信一の葬儀が済んだ後も、人伝手に悲報を聞いたという父の古い友人知人が仏壇へ手を合わせに訪れては、貴美子に思い出話を語って帰った。旧友だからこそ知る、父の武勇伝や悪事など、それらは長年連れ添って来た妻でさえ聞いたことが無く、死して初めて知ったことも多かった。
「なんで離婚しなかったんやって聞かれたから、全部子供の為って答えたわ」
両親の間に何があったのかまでは聞かなかったが、母は得意げに笑っていた。独身の有希にはまだ知らない方が良さそうな気がしたので、あえて掘り下げて聞かなかった。いつか有希にも分かる日が来るのかと思うと、かなり怖い。
ひっきりなしの訪問客も落ち着いて来た頃、猫達の生活圏の中心もやっと一階へと戻った。他の二匹は割とすぐに下へ降りてくるようになったのだが、人見知りが強くて臆病な性格のナッチだけはご飯とトイレ以外はずっと母の寝室か有希の部屋に籠っていた。
反対に、その母猫のピッチは仏間にある父の遺骨と遺影の前に置かれた仏壇用座布団を気に入ったらしく、日中の大半はその上で丸くなっていた。紫に金の菊柄の座布団は決して猫が寝床にするような物ではないし、そこそこ値段も張る。猫達がその上で寝ころんでいるのを見た母は以前なら怒って仏間から猫を追い出していたが、父が亡くなってからは逆に嬉しそうにしていた。
「ピーちゃん、またお父さんの守りしてくれてるの?」
高い座布団に毛が付いてしまうと、コロコロを片手に発狂していたことが嘘のように、優しい声をかけていた。
猫が仏間の遺影を見て信一だと認識しているとは思えないが、それでも何だか分かっていて敢えてそこにいるのだと思いたくなるのだ。そのくらい、ピッチはいつも父の遺影の前にいた。そしてその光景に家族は随分と慰められた。コタツで横になる父の傍にいつも猫達が集まっていた様子を思い起こさせる。
ただ、ある日を境にピッチがそのお気に入りの座布団の上で何度も吐くようになった。普段から食べ過ぎて吐くことは珍しくはなかったが、その時はなぜか水だけを吐き戻し、高い座布団が水浸しにされた。しかも、吐くのは必ず座布団の上でだった。いつもと違うピッチの様子に有希は慌てて動物病院へ駆け込んだ。
「最近、頻繁に水をドバっと吐くんです」
「猫はよく吐き戻しますし、そんなに心配はないと思いますけどね」
簡単な検査をしても原因と考えられるようなものは何も無かったらしいが、急に毎日のように大量の水を吐くピッチを大丈夫だとは思えず有希は不安になる。そして、まさかと思って聞いてみる。
「最近、家族が亡くなったせいで来客が多くて、猫達にもストレスを与えてしまったと思うんですが――」
「ああ、その可能性はあるかもしれませんね。だとしたら、水を吐くのも一時的だと思いますよ」
年齢の割には血液検査の数値もほとんど問題なく、体重も退院時から変わっていない。水を吐き戻している時以外は、どうにも健康体にしか見えない。だからこそ余計に心配だった。密かに大きな病気を抱えているのではないか、と。
診察台の上にちょこんと座って、獣医からの触診を受けながら白黒猫は平然としていた。飼い主や看護師が押さえなくても診察できるのは、犬でもそんなにはいないと言われたこともあるくらいだ。少しも動じずされるがままのピッチは、診察室を看護師が出入りする度に「ナァー」と鳴いて挨拶をする余裕まで見せていた。
「この子は至って健康ですね。まぁしいて言えば、少し肥満気味ですが、それは前からですし」
吐き続けるようであれば、また診せて下さいと言われただけで、その日の診察は終わった。生活環境が変わったストレスが原因だから、一過性の症状だろうとのことだった。
「ごめんね、ピーちゃん。もうしばらくは法事も無いし、元気になってね」
車の後部座席に猫を入れたキャリーを乗せながら、中のピッチへと声を掛ける。不思議そうに有希の顔を覗き込んだ後、ピッチはキャリーの柵に頭を擦り寄せていた。
父が体調を崩す度に夜中にバタバタと出掛けたり、いつも居るはずの家族が居なくなったかと思ったら、次々に知らない人が家を出入りするようになったりしていたのだ。二階に逃げ込んでいても、階下から聞こえてくる他人の声に猫達が受けたストレスは大きかったのだろう。
人懐っこいピッチでさえ、急激な環境の変化は辛かったはずだ。
四十九日も終わり、母と二人だけの生活にも慣れ始めてくると、猫が水を吐くことは無くなった。相変わらずピッチは仏間の座布団を気に入っているようだったので、紫の座布団は完全に猫用になり、母は新たに赤色の仏壇用座布団を買い直していた。
6月の第三日曜日、有希はPCを立ち上げて仕事をしながら疑問に思う。
――母の日は亡くなった母親には白いカーネーションっていうのは知ってるけど、亡くなった父親には何を送るんだろ?
意外と知らなかったので早速ググってみると、親が亡くなっている場合の父の日は白薔薇だと書かれていた。白薔薇――実際にはあまり見たことが無いなと思いながら、すぐに薔薇の種類の多そうな花屋を検索する。探してみると、薔薇農家直営の店が割と近くにあることが分かり、電話で予約をして白薔薇だけの花束をお願いした。
真っ白の薔薇ばかりの花束はとても繊細でいて、厳かだった。助手席に積み込むと一瞬で車内に薔薇の甘い香りが広がった。30本の白薔薇は母によって半分を仏間の床の間に、残りの半分は玄関に飾られた。父の日だからと買い求めたつもりだったが、父の代わりに受け取った母の驚き喜ぶ顔も見ることができたし買ってきて正解だった。
「有希が父の日だからって買って来たのよ」
来客がある度に、母は玄関に飾られた白薔薇のことを話題にしていた。「ネットで調べたら、亡くなった父親には白薔薇だったらしくてね」と。
何なら、前月の母の日のプレゼント以上の喜び様だったかもしれない。
「なんで離婚しなかったんやって聞かれたから、全部子供の為って答えたわ」
両親の間に何があったのかまでは聞かなかったが、母は得意げに笑っていた。独身の有希にはまだ知らない方が良さそうな気がしたので、あえて掘り下げて聞かなかった。いつか有希にも分かる日が来るのかと思うと、かなり怖い。
ひっきりなしの訪問客も落ち着いて来た頃、猫達の生活圏の中心もやっと一階へと戻った。他の二匹は割とすぐに下へ降りてくるようになったのだが、人見知りが強くて臆病な性格のナッチだけはご飯とトイレ以外はずっと母の寝室か有希の部屋に籠っていた。
反対に、その母猫のピッチは仏間にある父の遺骨と遺影の前に置かれた仏壇用座布団を気に入ったらしく、日中の大半はその上で丸くなっていた。紫に金の菊柄の座布団は決して猫が寝床にするような物ではないし、そこそこ値段も張る。猫達がその上で寝ころんでいるのを見た母は以前なら怒って仏間から猫を追い出していたが、父が亡くなってからは逆に嬉しそうにしていた。
「ピーちゃん、またお父さんの守りしてくれてるの?」
高い座布団に毛が付いてしまうと、コロコロを片手に発狂していたことが嘘のように、優しい声をかけていた。
猫が仏間の遺影を見て信一だと認識しているとは思えないが、それでも何だか分かっていて敢えてそこにいるのだと思いたくなるのだ。そのくらい、ピッチはいつも父の遺影の前にいた。そしてその光景に家族は随分と慰められた。コタツで横になる父の傍にいつも猫達が集まっていた様子を思い起こさせる。
ただ、ある日を境にピッチがそのお気に入りの座布団の上で何度も吐くようになった。普段から食べ過ぎて吐くことは珍しくはなかったが、その時はなぜか水だけを吐き戻し、高い座布団が水浸しにされた。しかも、吐くのは必ず座布団の上でだった。いつもと違うピッチの様子に有希は慌てて動物病院へ駆け込んだ。
「最近、頻繁に水をドバっと吐くんです」
「猫はよく吐き戻しますし、そんなに心配はないと思いますけどね」
簡単な検査をしても原因と考えられるようなものは何も無かったらしいが、急に毎日のように大量の水を吐くピッチを大丈夫だとは思えず有希は不安になる。そして、まさかと思って聞いてみる。
「最近、家族が亡くなったせいで来客が多くて、猫達にもストレスを与えてしまったと思うんですが――」
「ああ、その可能性はあるかもしれませんね。だとしたら、水を吐くのも一時的だと思いますよ」
年齢の割には血液検査の数値もほとんど問題なく、体重も退院時から変わっていない。水を吐き戻している時以外は、どうにも健康体にしか見えない。だからこそ余計に心配だった。密かに大きな病気を抱えているのではないか、と。
診察台の上にちょこんと座って、獣医からの触診を受けながら白黒猫は平然としていた。飼い主や看護師が押さえなくても診察できるのは、犬でもそんなにはいないと言われたこともあるくらいだ。少しも動じずされるがままのピッチは、診察室を看護師が出入りする度に「ナァー」と鳴いて挨拶をする余裕まで見せていた。
「この子は至って健康ですね。まぁしいて言えば、少し肥満気味ですが、それは前からですし」
吐き続けるようであれば、また診せて下さいと言われただけで、その日の診察は終わった。生活環境が変わったストレスが原因だから、一過性の症状だろうとのことだった。
「ごめんね、ピーちゃん。もうしばらくは法事も無いし、元気になってね」
車の後部座席に猫を入れたキャリーを乗せながら、中のピッチへと声を掛ける。不思議そうに有希の顔を覗き込んだ後、ピッチはキャリーの柵に頭を擦り寄せていた。
父が体調を崩す度に夜中にバタバタと出掛けたり、いつも居るはずの家族が居なくなったかと思ったら、次々に知らない人が家を出入りするようになったりしていたのだ。二階に逃げ込んでいても、階下から聞こえてくる他人の声に猫達が受けたストレスは大きかったのだろう。
人懐っこいピッチでさえ、急激な環境の変化は辛かったはずだ。
四十九日も終わり、母と二人だけの生活にも慣れ始めてくると、猫が水を吐くことは無くなった。相変わらずピッチは仏間の座布団を気に入っているようだったので、紫の座布団は完全に猫用になり、母は新たに赤色の仏壇用座布団を買い直していた。
6月の第三日曜日、有希はPCを立ち上げて仕事をしながら疑問に思う。
――母の日は亡くなった母親には白いカーネーションっていうのは知ってるけど、亡くなった父親には何を送るんだろ?
意外と知らなかったので早速ググってみると、親が亡くなっている場合の父の日は白薔薇だと書かれていた。白薔薇――実際にはあまり見たことが無いなと思いながら、すぐに薔薇の種類の多そうな花屋を検索する。探してみると、薔薇農家直営の店が割と近くにあることが分かり、電話で予約をして白薔薇だけの花束をお願いした。
真っ白の薔薇ばかりの花束はとても繊細でいて、厳かだった。助手席に積み込むと一瞬で車内に薔薇の甘い香りが広がった。30本の白薔薇は母によって半分を仏間の床の間に、残りの半分は玄関に飾られた。父の日だからと買い求めたつもりだったが、父の代わりに受け取った母の驚き喜ぶ顔も見ることができたし買ってきて正解だった。
「有希が父の日だからって買って来たのよ」
来客がある度に、母は玄関に飾られた白薔薇のことを話題にしていた。「ネットで調べたら、亡くなった父親には白薔薇だったらしくてね」と。
何なら、前月の母の日のプレゼント以上の喜び様だったかもしれない。