がするけど、今どこに居るかも知らないわ。家には奥さんと下の子達がまだ居るみたいだけど、奥さんと次男は自己破産したらしいし、お金のことはあの人達に言っても無理」
「……何、それ」
経営難の店を奥さんに丸投げして、自分は店のバイトの女の子と駆け落ちしてしまったという噂だった。あの人当たりの良さそうなおじさんがと、有希はショックで後に続く言葉が出なかった。
面倒見の良過ぎる信一は、生前も何度となく提中夫妻から頼まれてお金を工面してあげることがあった。出来る限り貴美子も揃って一緒に話を聞き、きちんと返済されたかを確認するようにはしていたが、それでも信一だけで受けてしまったことも何度もあったはずだ。
今回の件で、信一が内緒で貸してしまって返って来ていない分もあった可能性が見えてきた。
「奥さんだけがこっそり借りに来られることもあったしね、どっちから頼まれたのかも分からないわ……」
保証人の話は、一度は確かに断ったはずだった。数万円の現金を一時的に貸すのとは訳が違うし、家にもこれから進学する娘がいるのだから、と。それでも、保証人を付ければ無利子で借りれるからと、しつこく頭を下げられた記憶はある。
別に代わりに支払えない額ではないが、どう考えても支払う義理は全く無い。というか、払いたくはない。呆れと怒りを含んだ溜め息が貴美子の口から漏れ出る。
長く督促状と自分のスマホを見比べていた有希が、どこかへ電話を掛け始める。怪訝な顔で娘を見る貴美子に、有希は督促状の一番下に記載されている電話番号を黙って指差した。異議やご不明な点などがあればお問い合わせくださいと書かれた、その支援機構の窓口へ掛けているようだ。
生前の夫のやらかしを完全に諦めながら、貴美子はキッチンへと席を立つ。電気ケトルに水を足し入れてスイッチを押すと、マグカップ2つにドリップコーヒーをセットする。ほどなくして湧いたお湯をコポコポとゆっくり注ぎ入れれば、キッチンカウンターの中に香ばしい匂いが広がった。
カウンター越しに有希が電話しているのを見ると、督促状の裏に何やら書き込んでいるようだった。
「えっと、では、死亡届を――はい、他に何かは――」
メモを書き終えた有希は、右手に持っていたボールペンをテーブルに置いてからスマホの通話をオフにしていた。そして、いつの間にか目の前に置かれたマグカップを手に取ると、淹れたてのコーヒーを一口だけ飲む。
「お父さんの死亡届を出してくれたらいいって」
「あ、そうなの?」
「うん、本人が亡くなってたら支払い義務は消滅するとからしい」
機関保証制度に加入した奨学金だったらしく、返済義務が完全に移行した保証人である信一の死亡は返済免除に該当するとのことだった。有希は通知書の裏面にメモ書きした住所を母に見せる。
「死亡届はここに送ってって」
「はぁ……良かったわ」
貴美子は大きく安堵の溜め息をついた。今日は朝から何度の溜め息をつかされただろう。まだ湯気の立つコーヒーを一気に口に含んだ。
「有希、ちょっと見て、これ」
前日に遅くまで新案件の提案書を作成していた有希は、少し遅めの朝食をとるつもりで一階に降りた。そして、ダイニングテーブルで険しい顔をして一枚の封書に向き合っていた母に、おはようの挨拶も無しに掴まってしまった。
「え、何?」
「どうしよう……提中さんのとこの奨学金の督促状が届いたのよ」
「提中さんのが何で、うちに?」
「保証人になってくれって、息子さんが大学に入る時に頼まれたのは知ってたけど、断ったはずなのに結局は私に黙って保証人になってあげてたみたい……」
はぁっと呆れを含んだ溜め息をつくと、貴美子は向かいに腰掛けた有希にA4サイズの一枚の紙を見せる。母から受け取った書類にざっと目を通すと、有希は目をぱちくりさせた。
「え、これって最初から返済する気なくない? 最初の三回分しか払ってない……うちに督促状が来たって、提中さんのとこに言えば?」
父が知人から頼まれて保証人になってしまった奨学金は、15年前に400万近くを借りたらしいが、督促状の記載を見る限りたった三回の支払い歴しか残っていなかった。完全な借り逃げ状態でも長い間放置され、今までこちらに連絡が来たことが一度もなかったのが信じられないくらいだ。15年が経過して、その支払い義務が本人から保証人である信一へと移ったというのが今回の通知だった。
勿論、文系私立大で借りることができる最大額を借りた挙句、それを端から返済する気がなかったのが丸分かりで腹立たしい。
「親が返す気ないなら、借りた本人に返させられないの? 息子さんって、私より年上じゃなかった? 働いてたら、本人が払えるでしょう?」
「あの子はもう家出てるらしいし、あそこは親もバラバラだから……」
父が元気だった頃、何度となく見かけたことがある提中。小柄でニコニコと愛想の良い笑顔が印象的なおじさんだった記憶がある。料理人で飲食店を営んでいたと聞いたことがあるが、一度もそのお店に行ったことは無い。あまり繫盛しなかったらしく、開店してすぐに店は奥さんに任せて、自分は信一の会社から日雇いの仕事を回して貰って生活しているというのは聞いたことがあった。
そう言われてみれば、有希が提中を最後に見かけたのは中学生の時まで遡るかもしれない。父の葬儀の時にも姿は見た覚えがない。
「提中さんに連絡できないの?」
「かなり前に若い女の子と家を出たって聞いたきりね。東北に行ったとか聞いた気がするけど、今どこに居るかも知らないわ。家には奥さんと下の子達がまだ居るみたいだけど、奥さんと次男は自己破産したらしいし、お金のことはあの人達に言っても無理」
「……何、それ」
経営難の店を奥さんに丸投げして、自分は店のバイトの女の子と駆け落ちしてしまったという噂だった。あの人当たりの良さそうなおじさんがと、有希はショックで後に続く言葉が出なかった。
面倒見の良過ぎる信一は、生前も何度となく提中夫妻から頼まれてお金を工面してあげることがあった。出来る限り貴美子も揃って一緒に話を聞き、きちんと返済されたかを確認するようにはしていたが、それでも信一だけで受けてしまったことも何度もあったはずだ。
今回の件で、信一が内緒で貸してしまって返って来ていない分もあった可能性が見えてきた。
「奥さんだけがこっそり借りに来られることもあったしね、どっちから頼まれたのかも分からないわ……」
保証人の話は、一度は確かに断ったはずだった。数万円の現金を一時的に貸すのとは訳が違うし、家にもこれから進学する娘がいるのだから、と。それでも、保証人を付ければ無利子で借りれるからと、しつこく頭を下げられた記憶はある。
別に代わりに支払えない額ではないが、どう考えても支払う義理は全く無い。というか、払いたくはない。呆れと怒りを含んだ溜め息が貴美子の口から漏れ出る。
長く督促状と自分のスマホを見比べていた有希が、どこかへ電話を掛け始める。怪訝な顔で娘を見る貴美子に、有希は督促状の一番下に記載されている電話番号を黙って指差した。異議やご不明な点などがあればお問い合わせくださいと書かれた、その支援機構の窓口へ掛けているようだ。
生前の夫のやらかしを完全に諦めながら、貴美子はキッチンへと席を立つ。電気ケトルに水を足し入れてスイッチを押すと、マグカップ2つにドリップコーヒーをセットする。ほどなくして湧いたお湯をコポコポとゆっくり注ぎ入れれば、キッチンカウンターの中に香ばしい匂いが広がった。
カウンター越しに有希が電話しているのを見ると、督促状の裏に何やら書き込んでいるようだった。
「えっと、では、死亡届を――はい、他に何かは――」
メモを書き終えた有希は、右手に持っていたボールペンをテーブルに置いてからスマホの通話をオフにしていた。そして、いつの間にか目の前に置かれたマグカップを手に取ると、淹れたてのコーヒーを一口だけ飲む。
「お父さんの死亡届を出してくれたらいいって」
「あ、そうなの?」
「うん、本人が亡くなってたら支払い義務は消滅するとからしい」
機関保証制度に加入した奨学金だったらしく、返済義務が完全に移行した保証人である信一の死亡は返済免除に該当するとのことだった。有希は通知書の裏面にメモ書きした住所を母に見せる。
「死亡届はここに送ってって」
「はぁ……良かったわ」
貴美子は大きく安堵の溜め息をついた。今日は朝から何度の溜め息をつかされただろう。まだ湯気の立つコーヒーを一気に口に含んだ。