広瀬信一の呼吸が止まってからは病室内が一気に慌ただしくなった。ナースステーションで心電図を確認していたらしき医師や看護師が死亡確認の為に入って来た後、父の遺体処理があるからと有希達は荷物を持って病室を出るように指示された。

「広瀬さん、葬儀屋さんはどうされるか決めておられますか?」
「はい。知り合いのところにお願いしようと思ってます」
「そうですか。一応、詰所の方にも葬儀屋さんのリストがあるので、もし必要なら声掛けて下さいね」

 既に母は葬儀を任せる会社も決めていたことに、有希は心底驚いた。病院から自宅への遺体の搬入を頼まないといけないと、母は談話スペースにある公衆電話にメモとテレカを持って向かった。
 後で聞いたら、取引先の一つに葬儀社も経営しているところがあって、今後の付き合いのことも考えてそこに頼むと前もって決めていたという。

 電話を終えた母は病室前で待つ有希のところへ戻ってくると、一枚の紙とテレカを手渡す。

「私は詰所に呼ばれてるから、ここに電話していってくれる? お願いしますって言うだけで伝わるから。あと、お姉ちゃんにもまだ連絡してないから、お願い」
「うん、分かった」

 渡された紙には主要な親戚の名前と電話番号が書かれていた。父が亡くなったことを知らせ、葬儀などの手伝いに集まって貰う為のリストだった。
 母はいつから、どんな思いをしながらこのリストを作っていたのだろうか。夫と死別する覚悟の大きさに有希は静かに頷くことしかできなかった。

 すでに深夜2時前だったが、由依の自宅の電話はたった2コールで受話器が上がった。

「さっき、お父さんが亡くなったよ……」
「……分かった。私はどうすればいい? 病院に行ったらいい?」
「もう私達も病院を出なきゃいけないし、家に行って玄関を開けておいて欲しい。これから親戚に連絡していくから、きっとすぐに家に集まってくるから」
「分かった。家に行ったらいいのね」

 義兄に子供達を預けてすぐに行くという由依に、これから集まってくるだろう親戚の出迎えを頼む。互いに鼻をすすった泣き声だったが、必要最低限の連絡だけで電話を切った。

「夜分にすみません。広瀬です。先程、父の信一が亡くなりましたので、よろしくお願いします」

 父が入院していることは親戚の大半がすでに知っていたので、それだけで十分に伝わった。そうでなくても深夜のいきなりの電話だ、どの家もすぐに察してくれた。勿論、中には父の体調のことを知らなかった人もいて、「なんでや? なんでや?」とパニック状態で問われることもあったが。

 母の手書きのリストを不通だった2件だけ残して連絡し終えると、有希はスマホで雅人へとメールを送った。

『お父さんが亡くなったので、今から家に帰ります』
『そっか。もう夜遅いから、運転には気を付けてね』

 深夜なのにすぐに返信が届いた。有希のことを気にしてスマホを傍に置いておいてくれたのだろうか。上辺だけの中途半端な慰めの言葉なども無く、父の死には触れないのが雅人の優しさだろう。

 帰る途中、病院の階段で木下医師とすれ違った。担当患者だった信一が亡くなったから、休みのところを呼び出されたのだろうか。私服姿で脇にバイク用のヘルメットを抱えた主治医は、有希のことに気付くと静かに頭を下げてくれ、有希も同様に黙って頭を下げ返した。

 自宅に着くと、由依によって家の玄関には明かりが灯され、中からは数人の話し声が聞こえていた。すでに駆け付けてくれた近所に住んでいる親戚達に囲まれて、有希は父の病状と最期について大まかに説明する。
 ついでに電話が繋がらなかった2件のことを話すと、父の従兄弟が「直接言いに行ってくるわ」と家に伝えに出てくれた。

「で、お父さんは? 有希は一人なの?」
「お父さんとお母さんは葬儀屋さんの車で帰ってくるって。お父さんの布団、どうしたらいいんだろ……」

 自宅葬なのは聞いていたが、父が棺に入る前に横になる布団すら分からない。結局、母が戻って来ないことには何の準備もできなかった。
 葬儀屋のワンボックスカーが自宅前に到着すると、母は手際よく押し入れから一組の布団を出すと仏間に敷いた。予めにどれを使うかも決めて用意していたのだろう、それらはすぐ取り出せるように収納されていた。

「あ、有希の布団だ」

 白いシーツに透けて見えた赤い花柄の布団は、有希が高校生の頃まで使っていた物だった。棺に入れて貰った後は捨てることになる布団だから古い物を準備していたのだろうが、まさか自分が使っていた物が出てくるとは思わず、有希は目頭がじんわりと熱くなる。

「うん、有希のならお父さんも喜ぶわ」

 由依は納得したように頷いていた。時には腹が立つくらいの次女贔屓だった父のことだ、ご機嫌で眠ってくれるだろう。

 葬儀に関しては後から遅れてやって来た本家のおじさんが主体となって葬儀屋と打ち合わせてくれていたので、有希は父の最期の様子を由依に話して聞かせた。互いに泣きながらも、全部覚えている限りに話した。

「次の土曜に、私も付き添いを代わろうと思ってたのに……」

 悔しそうに話す姉は、夜に寝る前に嫌な予感がしたらしく、自宅の固定電話に向かって「絶対に鳴るな!」と指さして忠告していたという。だから電話が鳴った時には「ああ、やっぱりか」と覚悟を決めたらしかった。

 通夜と告別式の日取りが決まると、集まってくれていた親戚達は各々の家へと戻って行った。通夜は一日置いてから執り行うことになったので、次に集まってくるのは昼過ぎか。徹夜の続いた母がいつ倒れてもおかしくないくらいに真っ白な顔をしていたので、とにかく今日はゆっくり休もうと話すと、有希もさっとシャワーを浴びてから自室へ向かう。
 ずっと気配の無かった猫達は、有希のベッドの上で重なるように身を寄せ合って丸くなっていた。

「ごめんね。お父さんが死んじゃったから、しばらくはバタバタすると思うよ」

 順に撫でてあげると、三匹はピクピクと耳を動かして有希の話を聞いているようだった。翌日は朝一で、猫用のトイレとご飯を二階へと移動させ、クロ達が下に降りなくて済むよう準備した。